諸井国三郎先生のプロフィール+略歴

諸井国三郎先生の略歴

諸井国三郎先生は、天保11年(1840年)、遠江国山名郡広岡村下貫名(現在の静岡県袋井市)諸井十郎兵衛の三男にお生まれになられます。

幼少期

諸井国三郎先生の幼名は「龍蔵」と言います。

幼い頃から明敏精悍な性格で農事にはなじめなかったことから、16歳の時から「国三郎」と改名して、侍奉公を志して江戸に出て旗本に士官を果します。

成人してから、、、

 
文久3年(1863年)に、14代将軍徳川家茂の時に京都に入り、その警護の銃隊の一員に選ばれます。

水戸で起った天狗党の乱では、歩兵取締として参戦し、大砲や小銃の弾が雨のように飛び交う中で奮戦するなど、国三郎は、幕末・明治維新の激動期を侍として生き抜きました。

明治維新より

 
その後、時代は明治になり、明治6年(1873年)、33歳で侍を辞して故郷へ戻ります。

侍をやめるにあたり国三郎先生は、明治の新しい国づくりに寄与することを理想として、故郷である遠州の地を産業で盛り上げようと考えました。
 

故郷に帰ってから

 
故郷に戻った國三郎は、まず原谷川の氾らんで荒れた土地を購入して開墾し、そこで養蚕と製糸と機業を始めました。
 
江戸時代末期の農村は、民力が衰え、さらに飢饉などによって負債を抱えて困窮する所が多く、国三郎先生の先生の村も大きな負債を抱えて村民が苦しんでいました。

二宮尊徳の報徳仕法を実行する

 
江戸から帰った国三郎は、村から依頼されて、村の負債整理を引き受けました。

村の負債を返済する手段として、國三郎はいろいろな方法を試みましたが、特に当時農村の復興に大きな功績を残した二宮尊徳の報徳仕法を実行します。
 
その方法は、夜なべに作った縄や草履を集めて回り、それを売って負債返却の資金にしました。

村への貢献

また、道路の修繕や橋梁の架設に力を注ぎ、将来のためにこども達の教育の重要性を考えて夜学を起こしました。

また、初めの3年間油や炭を自費で負担し、小学校の創設にあたっても建築係として尽力し、村の発展向上に尽くしました。
 

事業に専念する

村の負債も8年ほどでほぼ整理がついた頃、事業が手広くなって手が離せなくなってきたこともあり、国三郎先生は、村の役向きを辞退して事業に専念します。

国三郎先生は、自伝の中で

自分の心がけは国家主義で、心の国家の上において、国利民福の増進を図るのが私の主義である。養蚕や製糸や機業に手を染めたのも、自分一身の利益を求めてのことではない

と述べておられます。

慣れない商売でありましたが、精魂込めて作った製品は、やがて認められ表彰されるような商品を生み出していきました。

国三郎先生の使命

そして、近村の希望者にはだれ彼の別なく、絹機などを無料で教えて、地域産業の啓蒙に心を尽くします。

このように明治維新後の新たな国づくりが進む中、国三郎先生は農村においてその一役を担うことを我が使命と感じて、国利民福の理想実現に向けて突き進んでいきました。
 

天理教と出会う

 
そんな國三郎のもとに天理教の教えを伝えたのは、明治15年(1882年)秋に不思議な縁で諸井家を訪れ、住み込んだ吉本八十次でした。

吉本のおたすけ

ある日、諸井家に勤めていた織物教師・井上マンの歯が痛み出し、二日二晩苦しみました。

それを見かねた吉本は、「神様にお願いしてあげましょう」と言って、夜の戸外へ出て、暫くすると茶碗に一杯の水を持ってきて渡しました。

すると、翌朝にはすっかり治ってしまいケロッとしていましたので、諸井家では大変驚かれました。
 

身教えを初めて知る

不思議に思った国三郎先生は、吉本が信仰している神様がどんな神様かを尋ねました。

