天理教教祖伝登場人物一覧

天理教教祖伝

天理教教祖伝に登場する、先人先輩方の氏名と略歴をまとめたものになります。

注意

まだまだ未完成ですので、何か間違えやご不明点などございましたら、コメントで教えてくださると助かります。

【パワーアップ】天理教八生兵庫分教会の公式LINEアカウントがついに登場!

他にも「天理教教祖伝逸話篇」の人物もわかりやすく、50音順でわかりやすいように分けております。

ぜひご活用ください!

逸話篇天理教教祖伝【逸話篇】登場人物

足達源四郎(足達照之丞)

庄屋敷村(現・天理市三島町)の人。幼名を足達照之丞元服して源右衛門貞秀、明治になって源四郎と改めた。
文政11年(1828)5月13日生まれで、明治32年(1899)8月24日72歳没。

天理教人名辞典 足達源四郎(足達照之丞)あだちげんしろう 

足達重助

庄屋敷村(現・天理市三島町)の人。重助の没年は未詳。

天理教人名辞典 足達重助 あだちじゅうすけ  

足達秀治郎

現・天理市指柳町82番地、父堀内源垂郎(旧名源右衛門、明治9年4月67歳没)、母シソ(大正7年1月95歳没)の男子4人兄弟の二男として、嘉永2年(1849)生まれで昭和3年(1928)9月17日79歳没。
庄屋敷村(現・天理市三島町)足達源四郎の長女ケイ(嘉永5年生まれ、昭和12年5月24日85歳没)の婿養子となる。

足達秀治郎 あだちひでじろう

飯田善六

東安堵村の人。飯田岩治郎の父(養父)。

飯田岩治郎の生い立ちと略歴

石崎正基
明治18年(1885年)の教会設置運動に加わった人物。途中で逃亡。

天理教人名辞典 石崎正基 いしぎきまさもと

泉田藤吉
天保11年(1840年)現大阪市東成区大今里生まれ。明治10年(1877)自らの胃がんと子供の風邪の長患いをたすけられ以後、大阪、九州で熱烈な布教を展開した。中津大教会初代会長。同37年、65歳で出直し。

天理教人名辞典 泉田藤吉 いずみだとうきち

飯降伊蔵(本席)
天保4年(1833)現奈良県宇陀郡室生村向渕生まれ。元治元年(1882)一家で中山家に住み込み、のちに本席となる。同40年、75歳で出直し。

本席・飯降伊蔵先生のプロフィールと略歴

石西計治
弘化3年(1846)生まれ。明治44年(1911)66歳で出直し。

天理教人名辞典 石西計治 いそにしけいじ

板倉槌三郎
万延元年(1860)現大阪府八尾市恩智生まれ。明治9年(1876)17歳の時、教理に感動して入信。昭和12年(1937)78歳出直し。

天理教人名辞典 板倉槌三郎 いたくらつちさぶろう

市兵衛
中野市兵衛。寛政4年(1972)生まれ。中山家で寄加持を行った修験者。真言宗当山派の十二先達と称された中の1人と伝えられる。中山家から東へ約8キロにある現天理市長滝村の人。明治3年(1870)79歳でお出直し。

天理教人名辞典 市兵衛 いちべえ(中野市兵衛)

井筒梅治郎
天保9年(1838)現大阪市西区本田町生まれ。明治12年(1879)長女たね「百いぼ」をたすけられ入信。真明組(芦津大教会の前身)講元。同29年、59歳で出直し。

井筒梅治郎先生の生い立ちと入信~真明組結成まで

稲尾某
明治7年(1874)当時、奈良県庁の社寺掛を務めていた人物。

天理教人名辞典 稲尾某 いなおぼう

稲葉正邦
天保5年(1834)現福島県二本松市生まれ。神道本局初代官長。明治31年(1898)65歳で出直し。

天理教人名辞典 稲葉正邦 いなばまさくに


庄屋敷村の乾源助宅

茨木基敬
安政2年(1855)現大阪市北区生まれ。松本佐兵衛の次男、のちに茨木家に養子入籍。明治15年(1882)次女良久子の病をたすけられ入信。天地組講元、北大教会初代会長。大正7年(1918)本部役員免職。昭和4年(1929)75歳で出直し。

