井筒梅治郎先生の生い立ちと入信~真明組結成まで

生い立ち

天保9年4月28日、大阪市西区本田町3丁目189番屋敷に、井筒清五郎・母ことの間に生まれられます。

井筒家は屋号を「播清」(播磨屋とも呼ばれた説もある)と称した萬綿商でありました。

「播清」とは、先祖が播磨(兵庫)の出身であり、父が清五郎であったからだと伝えられています。

当時では、町内の有力者であったようです。

当時の梅治郎先生

梅治郎先生の背丈は179cmで、体重75kgあったそうで、当時の男性の平均身長は155cmと考えると、とても大きな身体でありました。

そのため腕力も強く、町内にもめごとがあると呼び出され、出て行くと自ら治まったと言い伝えられています。

結婚

慶応2年、梅治郎先生が29歳の時、和歌山県周参見村湯川清五郎の娘とよと結婚。

明治12年2月28日、2人の間に井筒家入信のきっかけとなる長女たねがお生まれになります。

入信

生後間もない長女たねが、百いぼの病という臀部に身上となられました。

子に恵まれず、やっとの思いでできた子が身上であるため、梅治郎先生夫妻の心痛は一通りではなかったでしょう。

当時、井筒家の左隣に中川文吉という人があり、そこには「種市」こと前田藤助が出入りしていました。

そこで、文吉が隣家の井筒家に種市を紹介し、種市の熱心なおたすけによって御守護を頂きます。

これが井筒家の入信のキッカケになるのです。時に明治12年7月30日のことでありました。

おちばへ帰る

『逸話篇』71「あの雨の中を」に

明治13年4月14日、井筒夫妻は娘のたねの身上の上から、たねを伴って初めておぢばへ帰った。大阪を出発したのは前日の朝で、豪雨のなかを進み、途中一泊してその日の午後4時頃に到着した。教祖はにこにことして、

「あの雨の中をよう来なさった」

と仰せられ、たねの頭をなでられた。さらに教祖は、
「おまえさん方は、大阪から来なさったか。珍しい神のお引き寄せで、大阪へ大木の根を下ろして下さるのや。子供の身上は案じることはない。」

と仰せになって、少し癒え残っていた、たねの身上にお紙を貼って下さった。

『逸話篇』71「あの雨の中を」
逸話篇天理教教祖伝逸話篇 全文(1話~200話まで)

この「大木の根を下ろす」とは、実に意味深い教祖のお言葉であります。

先に種市さんが親神の信仰の種を井筒家のたねさんに植え付けたが、またさらに教祖のお言葉によって、将来大木の根となる種が都会大阪の地にはっきりと下ろされたということであります。

おたすけ

梅治郎先生は、元々信仰していた大峰山の修験道から一転して入信し、種市さんと共におたすけに歩かれるようになります。

同年秋、隣家の中川文吉が眼病にかかり、失明するくらいの事態となっていたため、おたすけにかかられます。

梅治郎先生は、娘の身上の体験を通して、親神様の有難い御守護の理を熱心に取次がれました。

また、水を浴びて身を清め、一心不乱にお祈りして「南無天理王命」と神名を唱えながら、文吉の顔をなでられたのです。

不思議なたすけ

その日は特別変わったことはなかったのですが、文吉は何か心の安まる思いがして熟睡できるようになりました。

翌朝、失明を宣告された眼に、神棚にあるお燈明の光が見えたのです。

神の不思議な働きに、一同は更に喜び勇んで願いをこめられ、結果、難病も三日三夜のうちにあざなかな御守護を頂きます。

後年、梅治郎先生の片腕となって活躍する中川文吉の入信の動機となったのです

御恩報じのにをいがけ

梅治郎先生は、自分に頂いた御守護への報恩の道として、病人がおられると、神の御守護と信仰の喜びを説いて、お願いをかけるようになり、いかなる大病人にも三日三夜のお願いでほとんど御守護を頂き、次々とおたすけがあがりました。

そして、おたすけを頂いた人々は、御恩報じににをいがけ・おたすけに歩かれたのです。

真明組結成

信者さん方が増え、信仰の拠り所もできると、次いで講名拝戴の話が持ち上がりました。

そうしておぢばに運び、教祖から講名を頂いたのは明治14年5月14日(陰暦4月17日)のことです。

この道は一歩も遅れてはいかん。

梅治郎先生御一行と梅谷四郎兵衞先生は、ともに講名をお許し頂くべく、大阪からお屋敷を目指す道中で一緒になり、ともに教祖の前に行くと、奇しくも同じ「メイシン」という講名を願い出られました。

教祖は、

「梅谷さんは早く来たから明心組をやろう。井筒さんはそれを返して真明組をやろう。」

と仰せられた。

その時、梅治郎は不審に思った。

「入信は梅治郎が2年前、梅谷はこの年2月。なぜ梅谷が早かったのか?」

御一行がお屋敷に着いたとき、表門が閉まっていたので、小柄な梅谷が脇門を開けて先に入り、門を開けてもらって梅治郎が入ったのでした。

その後、宿に戻った梅治郎は真明組の皆を集め、

「この道は一歩も遅れてはいかん。入信の前後の問題でない。おぢばへの運びの後先の問題である」

と、話されたそうです。

まとめ

上記と同年に着手された「かんろだい石普請」では、「甘露台寄附並ニ入費控張」という記録があり、その寄附の記録の1番最初に

「井筒梅治郎、2番目中川文吉、、、」

と、真明組関係が8件あります。

梅治郎先生達の「真っ先駆けて」おぢばにつくし運ぼうとする意気を私たちが学ぶべきことではないでしょうか。