天理教教会辞典 愛豫大教会 あいよだいきょうかい

愛豫大教会(あいよだいきょうかい)

神の手引き

「この子は、盲目の子です。ご両親のお心としては、両眼共に開けてもらいたいでしょうが、それは無理なお願いです。一眼だけなら、この井上が身を削ってでも神様に開けていただくように祈願させてもらいます。両方共に開けてほしいと言われるなら、お気の毒ですがお断りいたします」と井上清則は言った。

「それでは先生の仰せの如く、一眼だけなら開けてもらえますか」と念を押す越智

道の曙光 井上清則の珍しい「おたすけ」は、越智久八・亀夫妻に、井上は、「ハイ、この井上が確かに引き請けます」とキッパリ言って、「おさづけ」を取次いだ。

それから幾日か過ぎた後、右の眼はすっきり「御守護」頂いた。

この時、愛豫の道が始まったのである。

明治26年(1893)の春も過ぎた初夏の頃、愛媛県越智郡小西村に居住していた越智久ハ、亀夫妻の一粒種の長男孝輝が2歳になった時、両眼から目ヤニが出だし、見る見るうちに腫れ上がり、医者から、悪性の風眼と診断され、不治という絶望的宣告を受けた。

両親は、総領を盲目にする位なら、一層の事、親子3人が数珠つなぎになって、海か川かに身を投げて死んだ方がよかろうと涙していた毎日であった。

そんな折、井上と出会ったのである。

高知分教会教師で「おたすけ」の名人かつ敏腕家であった井上清則は、高知で他の役員との折り合いが悪く、高知を出て繁藤(現、繁藤大教会)へ預かりとなり、繁藤より「おたすけ」に歩いていた。

主として、西岡利吉と共に、本山から吉野川上流へのぼり、別子銅山の山を越え、愛媛県東豫地区の越智郡大井村新町の延喜屋という商人宿(当主村瀬喜八郎)に止宿して、病気を治す拝み屋と称した。

おたすけに精を出し、今日は誰それの足が立った、昨日は何処そこの気の違った人が治ったと、大井村を始め近村に噂が流れていった。

中でも田坂弥太郎一家、宿屋主人等が入信し、ことに田坂弥太郎は講元となり井上を助けた。

田坂屋は、大井村の豪農で相当の地持ちであったので、講元となった田坂は、私財を投じて井上の布教活動に力となった。

田坂の入信の動機は判明していないが、毎日毎夜、延喜屋で井上の説教があったところから、教理に感じて入信したのではないかと思われる。

田坂の入信は明治25年2月10日と伝えられ、田坂は愛豫支教会設置後、副会長となり、明治33年9月25日出直している。

田坂家の2代駒吉は理事長、3代藤一は理事として、中島方面及び、地元布教、上級、「ぢば」への上に私財を投じた。

特に繁藤が借金で苦労した時には、相当力になり、愛豫が繁藤より分離して高知の直属扱いになる基となった。

井上によって伝えられた教えは、伸展し、「おたすけ」に番号札を出していた程であったと言われる。

この噂が越智久八(後に初代会長)・亀夫妻の耳にも聞こえてきた。

そして冒頭に記した出来事と相成ったのである。

道の曙光

井上清則の珍しい「おたすけ」は、大井村近村に伝わり、ますます教勢は伸び、寄り集う善男善女の群れは「おてふり」に夢中になる者、三曲に熱中する者と、俄然天理教一色に塗りつぶされたかの観になり、明治26年冬12月には4間半(8.1 m)に9間(16.4m)の集談所の建築が出来た。

井 上はこの地に1年半余滞在して布教したが、27年秋、次の布教地(桜井方面)へと出発している。

井上は「私は1カ所位教会が出来たからといって鬼の首でも取ったかの如く、後生大事にそれを守っていく訳にはいかん。ここの道はこれで目鼻がついたと思うから、そう思って貰いたい」との挨拶を残して、明日の飛躍を心に抱きつつ、一同に惜しまれる中を行ったのである。