天理教人名辞典 茨木基敬 いばらぎもとよし

飯降さと
天保5年(1834)現奈良県桜井市小夫生まれ。飯降伊蔵の妻。明治26年(1893)60歳で出直し。

天理教人名辞典 飯降さと いぶりさと

飯降政甚
明治7年(1874)現天理市櫟本町生まれ。飯降伊蔵の次男。昭和12年(1937)64歳で出直し。

天理教人名辞典 飯降政甚 いぶりまさじん

飯降よしゑ
慶応2年(1886)現天理市櫟本町生まれ。飯降伊蔵の長女。教祖から最初に女鳴物の三味線を教えられる。明治20年(1887)上田楢治郎と結婚、永尾家創設。昭和11年(1936)71歳で出直し。

天理教人名辞典 飯降よしゑ いぶりよしえ

今園国映
芝山国典の次男。明治2年(1869)家名を今園と称す。同17年、男爵を授けられる。同18年、この人物を担任として、大阪府へ教会設置の願書を提出したが、却下された。

天理教人名辞典 今園国映 いまぞのくにはえ

上田いそ
上田平治の妻。山田良治郎の妹。教祖のそばに仕え、明治20年(1887)陰暦正月26日には、女性で唯一、「かぐらづとめ」の手振りを勤めた。同27年、59歳で出直し。

天理教人名辞典 上田いそ うえだいそ

上田嘉治郎
天保元年(1830)現奈良市古市町生まれ、明治9年(1876)四女ナライトの気の病から入信。同28年、66歳で出直し。

天理教人名辞典 上田嘉治郎 うえだかじろう

上田ナライト
文久3年(1863)現天理市園原町生まれ。嘉治郎の四女。教祖から最初に女鳴物の胡弓を教えられる。明治12年(1879)教祖の妹分として、中山家に引き寄せられる。以後。「一身暮らし」として神様の御用をするようになる。本席出直しのあと、おさづけを渡す。昭和12年(1937)75歳で出直し。

上田ナライト先生のプロフィールと略歴

植田平一郎
弘化3年(1846)現奈良県大和高田市池田生まれ。万田平次郎の長男、のち植田家に養子入籍。明治19年(1886)右手の親指のヒョウソをたすけられ入信。治心講池田組(中和大教会前身)講元。同35年、57歳で出直し。

天理教人名辞典 植田平一郎 うえだへいいちろう

上田平治
現奈良県桜井市大西の人。元治元年(1864)義姉山中そののたすかりから入信。明治27年(1894
)64歳で出直し。

天理教人名辞典 上田平治 うえだへいじ

上原佐吉
文化13年(1816)現岡山県笠岡市生まれ。笠原儀七の長男、のち上原家創設。明治13年(1880)教理に感じて入信。同23年、75歳で出直し。

天理教人名辞典 上原佐吉 うえはらさきち

上村吉三郎
天保9年(1838)現奈良県桜井市倉橋生まれ。明治18年(1885)前年に足のけがをたすけられたことから入信。心勇講2代講元、敷島大教会初代会長。同28年、58歳で出直し。

天理教人名辞典 上村吉三郎 うえむらきちさぶろう

上村行業
明治15年(1882)当時の大阪府警部奈良警察署長。

内海正雄
神道権中教正。明治19年(1886)神道本局から中山家(同局直轄6等教会)に取り調べにきた1人。同21年の天理教会設立認可の際に尽力。

天理教人名辞典 内海正雄 うつみまさお

宇平
中山家の男衆。

梅谷四郎兵衛
弘化4年(1847)現大阪府羽曳野市東阪田生まれ。明治14年(1881)兄浅七の眼病から入信。明心組(船場大教会の前身)講元。大正8年(1919)73歳で出直し。

【登場回数順】教祖伝逸話篇登場人物まとめ!

