天理教人名辞典 中西金次郎 なかにしきんじろう

中西金次郎 なかにしきんじろう

嘉永3年(1850)1月29日、中河内郡平野村(現、大阪市東区平野町1丁目)に父連太助、母まつの三男として出生。

連家は滋賀県栗太郡瀬田村の出、古代の近江朝の連姓に関連ある家柄という。

父の太助は青年期に大坂に出て、反物艶打業を営む。

金次郎は母方の絶家となった中西姓を継ぐ。

中西家は丹波氏の出。

明治8年(1875)頃東区釣鐘町に分家して、父からもらった建物を工場に、メリヤス製造業を始めたが、業績ふるわず、ほどなく廃業した。

明治10年頃三浦作兵衛の次女ゆきと結婚。

明治13年10月、市内心斎橋筋でラシャ(羅紗)製品の卸商を営む。

翌14年12月商売不振により、またも廃業し、北区老松町の妻の親もとに転住するが、ほどなく痛痛(腰や腹の痛み)をわずらった。

明治16年東区谷町2丁目に移り油小売商を営む。

明治18年12月東区釣鐘町の自宅に戻り、石油、灯油の行商を続けていたが、19年1月持病の痛痛が再発、重患となる。

翌月、天恵四番講元泉田藤吉よりおたすけをいただき信仰し始める。

ときに金次郎37歳。

そして同年3月中旬、泉田藤吉に連れられて、夫婦そろって初めておぢばに帰参、教祖(おやさま)にお目通りする。

以後欠かすことなくほとんど毎月帰参し、ご恩返しのため、おたすけに努める。

明治19年6月頃、自宅に神様を祀った。

19年8月17日教祖から月日模様入りの盃を拝領。

翌9月21日赤衣(橋祥)拝領。

明治20年2月18日おぢばに帰参して、教祖の現身を隠されたのに接し、おやしきで奉仕する。

明治20年3月天恵四番部下恵心組を結成。

明治21年2月15日こどもなきにつき、「おさしづ」を仰ぐ。

21年10月14日おさづけの理拝戴。

明治23年10月泉田藤吉が九州中津町へ行くのにともない、天恵四番の後を預かり、天恵四番講取締を勤めた。

その後、天恵四番講は今村斧太郎が継承、金次郎を講元とする恵心組は、本部直属の取り扱いとなった。

明治25年11月22日大江支教会所を自宅の東区釣鐘町に設置、翌年1月27日支教会長を拝命、27年7月10日妻ゆきが出直した(42歳)。

そのあと、北大路やをと再婚。

明治38年6月21[大江支教会講習会長拝命、明治40年9月13日大阪府下教会組合常議員被選、41年3月15日同組合会計係被嘱、明治42年3月5日大江分教会に昇格した。

同年5月5日大阪府下教会組合主事拝命、43年2月1日役員駒井政七三男孫三郎を養嗣子にもらいうけた。

明治43年10月23日大阪教務支庁(改称)主事拝命、会計係も続任(いづれも会長辞任まで重任)。

大正8年(1919)秋頃より身上すぐれず、大正9年4月おぢばの詰所で静養、同年6月2日大江分教会長を養嗣子孫三郎(24歳)に変更お許しをいただいた。

大正9年9月1日出直し、71歳。