越智久八は、大井村の隣、小西村脇の豪農で資産家の家に、明治元年陰暦6月17日、佐市、スエの次男として誕生した。

幼名を峯吉と呼び、長じて久八と改名した。

久八は男2人女2人の末子であったが、兄が早世して、2人の姉は分家したので越智家を相続することになり、22歳で家を継いだ。

田畑の大部分は小作に出し、申し訳程度の農事は使用人に任せて、野良に出かける事なく、朝から酒を飲み、浄瑠璃を語り、夕方になると今治方面へ飲み歩くのが日課であった。

周囲の人々は、久八に放蕩を止めさせるため、結婚をすすめ、また、26歳で村の助役に推しもした。

この越智家は、代々妻が早世したり、産後に病気を起すといった事が続いており、久八の妻亀は初産も2度目も難産で、その2度目に母子共出直した。

久ハは、こうした「いんねん」を悟り、明治27年5月29日に「おさづけ」 の理を戴き、その年12月、住み慣れた故郷を後に集談所に入り込み、井上清則を中心に布教活動がなされ熱心な周旋、信者も増加していったが、前述の通り井上は次の布教地を求めて、大井の地を後にした。

教会設置

真実の種は芽生え、遂に時来たり機熟して、いよいよ教会設置の議が持ち上がる様になり、上級の高知分教会よりの指示もあって請願する事となった。

中でも一番問題となったのは担任の件であった。

迂余曲折を経て、結局、講元の田坂弥太郎が副会長に、そして久八が会長となった。

ここに愛媛県越智郡大井村大字新町87番地に、高知分教会部属愛豫支教会が誕生したのである。

時に明治28年10月13日。地方庁認可は11月13日である。

越智久ハは会長になったが、28歳の弱年であり、かつ入信も遅く、先輩も多かったことから、対人関係で悩みが多く、また生活苦も重なり心を倒しがちで、「身上」「事情」の節目を数多くお見せ頂いたが、その都度上級より仕込みを頂き、また、「おさしづ」を仰いでは心を持ち直し、布教に内治に上級勤めにと専念した。

その中でも29歳の時、急性リューマチとなり、朝になったが口もきけず手足も動かず、首も振れない状態になった。

明治29年10月10日に「⋯幾名何名変わらん事情、さしづは変わらん。変わるさしづ出けん。身上事情変わりた事情である。違った事情である。事情はどういう事もこういう事も、皆さしづしてある。又変わりた事と思うから尋ねる。又言葉という、言葉事情尋ねる。よう聞き分け。身上不足なりて、なか/\一つどういう事と、一時捨てにゃならん。これ聞き分け。事情はめん/\事情ある。為すいんねんと言うたる。よう聞き分け。いんねんの為す事情は、取りよ聞きよで大変違う。いんねんならと言うて了えばどうむならん。一度と思うから頼り無いもの。身上不足なりてたんのうは出けやせんなれど、皆同じ人間、かりもの・かしもの中、どんな理どんな事情も見る。又聞くやろ。これからたんのう。たんのうはいんねんのさんげえである/\。これよく伝えてくれ/\。事情は、皆々それ/\心得事情に、一つ諭し置こう。」という「おさしづ」を頂き、その結果、「どんな苦難な道中といえども、一切を神様にお任せして、もたれ切って通ればよい」と心胆が定まったのである。

一方では副会長はじめ、役員の資産にも限りがあり、借金は雪ダルマ式に増えていった。

その当時の布教費や生活費は殆ど借金で賄なっていたと思われる。

しかし、初代会長は「人間も子を生む、教会も理の子を生む。子供は10ヵ月腹の中にいなくても良い。月足らずに生まれても、手を入れたら一人前に育つ」と説き、話によい所があると聞けば直ぐ役員会議を開き、話が定まれば早速旅費雑費を借り入れ、借金等少しも意にかけずに布教に行かせる等、教勢拡張に力を尽くした。