栄太郎
現奈良県桜井市芝の人。元治元年(1864)つとめ場所普請棟上げの際に、大豆越村・山中家へ赴いた1人。

大東重兵衛
現奈良県生駒郡平群町の人。明治7年(1874)教祖山村御殿へ赴いた際のお供の1人。

天理教人名辞典 大東重兵衛 おおひがしじゅうべえ

音吉
飯降伊蔵の大工の最後の弟子、明治15年(1882)伊蔵一家とともに中山家に移り込む。

梶本松治郎
安政4年(1857)現天理市櫟本町生まれ。梶本惣治郎の次男。慎之亮の兄。明治24年(1891)35歳で出直し。

梶本はる
天保2年(1831)生まれ。教祖の三女。梶本惣治郎に嫁ぐ。初代真柱・中山眞之亮の実母。明治5年(1872)42歳で出直し。

天理教人名辞典 梶本はる かじもとはる

亀蔵
梶本亀蔵。安政元年(1854)現天理市櫟本町生まれ。おはるの長男。万延元年(1860)7歳で夭折。

天理教人名辞典 亀蔵 かめぞう

梶本惣治郎
文政10年(1827)現天理市櫟本町生まれ。教祖の三女おはるの夫。初代真柱の実父。明治20年(1887)61歳で出直し。

天理教人名辞典 梶本惣治郎 かじもとそうじろう

梶本ひさ
文久3年(1863)現天理市櫟本町生まれ。梶本惣治郎の娘。眞之亮の姉。教祖最後のご苦労(櫟本分署)の際、明治20年(1887)現身おかくしの折、付き添う。20年、山澤為造と結婚。昭和7年(1932)70歳で出直し。

かの
中山家の女衆。

川端義観
明治15年(1882)の金剛山地福寺よりの「差入申証券」に「嶺明代理」として署名のある人物。

勘兵衛
現奈良県桜井市の人。元治元年(1864)つとめ場所普請棟上げの際に、大豆越村・山中家へ赴いた1人。

喜三郎
元治元年(1864)に教祖から「扇のさづけ」を頂き、慶応3年(1867)には教祖直々に「おつとめ」の地歌と手振りを教わった。前川喜三郎のことだと思われる。

岸甚七
元治元年(1864)大和神社事件のとき、櫟本村の庄屋の代理として、事件解決に尽力した人物。

岸本久太郎
現大阪市西区阿波座の人。明心組の信者。明治14年(1881)9月の教祖のご苦労の際、秀司名義に宿に止宿していた1人。

天理教人名辞典 岸本久太郎 きしもときゅうたろう

喜多治郎吉
嘉永5年(1852)現奈良県大和郡山市伊豆七条村生まれ矢追和市郎の三男。明治元年(1868)眼病から入信。同10年、喜多家に養子入籍。誠心講(治道大教会の前身)講元。大正6年(1917)66歳で出直し。

北田嘉一郎
現天理市三島町の人、「ふく病」という病気をたすけられ入信したと伝えられる。

儀兵衛
現天理市小路町の人。つとめ場所普請の際に、守目堂村の瓦屋へ瓦を注文。明治23年(1890)出直し。

木村正則
明治15年(1882)の金剛山地福寺よりの「差入申証券」に「全寺納所」として署名のある人物。

久太郎
現奈良県桜井市芝の人。元治元年(1864)つとめ場所普請棟上げの際に、大豆越村・山中家へ赴いた1人。

倉女
現奈良県桜井市大西の人。元治元年(1864)つとめ場所普請棟上げの際に、大豆越村・山中家へ赴いた1人。

鴻田忠三郎
文政11年(1828)現大阪府羽曳野市向野生まれ。高谷利衛門の四男、のち鴻田長七に養子入籍。明治15年(1882)次女りきの眼病から入信。大阪府の農業通信員をおしていて新潟に道を伝える(のちに新潟大教会誕生)。山沢良治郎の出直し後、中山家の後見役を務める。同36年、76歳で出直し。

小島盛可
嘉永2年(1849)生まれ。大神分教会会長。明治19年(1886)38歳で出直し。

小東政太郎
現奈良県生駒郡平群町平等寺の人。中山まつゑの弟。父政吉が母とみの癪の患いから入信。

小松駒吉
慶応元年(1865)現大阪市中央区瓦屋町生まれ。明治15年(1882)コレラで重体のところをたすけられ入信。天恵組五番講元、御津大教会初代会長。昭和9年(1934)70歳で出直し。

