天理教人名辞典 松田音次郎 まつだおとじろう

松田音次郎 まつだおとじろう

松田音次郎は、弘化元年(1844)2月1日、河内国君江郡刑部村(現、大阪府八尾市刑部)で、父長七、母佐喜の2男4女の二男として生れ、呼名は島右工門といった。

松田家は2町余の農地を持っていて、音次郎も幼少より農事にいそしんでいた。

河内は徳川時代より相撲のさかんな所で、村の若者は皆宮相撲をしてはその強さを誇っていた。

音次郎も17、8歳頃より相撲に凝り「一つ石」という名さえあった。

明治10年(1877)に、同村の山田長造が頭がいちじくのように膿んで長く患っていたのを教祖(おやさま)にたすけて頂き、村へ帰ってきた長道が、村の風呂屋で覚えたての「みかぐらうた」を声高らかに歌っているのを、同年輩の音次郎が「妙な歌を歌っているが、それは何の歌だ」と聞いたのがきっかけとなって、いろいろ神様の話や、おぢばの話を聞き、「そんな結構な神様なら自分も信仰したいから今度行く時つれていってくれ」といいだした。

これが音次郎の入信の動機である。

また、後に妻のりよが眼病をたすけていただいているともいう。

お屋敷の蒸風呂、止宿人控の記帳の中に明治12年12月9日(陰暦10月26日)の日付で音次郎の名前がでているので入信はそれ以前であろう。

音次郎は、河内の村々を布教していた森田清蔵と知り合い、教理の仕込みやお手振りを習い、性采の気性として布教しなければ居られなくなり、近村はいとわず、3里、4里の遠方までおたすけに歩いた。

青年団の団長格でもあったので信者には若い者も多く、ある日、音次郎を先頭に勢揃いでおぢばへ帰ると、教祖が親しくお会い下さって一同に、

「あんた方はみな揃うて、年が若いのに神を敬う心が非常につよい。敬神組と名づけたがよかろう」

と仰せられ「敬神組」の講名をいただいた。

音次郎は初代講元である。

松田音次郎は明治24年頃には本部に勤め、その後、おぢばに住み本部員となり、大正7年(1918)6月27日、75歳で出直した。