教線拡張

こうした熱意に、明治29年5月14日松山市分教会が中島出張所として設立された。

同年9月9日には宮窪支教会が島しょ部大島に設立された。

当時の布教意欲を物語る一例として、次の様な逸話がある。

教会の筋向かいにあった宿屋に、ある日一人の遍路が宿をとっていた。

「おつとめ」の太鼓の音を聞いて不思議がり、宿の家内より天理教についての話を聞かされたが、その人の故郷九州の壱岐には、そんな教えはないという。

宿の主人村瀬が後日教会を訪れ、その事を話した。

この話に大いに喜んだ初代会長は、早速役員会議を開いた。

壱岐の島へ布教に行く人ができ、熱心に布教し、明治31年3月6日に長岐支教会が設立された。

当時の先人達の信仰心がひしひしと伝わってくる。

また、同年10月15日には廣沼支教会が、10月23日には伯方支教会が、明治32年3月9日に大三島支教会が、同年12月11日に睦月支教会が、明治33年3月2日に呉分教会が廣和出張所として設立。

同年12月22日中國支教会が設立。

明治34年5月15日には西伯方支教会が、同年12月11日に盛口支教会が設立された。

教線は次第に伸び広がり、明治38年10月19日に今治支教会、同39年2月24日には桑村宣教所が、同40年9月18日に鞆町宣教所が設立。

同41年11月22日関西宣教所が、同42年4月18日に愛豫支教会は愛豫分教会に昇格された。

同年9月28日に下弓削宣教所、同44年5月5日廣府宣教所、11月7日安芸津宣教所、同13日忠海宣教所、同19日廣呉宣教所、と1カ年に4カ所もの設立がなされたのである。

さらに、明治45年2月5日壬生川宣教所、同年7月12日には西御所宣教所、大正に入って、元年(1912)11月11日北室宣教所が設立された。

2年(1913)10月8日に遼東教会、同9日に旅順教会が海外に設立された。

このように、陽が昇るが如く教線は拡張されて行ったのである。

どん底

しかし、一方においては、教会の経済面がおぼつかなくなり、借金で何ともできず、愛豫分教会の土地も一切を権利者に渡し、移転を余儀なくされ、大正6年3月31日に大井村から、夜逃げ同然お目標を捧持して、今治市米屋町3の73の地の長屋(借家)に移転した。

3年余の赤貧のどん底となり、役員信者は離散。

暗黒の日々が続いた。

大正8年暮には、同市内の慶京町へ移転の話が起き、同10年1月28日米原町より今治村甲820ノ第3へ移転した。

借金の方もまだ尾を引いていたが、ようやく目鼻がつき始めた。

初代会長は身上と上級教会の命により、大正10年6月11日長男孝輝に会長職を譲った。

その後,身上は平癒し、高知大教会專務役員として10年間勤め、その間、高知より愛豫部内へは書簡で仕込みを続け、昭和9年(1934)10月17日出直した。

愛豫大教会生みの親、育ての親、名称のしんとして、ただ―筋に教祖の「ひながた」を見つめ、「たすけ一条」の上に真実を捧げ尽くした初代会長は、波瀾に富んだ生涯を閉じたのである。

時に67歳であった。

3目標と教祖40年祭

越智孝輝は、大正10年6月11日2代会長に就任し、翌11年5月13日に就任奉告祭を執行した。

同年4月6日二神宣教所が設立された。

その頃まだ相当な負債があり、役員、部内教会の心は2派3派に分かれていた。

借金の取立ては一段と厳しく、高知よりは部内教会設置、信者の増加と成人を急き込まれ、教会にも落着いておれないため、部内人心の統一を計りに、また、教会設置運動に「おたすけ」「においがけ」にと歩き回り、教会には不在がちな日々を送らねばならなかった。

2代会長は先ず「負債の整理。分教会内輪の陣容確立。部内人心の統一」の3目標を立ててつとめると共に、部内教会設立に奔走した。

教祖40年祭の倍加運動の理を受けて、大正13年1月24日粟井宣教所(2月2日忽那島宣教所と改称)、同年10月23日に廣
市宣教所、同11月25日武宣教所、同14年4月22日に椹梨宣教所が設立。