駒村顕夫
嘉永6年(1853)生まれと伝えられる。駒村家は代々、丹波市村の庄屋を務めた家柄。

佐藤某
明治7年(1874)教祖が山村御殿へ赴いた際のお供の1人。

沢田権治郎
弘化3年(1846)現天理市海知町生まれ。妻ふじゑの産後の患いをたすけられ入信。明治15年(1882)10月の教祖のご苦労の際に、奈良警察署へと差し入れに行った1人。大正13年(1924)79歳で出直し。

沢田義太郎
現天理市石上町生まれ。明治10年(1877)当時の丹波市村事務所の人で、同年5月、中山家の神前の物を封印。

七次郎
横田七次郎。かんろだいの石普請に携わった石工。

石工・七次郎の行方不明の原因やかんろだいの石普請を思案する

清水(巡査)
明治16年(1883)当時の丹波市分署の巡査。

清水惣助
現天理市三島町の人。安政5年(1858)入信。

清水ゆき
清水惣助の妻。教祖から初期にをびや許しを頂いた1人。

清水与之助
天保13年(1842)現滋賀県高島郡安曇川町生まれ。明治16年(1883)兄・伊三郎の持病「疝気」をたすけられ入信。兵庫真明講(兵神大教会の前身)講元。同34年、60歳で出直し。

庄作
慶応3年(1867)当時庄屋敷村年寄。吉田神祇官領へ公許を願い出た際に願書に連名。

助造
眼病をたすけられ入信したが、慶応元年(1865)異説を唱える。「針ケ別所村史」には、今井真治郎の名で語られ、天保2年(1831)生まれ、明治24年(1891)61歳で没したとある。新治郎は助造の息子との説もある。

【助造事件考察】反対攻撃と異端の違い・異端が許されない理由とは?

そよ
中山家での加持台をつとめた女性。勾田村(現天理市勾田町)の人と伝えられる。

高井直吉
文久(1861)現大阪府八尾市老原生まれ。明治12年(1879)悪性の風邪「ぜいき」をたすけられ入信。昭和16年(1941)81歳で出直し。

竹内未誉至
天恵組二番の信者で、大阪府の刑事と言われる。

辻忠作
天保7年(1836)現天理市豊田町生まれ。教祖の三女はるの縁談の仲人をしたのが父忠作で、その子忠作が文久3年(1863)妹くらの気の病をたすけられ入信。祖父・父と三代続いて忠作を名乗った。明治38年(1905)70歳で出直し。

辻こよ
三代目忠作の姉。教祖が裁縫を教えられたお針子の1人。その関係で教祖三女おはるが梶本家に嫁した。

辻くら
三代目忠作の妹。くらの気の病のたすけを願って、辻家は入信。

辻とめぎく
明治3年(1870)現天理市豊田町生まれ。三代目忠作の娘。教祖から女鳴物の琴を習う。同43年、41歳で出直し。

辻ます
三代目忠作の妻、明治17年(1884)出直し。

寺田半兵衛
天保8年(1837)大阪府東区平野町生まれ。明治16年(1883) 長男の結核から入信。天水組(綱島分教会の前身)講元。同40年、71歳で出直し。

土佐卯之助
安政2年(1855)現山口県防府市向島生まれ。明治11年(1878)心臓脚気
をたすけられ入信。同14年、航海中の危機をたすけられ道一条となる。阿波真心組(撫養大教会の前身)講元。昭和3年(1928)74歳で出直し。

外島市太郎
三輪村(現奈良県桜井市三輪)の通称「木屋天」と呼ばれた博徒。

中尾休治郎
現奈良県生駒郡平群町超木塚の人。

長尾
教祖の実家きぬの実家。

仲田かじ
仲田儀三郎の妻。産後の患いをたすけられ入信。

仲田儀三郎
天保2年(1831)現天理市豊田町生まれ。文久3年(1863)妻かじの産後の患いから入信。明治19年(1886)厳寒の櫟本警察分署に10日間入牢、出所間まもなく56歳で出直し。

中台勘蔵
天保11年(1840)現東京都中央区日本橋生まれ。明治19年(1886)持病の神経痛をおたすけられ入信。日本橋大教会初代会長。同27年、55歳で出直し。

