天理教人名辞典 大東重兵衛 おおひがしじゅうべえ

大東重兵衛 おおひがしじゅうべえ

奈良県平群郡白石畑村(現、生駒郡平群町)に生まれた。

平群谷の信仰者として、白石畑村の大東重兵衛と野口吾平、また吾平の子の市兵衛(若井村の松尾家へ養子に行き松尾市兵衛)は初期信者として活躍した。

龍田村(現、斑鳩町)の乾ふさは、子の勘兵衛や同村田中与平らの先導者的立場で既に活躍し、乾ふさの存在がこの地方の信者に大いに影響していたように察せられる。

大東重兵衛の親戚が南畑柑(現、三郷町)にあり、その森田家の活蔵がのちに河内布教の功労者となる。

明治7年(1874)11月、教祖(おやさま)が山村御殿(現、奈良市山村)に出張になった時、伴として辻忠作、仲田儀三郎、松尾市兵衛、柳本村佐藤某と共に、畑村の大東重兵衛の名が見える。

畑村とは自石畑村のこと。また、明治14年、本部のかんろだいの石普請の折には、白石畑十平、5月10日山行(『ひとことはなしその二』153ページ)をしたり、『甘露台石工入用帳』によれば、9月25日-5円 忠作、十平両人より賃渡し(『同』170ページ)という記録があり、重兵衛が尽力したことが実証される。

石工の横田七次郎は、生駒山地南端部に位置する雁多尾畑(かりんどおばた・現、柏原市)の出身であるから、矢田丘陵山腹の自石畑とは向かい合う山の住人であった。