天理教人名辞典 足達源四郎(足達照之丞)あだちげんしろう 

足達源四郎(足達照之丞)

庄屋敷村(現・天理市三島町)の人。

幼名を足達照之丞、元服して源右衛門貞秀、明治になって”源四郎”と改めた。

文政11(1828)年5月13日生まれで、明治32年(1899)8月24日72歳没。

父は源左衛門貞勝(添上郡柳生村、現・天理市南六条町森新作の長男、嘉永元年(1849)12月18日61歳没)、母は先妻姉・ひでの妹りやうが後妻となって改名した「美つ江」。

源左衛門にとっては7人目、美つ江34歳の時の子。

母の乳不足により隣家の中山みき(後の教祖(おやさま)、当時31歳)に引き取られ世話をして貰ううちに黒痘瘡にかかるが、神仏祈願などにより平癒し一命をとりとめる。

21歳の頃、八木の桑原家から妻サエ(大正4年1月23日没)をもらい古市の城和奉行所へ出仕。

慶応4年(1868)正月の鳥羽伏見の戦いでは、藤堂藩の無足人として藩士に加わり山崎の陣で大いに活躍したという。

明治4年(1871)9月、45歳の時、「入籍相改となり、戸長、戸副(副戸長)ト申両役ヲ相始メられ、当時古市表津県管下(12月1日に奈良県となる)、戸長役 丹波市村 村田正之助、副戸長役 庄屋敷村足達源右衛門」(『改訂天理市史史料編』第1巻、567頁)と、この副戸長になった人であり、この地の名望家でもある。

明治8年9月24日、48歳の時、村役人として教祖と奈良県庁へ同道した。

その直後、教祖の末女こかん出直しの時、庄屋敷村の人々が集まり、その死を悼み、地元で講を結ぼうということになり天元講ができた。

講には教祖から赤衣を頂き、持ち回りでおっとめをしたが、そのうちの一人。

明治14年、内務省が初めて町村誌の調査を実施した時、翌15年5月に三島村の戸長として書類を提出している。

明治19年、59歳の時、89歳の教祖におんぶされ、足達家の庭を往復してもらったという話が残っている。