路傍講演の原稿

この記事はこんな方にオススメ!
  • 身教えのどこから触れれば良いのか分からない、、、
  • 路傍講演で何を話せば良いか分からない、、、
  • 例として、どんな話をしているのか知りたい!

路傍講演をするにも少し勇気がいりますし、何よりもどんなことを話せばいいのか分からないこともあります。

ここでは、布教部のサイトから引用し、路傍講演の原稿を紹介していきたいと思います。

陽気ぐらしの天理教①

皆さま、毎日いかがお過ごしでしょうか?

明るく楽しい毎日でしょうか?

それとも暗い、憂鬱な毎日でしょうか?

すべての人々は明るく楽しい毎日であることを望み、日々を過ごしてることだと思います。

しかし、今の世の中ではなかなか自分が望んでいるようにはいかないものではないでしょうか?

では、自分の思い通りのことができるのであれば、人は皆、幸せなのでしょうか?

もし、人間一人ひとりが自分の思い通りに毎日を過ごしたとしたら、一体どんな世の中になると思いますか?

自分さえ良ければ、他の人はどうなってもいい、というような身勝手な毎日になりかねないのではないでしょうか?

そういった過ごし方は、知らず知らずの内に、他の人々を傷つけたり、苦しませるようなことになり、やがては自分自身が傷つき、苦しまなければならない結果になるかもしれません。

では、幸せな毎日とはどんな毎日でしょうか?

私の信仰する天理教では、「陽気ぐらし」ということをお教え下さっています。

陽気ぐらしとは、陽気な心、すなわち、明るく勇んだ心で日々を暮らすことです。

その中でも、他の人々と共に喜び、共に楽しむということが大切なのです。

私たちの神様は、人間が陽気ぐらしをするのを見て、共に楽したいと思いつかれ、人間を創り、この世をはじめたと聞かせて頂きます。

私たち人間の生きる目的は陽気ぐらしをすることであり、人の幸せは日々の暮らしの中にあります。

しかも物やお金、地位、財産、名誉などといった、自身以外の要因にあるのではなく、日々を暮らす自分自身の心にあると、お教え下さっています。

神様は、人間をお創り下さる時に、一人ひとりに心の自由を与えられました。

身体は神様からのかりものでありますが、心だけは自分のものであり、自由に使うことをお許しになったのです。

神様は、人間が陽気ぐらしをするために自分自身の心を使うことを望まれたのですが、人間は人のため、世のために心を使うことを忘れ、いつしか、自分さえ良ければいいといった、身勝手で、陽気ぐらしには、程遠い心遣いをするようになり、家庭不和、いがみあい、そして争い事を招く結果となったのです。

陽気ぐらしとは、他の人々と共に喜び、共に楽しむところに現れてくるものなのです。

人の幸福は、その境遇や外見によって定まるのではなく、すべては銘々の心の持ち方によって決まるのです。

そして、何よりもまず、私たちは神様から身体をおかりし、神様の御守護によって生かしていただているということを忘れず、皆がそのことに気付いて感謝し合い、互いにたすけあって暮らすというところに、陽気ぐらしが現れてくるのではないでしょうか。

今、心が曇って悩んでいる方がおられましたら、どうかお近くの天理教の教会にお尋ね下さい。

そして、神様のお話を聞いて下さい。

きっとその日からあなたの心の持ち方が変わります。

陽気ぐらしの天理教②

私たちが毎日使う心は自分のものでありますが、心というものは、一日の中でも様々に変化し、浮き沈みがあったり、自分で自分の心をコントロールできなくなったりするときもあります。

心はコロコロ変わるから「心」であるとも言われます。

この不安定な心を穏やかに安定させ、毎日を暮らすことができたならば、きっと多くの幸せを呼ぶことになっていくと思います。

不安定で浮き沈みの激しい心は大人気ないものであり、気付かない内に、自分の周りから人を遠ざけてしまいがちになります。

天理教では、心の使い方ということを非常に大切なこととして教えられています。

「心一つが我がの理」ともお教えられ、毎日の心遣いや行いが種となって、将来の自分自身を含めた身のまわりの芽生えてくるとお聞かせいただきます。

このようなお話をしますと、そんなばかげた話あるわけないと思われる方も多いと思いますが、意外にも、最近はこうした「心」の不思議に気付いている人や会社が増えているのです。

ですから、心の不思議を信じて、心の持ち方を大切にしている人や会社では、思いのほか、様々なことがうまく運んでいるようです。

さて、最近の世の中で、よく耳にする偽装や虚偽、隠ぺいなどの問題は、社会全体の信用を崩し、多くの不安を与えていますが、これも元はといえば、一人ひとりの心の弱さや欲望が招いた結果であると思います。

今、私たちが安心して平和で穏やか暮らしをするためにも、一人ひとりの心の強さが求められていると強く感じます。

では、心の強さとは何でしょうか?

それは、人のことを思いやることが出来ること、目先の損得に惑わされず、心を澄ませる努力をしていくこと、裏表のない誠の心を貫くようにすることではないかと思います。

しかし、こうしたことは、頭で分かっていても、なかなか実行できないものであります。

まずは、不安定な齢心が運命を狭めることにつながるということを認識して、強い心を持つことが幸せの種になっていくのだと意識することが大切だと思います。

天理教では、幸せに向かう心のあり方を学ぶことができます。

ぜひ、天理教の教えをお聞きいただいて、今よりももっと幸せを感じる素晴らしい人生を歩んでいただきたいと思います。

どうぞ、一度お近くの天理教の教会をお尋ねください。

陽気ぐらしの天理教③

今日、経済大国になった我が国です。

車も一家に一台、テレビは部屋に一台、オール電化、携帯電話は国民のほとんどが持っているという、本当に豊かで便利な世の中になります。

これだけ繁栄した時代に生きる私たちは皆、毎日を楽しく幸せに暮らしているはずなのであります。

ところが現実はどうでしょうか?

