天理教人名辞典 仲田儀三郎 なかたぎさぶろう

仲田儀三郎 なかたぎさぶろう

仲田儀三郎は教祖(おやさま)の最も古い信者の一人で、天保2年(1831)5月25日、現在の天理市豊田町に生まれた。

文久3年(1863)33歳の時、妻かじが長男岸松を生んだ後、身体の具合の悪いのをたすけられて入信した。

1カ月後には同村の辻忠作も入信し、2人でよく教祖に仕えた。

明治になって右衛門を名乗ることができなくなって、仲田は佐右衛門から儀三郎へ、辻は忠右衛門から忠作へと改名したが、教祖(おやさま)や周囲の人々は「さよみさん」「ちよみさん」と呼んでいたといわれる。

儀三郎は、『稿本天理教教祖伝』や『稿本天理教教祖伝逸話篇』にたびたび登場し、教祖の側で教祖にいつも仕え、「取次人」として寄り来る人々に話を取り次ぎ、各地へ「おたすけ」に行ったり、「おてふり」を教えたり、また、教祖のお伴をして警察や監獄に拘置されたりしている。

元治元年(1864)の春頃から、教祖は熱心に信心する人々に「扇のさづけ」を渡されていたが、儀三郎は山中忠七と共に、「扇・御幣・肥まるきりのさづけ」を頂いた。

同年の「つとめ場所」の普請については、畳6枚を受け持った。

明治7年の「かぐら面」のお迎えの時にも、秀司や飯降伊蔵などと共に、教祖のお伴をして前川家に行っている。

明治7年(1874)陰暦10月、教祖は儀三郎と松尾市兵衛に対して「大和神社へ行き、どういう神で御座ると、尋ねておいで」と言われ、神職と問答をしている。

折り返し大和神社の神職が、翌日には石上神宮の神職が5人連れで教祖を訪問し、教祖との間で問答が行われた。

これがあって、奈良県庁の社寺掛から呼び出しを受け、さらに12月23日には、教祖が山村御殿(円照寺)へ呼び出された。

山村御殿では役人の要請に応えて、儀三郎は辻の歌に合わせ、おてふりを行った。

これ以後県庁はお屋敷へ参拝人が出入りしないように厳重な取り締まりを始めた。

12月25日には、奈良中教院から、辻・仲田・松尾が呼び出しを受け、信仰差し止めをし、お屋敷の幣吊・鐘・簾などを没収していった。

翌26日、教祖は「赤衣」を召されることになり、「一に、いきハ仲田、二に、煮たもの松尾、三に、さんざいてをどり辻、四に、しっくりかんろだいてをどり桝井」と4人に直々さづけの理を渡された。

明治8年には、「かんろだいのぢば定め」に同席し、明治11年秀司を講元とする真明講設立の時には世話人として名を連ねた。

この頃から官憲の取り締まりが厳しくなり、教祖やお屋敷の人々と共に度々引致、拘留、科料などを受けた。

明治16年の三島村から頼まれて行った雨乞づとめにも参加し、この時も警察に引致され、後、科料されている。

明治17年頃からはこうしたご苦労を教祖にかけたくないとの思いから教会設置に尽力した。

明治19年の教祖最後のご苦労となる警察への引致・拘留にも教祖のお伴をした。

明治19年6月22日、56歳で出直す。

教祖は、「錦のきれと見たてたものやけど」と言われ、その死を惜しまれたという。

また、教祖が儀三郎に直接下さった言葉には次のようなものが伝わっている。

  • 「さあ、これを持っておたすけに行きなされ。どんな病人も政かるで。」(監獄へお伴して帰った時、着ていた赤い橋杵を与えられた時)
  • 「物は大切にしなされや、生かして便いなされや。すべてが神様からのお与えものやで。さあ、家の宝にしときなさい。」(監獄で差し入られた反故紙でコヨリを作り、一升瓶を入れる網袋を作られ、それを仲田に与えられた時)
  • 「しっかり踏み込め、しっかり踏み込め。末代にかけて、しっかり踏み込め。」と口ずさんで歩かれてから「この屋敷は、神が入り込み、地固めしたのや。どんなに貧乏でも、手放してはならんで。信心は、末代にかけて続けるのや。」(仲田家へ教祖が来られた時)
  • 「心の澄んだ人の言う事は、聞こゆれども、心の澄まぬ人の言う事は、聞こえぬ。」(明治18年12月26日)