仲野秀信
嘉永5年(1852)奈良県大和郡山市小泉町生まれ。元大和小泉藩の藩士。教祖に接し、感じ入って入信。大正12年(1923)72歳で出直し。

中山きぬ
教祖の姑、教祖の父である前川半七正信の妹。文政11年(1828)出直し。

中山こかん
天保8年(1837)生まれ。教祖の五女。貧のどん底を教祖と共にし、のち”若き神”として教祖と人々との間の取次の役を果たした。明治8年(1875)39歳で出直し。

中山重吉
教祖の長女まさの次男。母まさと共に中山家に復縁。中山家の近くで宿屋営業。諸国から帰ってくる信者の定宿となっていた。

中山秀司
幼名、善右衛門。文政4年(1821)生まれ。教祖の長男。教祖のもとで艱難苦労を共にする。明治14年(1881)61歳で出直し。

中山眞之亮
慶応2年(1866)現天理市櫟本町生まれ。梶本惣治郎と教祖三女おはるの三男。15歳のときに中山家に移る。明治15年(1882)中山家の家督相続。後に初代真柱となる。大正3年(1914)49歳で出直し。

中山善右衛門
教祖の舅。文政3年(1820)62歳で出直し。

中山善兵衛
天明8年(1788)生まれ。教祖の夫。嘉永6年(1853)66歳で出直し。

中山たまへ
明治10年(1877)生まれ。教祖の内孫。中山秀司の子。同23年、眞之亮と結婚。昭和13年(1938)62歳で出直し。

中山つね
天保4年(1833)生まれ。教祖の四女。同6年(1835)3歳で夭折。

中山おはる
天保2年(1831)生まれ。教祖の三女。梶本惣治郎に嫁ぐ。初代真柱・中山眞之亮の実母。明治5年(1872)42歳で出直し。

中山おまさ
文政8年(1825)生まれ。教祖の長女。豊田村の福井治助に嫁ぐが、明治11年(1878)復籍、分家。同28年、71歳で出直し。

中山まつゑ
嘉永4年(1851)現奈良県生駒郡平等寺生まれ。小東家から中山秀司に嫁ぐ、明治15年(1882)32歳で出直し。

中山やす
文政10年(1827)生まれ。教祖の次女。天保元年(1830)4歳で夭折。

西浦弥平
弘化元年(1844)現天理市園原町生まれ。明治7年(1874)長男楢蔵のジフテリアをたすけられ入信、本席からおさづけを頂いた最初の人。同32年、56歳で出直し。

西尾ゆき
現奈良県大和郡山市伊豆七条町の人。夫の中風をたすけられ入信。中山たまへ誕生の際に、教祖のお供として平等寺村の小東家へと赴いた。

西田伊三郎
文政9年(1826)現奈良県大和郡山市櫟枝町生まれ。文久元年(1861)ごろ、妻コトの歯痛から入信。明治27年(1894)69歳で出直し。

西田佐兵衛
明心組の信者。明治17年(1884)竹内未誉至らの起こした「天輪教会」設立運動の際、竹内側に流れ、一時明心組を離れたがのち復帰。

博多藤平
明治16年(1883)三島村で雨乞いづとめに参加したうちの1人。

萩村
別所村の村役。善兵衛の役友達の1人。

橋本清
現奈良県桜井市の人、元丹波市石上尋常小学校の教諭。教員時代に眞之亮と親交があり、後におやしきの勤めに従事するようになる。明治30年(1897)離脱。

長谷与吉
明治14年(1881)9月の教祖のご苦労のときに、秀司名義の宿に止宿していたうちの1人。

服部庄左衛門
慶応3年(1867)吉田神祇官領への出願に際し、古市代官所へ提出した添書願の宛名の人物。

原某
大和神社の神職。明治7年(1874)5月15日改めの神官一覧の名にある「大和神社袮宜兼権中講義原忠慎」のことか。

平野楢蔵
弘化2年(1845)現大阪府八尾市恩智生まれ。森石松の長男、のちに平野家に養子入籍。侠客「恩智楢」として名を馳せていたが、明治18年(1885)神経病をたすけられ入信。天龍講(郡山大教会の前身)講元。同40年、63歳で出直し。