同年5月3日には天理教青年会高知分会愛豫支会が結成された。

同年9月10日には廣海宣教所、同月28日に呉調宣教所、同年11月8日廣福宣教所、同15年2月1日安佐宣教所、同月3日に羅州宣教所、同月14日呉華宣教所が設立され、さらに、昭和2年5月10日に東伯方宣教所、同年5月15日伯方支教会は魚島支教会に改称され、同4年2月4日伊佐宣教所、同5年12月15日満東教会、同8年2月3日に廣乃美宣教所、川源宣教所、同月11日泰東教会、同9年5月1日に愛朝宣教所が設立された。

道はますます勢いよく伸び、同10年2月11日に俊徳宣教所、同年9月5日に道前宣教所、及び、八町宣教所、同年11月3日に順天宣教所、同年12月9日には海老浜宣教所、同12年2月4日に呉州教会、同年4月27日に呉司宣教所、同14年8月25日愛伯山宣教所、同年12月2 日松畑宣教所と福若宣教所と、旬の理を頂き、続々と設立の御守護を頂いたのであった。

初代会長在任中は16カ所だった教会数は54カ所と飛躍したのである。

親心

昭和16年1月の高知大教会の大祭当日、繁藤、伊野、愛豫の3分教会長に「用意が出来たら願うてこい。認めてやる」との会長の言葉を頂き、同年3月27日高知大教会より分離昇格した。

しかし、愛豫大教会といっても100坪(330m㎡)にも足りない。

外観からは大教会の看板も掲げないほど、それはお粗末なものであった。

昭和22年10月秋季大祭当日、愛豫の移転と建築の動議が出され、同23年1月26日今治市大字今治村甲820番地第3より、越智郡乃万村(現、今治市)大字山路831番地ノ1へ移転のお許しを頂き、戦後の物資不足の中にもかかわらず、部内「一手一つ」の真実により移転建築落成並びに陞級奉告祭を、2代真柱を迎えて昭和25年5月4日に執行した。

同23年10月27日、今治支教会は愛元分教会に同24年1月27日川源宣教所は天乃原分教会に改称。

同26年4月23日に童心分教会が設立された。

整理、復興

敗戦によって朝鮮、満州からの引揚げ教会、並びに永年に至る有名無実の教会が16カ所あり、「おぢば」に対して申し訳ないと、整理、復興に努力した。

昭和27年4月17日呉華宣教所は調阪分教会に、海老浜宣教所は廣船分教会に、旅順教会は能登原分教会に、また、4月19日泰東教会は調道分教会に、廣呉宣教所は廣媛分教会に、羅州教会は長武分教会に、4月20日愛朝宣教所は瀬戸盛分教会に、4月24日には安芸津宣教所は三崎浜分教会と改称され、4月17日には段原分教会が設立された。

初代会長から終生名称を増設せよと叱咤督励された2代会長の名称に対する執念の基に、全て復興する事が出来たのである。

教祖70年祭活動の真っ最中、昭和29年4月24日2代会長は辞任し、3代会長に越智忍が就任した。

2代会長は同年6月より、教会本部の説教所に勤め、同38年3月2日72歳で出直した。

道はさらに

越智忍は3代会長に就任後、直ちに教祖70年祭活動に勤め、昭和31年11月27日に愛乃泉分教会が設立。

同33年10月8日に3代会長就任奉告祭を執行した。

同34年3月26日高見山分教会が設立される。

愛豫詰所は、分離後も高知詰所の一部を借りていたが、昭和37年12月26日三島町312番地へ移転した。

同40年1月26日講清洲分教会が、同年9月26日呉順分教会がそれぞれ設立。

同44年9月26日愛乃鯉分教会が設立された。

当時、天理市布留町309番地に2614.14㎡の土地をを購入して詰所建築にかかり、同45年4月11日第20母屋として竣工し、真社のお入込みをいただき、分離後、長い歳月をかけて遠慮気兼ねのない詰所を御守護頂いた。

同48年6月26日廣福分教会は広竜王分教会と改称し、同51年10月26日五日市町分教会、同53年8月26日東延岡分教会が設立。

同54年5月26日瀬戸盛分教会は東上浦分教会と改称した。

愛豫大教会神殿は、昭和25年に移転建築されたが「おぢば」へ向いての参拝ができない構造になっており、3代会長は、「神殿をおぢばに向け、来る教祖100年祭に十二分の御用が出来る様に、あえて普請に取りかかる」との打出しのもとに、同53年1月26日理のお許しを頂き、同年4月1日より鉄筋コンクリート造瓦葺3階建の神殿普請にかかった。