吉本は、自分が病をたすけられたことを話した上で、親神様の教えを伝えました。
 
吉本の話を聞いた国三郎先生は、深く感ずるものがありましたが、事業のこともあり、すぐに信仰するわけにはいきませんでした。

吉本がお屋敷へ帰る

その代わりに、村の病人には吉本を向かわせておたすけをさせました。

吉本が願うと不思議な御守護がたちまち現れました。しかし、間もなくして吉本は、大和のおやさまのお屋敷に向うといって諸井宅を去りました。
 

本格的に信仰する

 
明治16年(1883年)の2月のある日、国三郎先生の2歳になる娘が喉気の患いで危篤に陥いります。
 
妻そのは、「吉本八十次から聞かされた天理王様の信心でたすけて頂くしかない」と国三郎に懇願しました。

最初の国三郎先生は、「お前の信心は、腹のすいたのを徳でなおそうというものだ。そんなものでなおるか」と取り合いませんでした。

不思議なたすかり

しかし、子供をたすけたい一心のそのは折れず、3時間にわたる談じ合いの末に国三郎先生も心を決めます。

夫婦で、「なむ天理王命、これから夫婦とも一心に信心させていただきます。どうぞ、赤児の身上たすけたまえ」と願ったところ、不思議にも子供が乳を飲みはじめるという奇跡が起こりました。

そして、夜が明ける頃には声を出すまでになり、3日目には、ご飯に汁をかけて食べられるようになり病は全快しました。

初めておぢばへ帰る

国三郎先生は、ただちに教祖のもとへお礼の旅に出発し、6日間かけてお屋敷に到着します。

教祖にお目にかかった国三郎先生は、子供の命をたすけて貰ったお礼を申し上げると、その場で国三郎先生に親神様のお話をお聞かせくださいました。

講社結成

 
国三郎先生が初参拝をした同じ頃、一足先に、吉本八十次に病気をたすけられた松下半兵衛等5名が連れ立ってお屋敷を訪れていました。
 
吉本八十次によってたすけられた人たちから、「ぜひ講社をつくって信仰しよう」という気運が高まりました。

そして、国三郎先生が皆に推されて講元となり、明治16年(1883年)2月26日に、遠州で初めて講社が結成されることとなるのです。

おたすけに奔走する

国三郎先生たちがおたすけに回ると不思議な御守護が次々と現れ、講社に加入する信者はますます増えていきました。
 
こうして不思議なたすけが次々に現れると、国三郎先生はもう一度お屋敷へ参って、深い教理とおやさまが教えられた「おつとめ」をすべて習得したいと熱望するようになります。

おさしづを頂く

ご滞在中には、後の本席・飯降伊蔵を通して親神様から、

さあさあ、珍しい事や、珍しい事や、国へ帰ってつとめをすれば、国六分の人を寄せる。なれど心次第や

おさしづ

という頼もしいお言葉をいただきます。

神様のお言葉どおり、国三郎先生が故郷にに帰ると、不思議なたすけは次々と現れ、講社の数も増えていきました。

山名分教会の設立お許し


講社は、講の組織化とともに「天理王講社 遠江真明組」と名称を変え、明治21年(1888年)に天理教教会本部が設置された同じ年にいち早く山名分教会として設立のお許しをいただきました。

山名分教会が設置されると、その下に部下教会が次々と設立され、信仰の道は遠州から中部、関東、東北へ、さらには台湾へと伸び広がっていきました。

現在の山名大教会

山名分教会の名称は、明治41年(1908年)に天理教が神道から一派独立をした翌年の明治42年(1909年)に山名大教会と改称しました。
 

その後、山名大教会から分割または分離した大教会は12カ所に上り、現在は、国内に392カ所の分教会、台湾に6カ所の教会があり、親神様の御守護、おやさまのお導きを戴いて、世界一れつ心澄まして互にたすけ合う陽気ぐらし世界実現に向けて更なる歩みを進めています。