天理教人名辞典 飯降さと いぶりさと

飯降さと いぶりさと

天保5年(1834)、大和国式上郡小夫相で生まれる。

普段、おさととも呼ばれていた。

父馬場武右衛門、母おなみで、28歳の時、飯隆伊蔵と再婚する。

元治元年(1864)5月、2度目の流産の後、肥立ちが悪く床につき、医者や薬はいうまでもなく、人が良いということは全て試してみたが容態は日に日に重くなっていった。

夫の伊蔵が教祖(おやさま)のもとをたずね、おたすけを願うと

「救けてやろ、放けてやるけれども、天理王命と言う神は、初めての事なれば、誠にする事むつかしかろ。」

との言葉を頂き、散薬を頂いた。

おさとは教えられた通り、腹帯を取り除き、散薬(ハッタイ粉)を、早速一服、夜一服、明方一服頂いた処、少し気分がよくなり、3日目には物にもたれて食事ができるまでにおたすけ頂いた。

元治元年6月25日、すっきりご守護頂いたおさとは、伊蔵と初めて夫婦揃ってお札詣りに帰らせて頂いた。

この時おさとはたすけて頂いたお札に何かお供えさせて頂きましょうと言ったので、伊蔵はお杜の献納を思い付き、翌7月26日に帰った時、お社なりと造って納めたいと申し出たが教祖は

「社はいらぬ、小さいものでも建てかけ。」

と仰せられ、つとめ場所のふしんが始まり、おさとは伊蔵と共に精を出した。

この日夫婦二人とも扇と御幣のさづけを頂いた。

その後おさとは、長女よしゑ、長男政治郎(5歳で出直し)二女まさゑ、二男政甚と子供を授けて頂いた。

教祖が早くから「一日も早く屋敷へ帰るよう」にと仰せ下さっていたのと家族の身上から、おさとはよしゑと共に、明治14年(1881)9月、屋敷に住み込んだ。

明治15年伊蔵がすっきり轢本を引き払った時、

「これから、一つの世帯、一つの家内と定めて、伏こんだ。万劫末代動いてはいかん、動かしてはならん。」

と言葉を頂いた。

おぢばに伏せ込み、困苦と官憲の迫害の中を勇んでつくし、陰に陽に本席をたすけ、明治26年3月18日、60歳で出直した。