山中忠七 やまなかちゅうしち
文政10年(1827)大和国式上郡大豆越村(現、桜井市大字大豆越)で、山中彦七、上里の二男として生まれる。
長男が早く亡くなったため家督をつぐ。
山中家は近隣に聞こえた田地持ちで村の役職を務めていた。
生来正直で働き者であった忠七は、その故をもって藩主から表彰されたこともあり、人びとの尊敬を集めていた。
文久2年(1862)、忠七36歳の時、平和な山中家に嵐のように不幸が襲った。
その1年間に3度も葬式をした。
それに加えて、妻の皇聖が長の病床に伏したのである。
文久3年も暮れ、4年の正月を迎えたが、死を待つばかりの病人を抱えて山中家の人びとは途方に暮れた。
そんな時、すすめる人があって教祖(おやさま)におたすけを願うことになった。
「おまえは神に深いいんねんがあるから、神が引き寄せたのである。病気は案じることいらん。すぐにたすけてやるほどに。そのかわり、神のご用を聞かんならんで」
というお言葉を頂き不思議な救済に浴した。
これが山中家の信仰のはじまりであり、忠七が38歳の時である。
その後、忠七は熱心に信仰を続け、元治元年(1864)の「つとめ場所」の普請の時には費用を引き受けて尽力した。
また、教祖から
「大豆越の宅は神の出張り場所」
という言葉や、
「これまで、おまえにいろいろ許しを渡した。なれど、口で言うただけでは分かろまい。神の道についてくるのに、物に不自由になると思い心配するであろう。なんにも心配することはいらん。不自由したいと思うても不自由しない確かな証拠を渡そう。」
として、「永代の物種」を頂いている。
天理教の草創時代、この道に深いかかわりをもって活躍し、明治35年11月22日、76歳で出直した。