天理教人名辞典 上村吉三郎 うえむらきちさぶろう

上村吉三郎 うえむらきちさぶろう

天保9年(1838)1月28日、大和国十市郡倉橋村(現、桜井市倉橋)に、上村庄三郎、アイの長男として生まれる。

文久元年(1861)に家督を相続して後、倉橋村出屋舗総代、倉橋村什長、組癌などの村役を歴任し、村の有力者の一人だった。

慶応3年(1867)に田中ヤエと結婚、明治10年(1877)に長男庄作を儲けるが、妻ヤ工は産後の経過が思わしくなく、11年出直し。

12年に福井ちよと再婚。

明治17年旧正月、村で毎年行われていた若者たちの「俵かつぎ」を見て、生来の力自慢を誇り、その力比べに加わったが、約100kgの土嚢を持ち上げようとして、それを自分の足に落とし、そのおたすけを山田伊八郎(心勇組初代講元)に願い、たすけられた。

吉三郎は、かねてから天理教への入信を勧められており、自分も助けられたので、天理教に入信しようという気持ちがあった。

しかし、生まれつき剛毅で気性の激しい性格であった吉三郎は、「自分も信仰したいが、講元を私に譲ってくれないか」と伊八郎に申し入れ、伊八郎は思案の後これを受け入れ、明治18年2月、吉三郎は心勇組の2代講元になった。

なお、3月には心勇組は心勇講に呼び変えられた。講元になってからの吉三郎は、持ち前の活動力と統率力を発揮して、講の統一拡大と組織化に取り組み、巧みな人事や講を勇ませるような諸活動を指揮して、教勢は飛躍的に伸展し、明治18年8月には心勇講分講の第1号ができている。

また、「てをどり」の練習にも大変熱心に取り組み、これによって多くの人が助けられ、心勇講は別名「おかぐら組」ともいわれた。

吉三郎は心勇講講元1年の総決算として教祖に真にお喜びいただきたいとして、十二下りのてをどりを教祖に見て頂くことを決意した。

明治19年正月15日、男は皆目パッチ姿で、てをどり総ざらいの喜びに溢れた総勢300人がお屋敷に集まり、てをどりの許可を願い出た。

しかし、警察の厳しい迫害の中だったので、おっとめをすると、教祖(おやさま)や初代真柱に迷惑のかかることから許可が出なかった。

それでも2、30人は立ち去りがたく、とうふ屋の2階(信者の宿泊所になっていた門前の村田長平宅)を借り、十二下りのおっとめをした。

おつとめを唱和する声を聞かれた教祖は「あれは心勇講の人たちやなあ。心勇講はいつも熱心や。心勇講は一の筆や」と言われたと伝えられている。

しかし、すぐに警察が来て、教祖、初代真柱などが引致された。

吉三郎は自らの軽率を反省し、教祖のご苦労に報いる思案をし、結局てをどりを熱心につとめ、人だすけをすること以外ないと決心し、信仰的な生気を取り戻していった。

教祖が明治20年に現身を隠された後も、道路拡幅ひのきしんに総動員をかけたりしながら、人々の役に立ちたいと、ますます活発な活動を展開した。

明治23年3月17日の「おさしづ」で城島分教会設置を許され、城島分教会初代会長となる。

また、所有していた山林を売却して、神殿普請に取り掛かり、明治24年10月7日の「おさしづ」によって、10月9日鎮座祭、10日開廷式を執行した。

また、早くから三重、和歌山方面へ、さらには北海道へと布教師を送り、物心両面から布教の支援を続け、部内教会設置に対する丹精は人並みではなかった。

明治25年11月大講義に昇級したが、これ以前の「おさづけの理」拝戴などの経緯は不明。

明治28年には、海外布教をも志したが、春頃から背中に激痛を感じ、身動きできなくなることがしばしばあり、たびたび「おさしづ」を伺うが、同年11月24日58歳で出直した。