天理教人名辞典 深谷源次郎 ふかやげんじろう

深谷源次郎 ふかやげんじろう

天保14年(1843)2月17日、京都市東山区古川町三条下ル進之町に、鍛冶屋「丹源」こと、源兵衛、ヂウの二男として生まれた。

明治4年(1871)5月、成田萬助二女ハナと結婚し別家した。

明治7年、兄直七が出直し、深谷家当主となった源次郎は、三条通河原町東入ル大黒町に鍛冶屋の店を構えた。

生まれつき正直で気持ちが明るく、「正直鍛冶源」の異名をとり、「商人はかけひきが多くて疑い深いから嫌いや、品物の値打ちだけに買うてもらえばよい」と思っていた。

明治14年9月、鋳物師の富川久吉の手引きで、奥六兵衛から天理教の教えを聞いて入信した。

彼の心をとくに惹いたのは、「火と水とが一の神」という言葉と陽気な「てをどり」であった。

翌日には、澤田善助ににをいがけをしている。

源次郎が入信して2カ月が経った明治14年11月、奥六兵衛を講元として「天倫社明誠組」(明誠社)という、京都での最初の講が結成され、源次郎は会計方に推された。

年が明けて明治15年春のこと、鉄槌を打ちおろしたはずみに、真っ赤に焼けた鉄屑がまともに右眼に飛び込んだ。

源次郎は、医者よ、薬よと騒ぐ家人を制して、静かに口をすすぎ、眼を押さえたまま、二階に上がり、親神の前に平伏し、右手で眼をおさえながら、左手でおつとめを始めた。

おつとめをしている途中で、それまでの激しい痛みがピタリと止まった。

思わず手を離すと、鉄屑が眼からポロリと落ちたという。

このとき、源次郎は、「この神様のためなら身命を捧げよう」との堅い信念を定めた。

この日すぐに、おぢばへ帰り、眼は元通り完全にご守護いただいた。

すべてのことが「有難い」「結構や」と思えるようになり、白熱の信仰とおたすけ活動を始め、信者は次第に増えていった。

ところが、「明誠社」の講元が信仰を踏みはずすようになった。

源次郎は講元を諌めたが、講元はかえってこれを憎み、源次郎を排斥する運動をすすめた。

このために、明治16年秋、源次郎は明誠社を脱退して、「斯道会」を結成し、講元となった。

明治17年3月上旬、教祖に「おさしづ」を伺ったところ、

「斯道会の種は、さあへ今日よりさあへ埋んだ。さあ/\これからどれだけ大きなるとも分からん。」(『稿本天理教教祖伝逸話篇』141話)

とのお言葉をいただいた。

明治18年10月、裏寺町の常楽寺の本堂を借りうけて、明治21年秋まで、おつとめ場所とした。

明治19年8月、下鴨村の雨乞づとめに守護をいただいた。

教祖が現身を隠されたことは、一時、信者のあいだに大きな動揺を与えたが、見事に切り抜けて、講社の数はますます増加した。

明治20年9月9日、おさづけをいただいた。
源次郎45歳のことであった。

明治21年春、鍛冶職を捨てて、たすけ一条の道に踏みだした。

この年10月には、集談所を設置することになり、11月15日、最初のおつとめがつとめられた。

明治22年2月18日の「おさしづ」によって、親神のお許しを得て、同年6月21日に、京都での最初の教会として「神道天理教会河原町分教会」が京都府より認可された。

すぐに移転建築の議が具体化し、河原町二条下ルーノ舟大町に神殿が建築され、12月15日には初代真柱祭主のもとに開廷式が行われた。

講社の数は、すでに111カ所に及んでいた。

ところで、信者たちが源次郎を「たいぼくさま」とよび、その話の席を「たいぼく席」と称えるようになった。

明治21年、これを教会本部へ通報する者があり、8月、本部に対して代理3名が詫書を書いた。

そのために斯道会は四分五裂して解散するというところまでいったが、9月、一転して解決した。

布教線が伸びるにしたがって、反対攻撃が次第に強くなったが、源次郎は分数会長として、人びとの先頭に立って信仰の道をすすみ、教勢は飛躍的に伸びた。

明治29年12月9日の「おさしづ」によって、源次郎は本部准員となった。

明治33年1月27日、源次郎は会長職を辞し、嗣子の徳次郎が2代会長に就任した。

この日こ源次郎は本部員の立場をいただいた。

源次郎58歳、徳次郎31歳であった。

その後、教会の移転建築に取り掛かり、明治35年10月5日、現大教会所在地に移転建築落成の奉告祭が行われた。

また、明治42年1月18日付けで「河原町大教会」と改称した。

ところが、明治42年10月10日、2代会長徳次郎が40歳の若さで出直した。

同年11月12日、源次郎がふたたび会長に就任し、3代会長となった。

その後、大正9年(1920)4代会長徳郎に後を譲るまで、会長として、なおも陽気に勇んで人びとを導いた。

大正3年冬ごろから、徐々に視力が衰えていき、容態は日を追って重くなった。

しかし、病室のなかでも、笑い声が絶えなかったとのことである。

大正12年10月17日、81歳をもって出直した。