深谷源次郎
天保14年(1843)現京都市東山区古川町生まれ。明治14年(1881)教理の明朗さに感じて入信。翌年、目の負傷をたすけられ、本格的に進行を始める。斯道会(河原町大教会の前身)講元。大正12年(1923)81歳で出直し。

福井治助
文政13年(1816)生まれ。教祖の長女まさと結婚。のちに離縁。明治11年(1878)63歳で出直し。

伏見宮文秀女王
弘化元年(1844)生まれ。孝明天皇の養女。明治7年(1874)教祖が円照寺に出向いた際の同寺の門跡。

藤村成勝
真明組の信者で、元軍隊の軍曹であったと言われる。

古川豊彭
平田派の国学者。天保2年(1831)生まれ。神道権中教正。明治19年(1886)神道官長稲葉正邦の代理として、中山家に取り調べにきた人物。同22年、出直し。

古川文吾
天保6年(1835)生まれ。並松村の医者。

平右衛門
慶応3年(1867)当時庄屋敷村の年寄。吉田神祇官領への公許を願い出た際に願書に連名。

兵四郎
現奈良県桜井市大西の人。元治元年(1864)つとめ場所普請棟上げの際に、大豆越村・山中家へ赴いた1人。

前川半三郎
教祖の弟。後に、久しく嫡子がなかった杏助の準養子となり、前川家の家督を相続。明治31年(1898)84歳で出直し。

前川菊太郎
慶応2年(1866)生まれ。教祖の兄・杏助の孫。大正2年(1913)48歳で出直し。

前川半七正信
教祖の父。領主から無足人に列せられて名字帯刀を許され、大庄屋をも務めた。天保11年(1840)76歳で出直し。

前川喜三郎
天保5年(1834)現奈良県磯城郡田原本町法貴生まれ。文久3年(1863)妻竹の癪の病から入信。心実組(城法大教会の前身)講元。明治27年(1894)61歳で出直し。

前川きぬ
教祖の母。弘化元年(1844)73歳で出直し。

前川杏介
教祖の兄。教祖の依頼で初めてかぐら面を制作する。明治5年(1872)80歳で出直し。

蒔村(署長)
明治16年(1883)当時の丹波市分署の署長。

桝井伊三郎
嘉永3年(1850)現奈良県大和郡山市伊豆七条村生まれ。文久3年(1863)母キクが夫伊三郎のゼンソクをたすけられ入信。翌元治元年、母の危篤をたすけられ、15歳の伊三郎は熱心に信仰を始める。明治43年(1910)61歳で出直し。

増井とみゑ
慶応3年(1867)現大阪府柏原市大県生まれ。増井りんの長女。明治10年(1877)、教祖直々に女鳴物を教わった1人。控えであった。同41年、42歳で出直し。

増井りん
天保14年(1843)現大阪府柏原市大県生まれ。明治7年(1874)「りゅういん癪」と両目の失明をたすけられ入信。大縣大教会の礎を築き、教祖と本席のお守り役を務める。女性でただ1人本部員となる。昭和14年(1939)97歳で出直し。

増田甚七
文久3年(1863)現奈良県磯城郡田原本町生まれ。昭和3年(1928)66歳で出直し。

増野正兵衛
嘉永2年(1849)現山口県萩市生まれ。明治17年(1884)妻いとの眼病と自身の脚気をたすけられ入信。大正3年(1914)66歳で出直し。

松尾市兵衛
天保6年(1835)現奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺生まれ。野口吉平の長男。後に松尾家に養子入籍。慶応2年(1866)妻はるの産後の患いから入信。明治12年(1879)45歳で出直し。

松田音次郎
弘化元年(1844)現大阪府八尾市刑部生まれ。明治13年(1880)ごろ、友人のたすかりと「みかぐらうた」に感じて入信。大正7年(1918)75歳で出直し。

松田利平
文政6年(1823)現奈良県磯城郡本町小阪生まれ。明治36年(1903)71歳で出直し。

松村栄治郎
天保13年(1842)現大阪府は押し教興寺生まれ。明治4年(1842)妻さくの「たちやまい」をたすけられ入信。同22年、48歳で出直し。

松村さく
弘化3年(1846)現奈良県生駒郡平群町平等寺村生まれ。小東政吉の長女。松村栄治郎の妻。秀司のまつゑの姉。明治4年(1871)「たちやまい」をたすけられ入信。昭和3年(1928)83歳で出直し。

水熊
大阪の車屋、水屋熊吉のこと。大阪から参拝の信者が乗ってきた車夫と伝えられる。

宮森与三郎
安政4年(1857)現天理市檜垣町生まれ。岡田善九郎の三男、のちに宮森家に養子入籍。明治10年(1877)左腕から入信。昭和11年(1936)80歳で出直し.

