天理教人名辞典 泉田藤吉 いずみだとうきち

泉田藤吉 いずみだとうきち

天保11年5月10日、父泉田富吉の二男として大阪府東成郡大今里村(現、大阪市東成区大今里)に生まれた。

通称「熊吉」と呼ばれ、4歳にして両親に死別し、東成郡猪飼野の山本家にあずけられて同家の山本伊平と兄弟のようにして10歳まで育てられた。

その間、子守奉公などに出されたが、腕白なため断られ月に15回位奉公先が変わったこともあった。

10歳の時東成区片江町の清水家の貰子となって成人したが、何かの事情で清水姓を名乗る事はできなかった。

元来文字も書けず、両親の名前も知らず、自分の名前も「熊」より知らなかった藤吉は、大工や左官の手伝いをしたり井戸掘人夫として働き、その後、体格も良く腕力も強かったので西国巡りの強力となった。

明治4年(1871)2月頃、奈良の二月堂のお水取りに参詣し、その時人の噂で教祖(おやさま)を知り、初めておぢばに参詣した。

明治10年酒の飲み過ぎから胃痛になり、もう助からないといわれていた時、天恵組三番の周旋の山本伊平が来て「かしもの・かりもの」の話をしてくれ、なるほどと思っている間にすっかりたすかった。

藤吉のおぢば帰りは、商売を終え夕方大阪を出て夜中におぢばへ着き、官憲の迫害のきびしい中お屋敷の床下で1、2時間寝て、一言二言のお仕込みを頂いて、夜明け前おぢばを立って帰った。

商売も芋を売るのが目的でなく、病人捜し、にをいがけが目的であった。

藤吉の布教は猛烈で、病人があるとちょっと隣りへでも行くようにおぢばへ帰ってお願いし、直ぐ大阪へ帰って病人に当たり、たすけに歩いた。

明治23年(1890)大阪の道を人にまかせて大分県中津町へ新しく親神の教えを広めに出発し、今の中津大教会の道をはじめ、宇佐大教会の宇都宮右源太を導いた。

泉田藤吉は明治37年(1904)4月26日、おぢばにおいて出直した。享年65歳。