昭和55年8月26日3代会長は辞任し、4代会長に越智典夫が就任した。

同年11月22日4代会長就任・神殿落成奉告祭を、真柱夫妻のお入込みを頂き執行した。

教祖100年祭が昭和61年1月26日から2月18日まで厳かに執り行われ、愛豫も一手一つに、一丸となって真剣につとめさせて頂いた。

愛豫大教会年表

年号月日内容
明治元年7月2日越智久八(初代会長)、伊予国小西村脇の豪農で資産家の次男として出生
明治24年3月14日越智久八の長男孝輝(2代会長)出生
井上清則、大井村延喜屋にて布教開始
明治25年2月10日田坂弥太郎入信。
明治26年11月越智久八、長男孝輝の身上(悪性の風眼)より入信
11月8日越智久八夫人亀出直(26歲)
12月4間半に9間の集談所建築
明治27年5月29日越智久八、おさづけの理拝戴
井上清則、後任に託し桜井方面布教
12月越智久八、小西村脇より集談所入込む
明治28年10月13日天理教愛豫支教会を愛媛県越智郡大井村大字新町87番地に設立。
会長越智久八。副会長田坂弥太郎
11月13日地方庁認可(愛媛県指令第5350号)
明治29年5月14日|初めての部内教会誕生。中島出張所(後の松山市分教会)
9月9日宮窪支教会が島しょ部大島に設立。布教線は拡張の一途をたどり、
明治31年から大正2年にかけて、多数の支教会、宣教所が新設される。
尚、大正2年10月8日に遼東教会、10月9日に旅順教会が設立され、海外にも教線は伸展した。
明治33年9月25日副会長田坂弥太郎出直(61歲)
明治36年1月8日初代会長高知分教会役員に就任
明治37年7月20日初代会長夫人ヒチヨ出直(29歲)
明治42年4月18日愛豫支教会より愛豫分教会に昇格。この頃より愛豫の苦難時代訪れる
明治45年4月24日初代会長高知大教会会計に就任
大正6年3月31日大井村より今治市米屋町3-73へ移転
大正7年8月10日3代会長忍出生
大正10年1月28日今治市米屋町より今治村甲820番地第3へ移転(教乙第932号)
6月11日初代会長辞任、2代会長越智孝輝就任。活発な布教活動により初代会長在任中16カ所の教会数が54カ所に飛躍した
大正11年3月初代会長高知大教会専務役員に就任(以後10年間勤務)
5月13日2代会長就任奉告祭
大正14年5月3日天理教青年会高知分会愛豫支会結成
昭和6年3月21日2代会長夫人光出直(36歲)
昭和9年10月17日10/17 初代会長越智久八出直(67歳)
昭和12年1月22日2代会長高知大教会役員に就任
昭和16年3月27日高知大教会より分離昇格
昭和23年1月26日今治村より越智郡乃万村大字山路831番地の1へ移転建築
昭和29年4月24日2代会長辞任。3代会長越智忍就任
昭和32年5月21日中山善衛青年会長をお迎えし青年会総会開催
昭和33年10月8日3代会長就任奉告祭
昭和38年3月2日2代会長越智孝輝出直(72歳)
昭和39年3月14日たすけ委員長(前真柱)松山市分教会へお入込み
昭和42年3月26日天理教少年会愛豫団結成
昭和44年真柱、宮窪分教会へお入込み
昭和49年11月8日真柱、呉分教会へお入込み
昭和54年12月14日真柱、広沼分教会へお入込み
昭和55年8月26日3代会民辞任。4代会長越智典夫就任
11月22日神殿落成並びに4代会長就任奉告祭
昭和59年9月21日初代会長50年祭
昭和60年3月24日教祖100年祭躍進おやさとの集いを第38母屋に於て中山善司青年会長をお迎えし開催