村島憲海
金蔵寺(天理市岩室町)の明治18年(1885)当時の住職。同年6月中山家に闖入。

村田かじ
村田長平の妻。安政4年(1857)現奈良県大和郡山市櫟枝町生まれ。明治34年(1901)、45歳で出直し。

村田幸右衛門
文政3年(1820)現天理市前栽町生まれ。文久2年(1862)胃病をたすけられ入信。明治19年(1886)66歳で出直し。

村田長平
弘化4年(1847)現天理市前栽町生まれ。幸右衛門の長男。明治14年(1881)中山家の南方に村田家を新築、「とうふや」という屋号の旅館を営む。同26年、47歳で出直し。

森田清蔵
安政元年(1854)信貴山南畑村生まれ。明治7,8年頃から19年ごろほどまでの河内伝道に大きな役割を果たし、また、同17年の「天輪教会」設立運動にかかわった人物。

守屋筑前守
文化6年(1809)現奈良県磯城郡田原本町蔵堂生まれ。同町にある守屋神社の神職を務めるとともに、嘉永5年(1825)京都の吉田神祇官領から筑前守の国名乗りを受け、大和一国の神職取締を命ぜられていた。明治12年(1879)71歳で出直し。

諸井国三郎
天保11年(1840)現静岡県袋井市生まれ。明治16年(1883)三女甲子の咽喉痛から入信。遠江真明講(山名大教会の前身)講元。大正7年(1918)79歳で出直し。

諸井国三郎先生のプロフィール+略歴

弥三郎
現奈良県桜井市大西の人。元治元年(1864)つとめ場所普請棟上げの際に、大豆越村・山中家へ赴いた1人。

安女
現奈良県桜井市大西の人。元治元年(1864)つとめ場所普請棟上げの際に、大豆越村・山中家へ赴いた1人。

弥之助
現奈良県桜井市大西の人。元治元年(1864)つとめ場所普請棟上げの際に、大豆越村・山中家へ赴いた1人。

山中良治郎
天保2年(1831)現天理市新泉町生まれ。元治元年(1864)実姉山中そののたすかりから入信。明治14年(1881)秀司の出直し後は眞之亮を支え、中山家の万事万端の取り締まり当たる。同16年、53歳で出直し。

山田伊八郎
嘉永元年(1848)現奈良県桜井市倉橋生まれ。明治14年(1881)山中忠七こいそとの結婚より入信。心勇講(敷島大教会の前身)講元。大正5年(1916)69歳で出直し。

山中忠三郎
現天理市乙木町の人。明治15年(1882)の教祖のご苦労の際、入れ替わりに奈良監獄所で10日間の拘留を受けた。

山中忠七
文政10年(1827)現奈良県桜井市大豆越村生まれ。文久4年(1864)妻そのの痔の患いをたすけられ入信。明治35年(1902)76歳で出直し。

山本吉次郎
天保3年(1832)生まれ。明治元年(1868)に息子の神経病をたすけられ入信。同42年、77歳で出直し。

山本利三郎
嘉永3年(1850)大阪府柏原市生まれ。明治6年(1873)相撲で胸を傷め病床に就いていたところをたすけられ入信。同28年、46歳で出直し。

山本利八
文政2年(1819)現大阪府柏原市生まれ。利三郎の父。明治6年(1873)長男利三郎の病をたすけられ入信。同37年、86歳出直し。

横田七次郎
七次郎。かんろだいの石普請に携わった石工。

石工・七次郎の行方不明の原因やかんろだいの石普請を思案する

与助
堀内与助。文政3年(1820)現奈良県大和郡山市櫟枝町生まれ。文久元年(1861)妻じゅうが「をびや許し」を頂き入信。明治15年(1882
)63歳で出直し。