このように、物に恵まれ便利な世の中もなったからといって、本当に毎日不満のない満足した生活が送れているでしょうか?

どうも一概にはうなずけないようです。

家庭の中を眺めてみても、夫婦の離婚、親子の断絶や虐待などの家庭崩壊。

子どもの世界では、非行・不登校・いじめ・自殺。

この他にも、病気や老後の生活問題などが取り上げれば、きりがないほど、たくさんの問題、不安、悩みを抱えているのが現状ではありませんか。

考えてみれば、昔のように、物質的には恵まれてなくても、家族が一つになって、目標に向い、ひたすら歩んできいた頃の方が家庭には明るい灯がともっていたのではないでしょうか。

今日、これだけの素晴らしい文明に恵まれたのに、本当の幸せを掴めないのはなぜでしょうか?

それは、一番大切なものを見落として来てしまったからだと思うのです。

お金さえあれば幸せになれる。

地位さえあれば、権力さえあれば、、、と、一番大切な精神、「心」を置き去りにしてきたからだと思います。

天理教では、「身体は神様からのかりものであり、心一つが自分のもの、心一つによって、どのような理もあらわれ、どのような世界もできあがる」とお教え下されております。

心をつくることが一番大切なことだと聞かせていただきます。

柿の木には、柿の実が実りますが、梨の実は実りません。

それは当たりまえのことで、蒔いた種通りの結果が現れてくるのが天の理であり、自然の摂理です。

不幸になる種を蒔いて、幸せになるはずがありません。

人を苦しめ困らせたなら、必ず自分に不幸が返ってきます。

親不孝をしたら、親不孝の子に悩ませられるのは当然です。

夫婦の仲が悪ければ、陽気なやさしいこどもには育ちません。

皆さん、幸せになる種を蒔きましょう。

天理教の教祖・おやさまは、「働くというのは、はたはたの者を楽にするからはたらくと言うのや。」とお教えくださり、また、「人を救けたら我が身救かる。」ともお教え下さいました。

自分は損しても、他人様にはたすかっていただく、喜んでもらうことを日々積み重ねましょう。

また、人が見ていても、見ていなくても、人のためになる行い、人に喜んでもらう行いを日々勇んでさせていただきましょう。

その中にこそ、将来人生に行き詰まらない、幸せになる真実の種が蒔かれているのです。

私たち天理教は、幸せの種の蒔き方を神様のお話によってお教えいただくのです。

皆様も、本当の幸せになる道を歩んでみませんか?

この近くにも、天理教の教会や布教所があります。

どうぞ、一度お立ち寄りください。

きっと素晴らしい世界が待っています。

神様の懐住まい

私たちは人間は、豊かさを求めてきました。

その結果、大量生産、大量消費によって、物が溢れ、使い捨てが当たり前になり、生活する中で出るごみも膨大なものになりました。

これではいけないと、ゴミを減らす取り組みやリサイクルの取り組み、また環境汚染を規制する法ができるなど、様々な対策がとられています。

また、「もったいない」という言葉が取り上げられて、「ものを生かす」「もの大切にする」ということが見直されてきています。

しかしながら、なかなか理想通りには進んでいないのが現状ではないでしょうか?

今さえよければ、自分さえよければ、また、これくらいいいだろう、という風潮が、いつもどこかに存在します。

いまこそ、人間は何を目指して生きるべきなのか、本当の豊かさとは何なのか、その根本が問われていると思います。

神様のお言葉に、

だんだんとなに事にてもこのよふわ 神のからだやしやんしてみよ。

おふでさき第3号40

と、「この世は、神のからだ」とお教え下されています。

地球上のあらゆるものは、親神様から陽気ぐらしをするための「お与え」「お恵み」で、無駄にするようなものは何一つないとお教え下されています。

一人ひとりが、自分の生活姿勢を見直し、その中で、生かされ、生きているということに気づき、謙虚に、感謝、そして、慎みの心で日々を暮らすことを親神様はお望みなのです。

天理教の教祖、中山みき様は、

「物を大切にしなされや。生かして使いなされや。すべてが神様からのお与えのものやで。」

とやさしくお諭くださいました。

自然環境も、食料や衣類ももちろんのこと、住居や家財にいたるまで、すべてが親神様からの「お与え」として、使わせていただいているのです。

私たち人間は、親神様の懐に抱かれ、生かされている存在であり、すべてのものは親神様からの「お与え」であることを謙虚に受け止めることができれば、本当に大切なものは何かが見えてくるのではないでしょうか。

物を大切にすることを通して、親神様の御守護や親神様からのお与えに対して喜びや感謝の気持ちが湧き、また、心が真に豊かになり、慎みの心、そして、人を大切にする心をも養うことができるのではないでしょうか。

私たちお互いは、親神様の懐住まいをしているのです。

与えられた物に、感謝の心を添えていただく、使わせていただくことは、物が有り余っている現在の世の中であるからこそ、大切なことではないでしょうか?

私たち天理教は、感謝と慎みの心を大切にして、真の心の豊かさを求め、互いにたすけあう、陽気ぐらしの世界を目指しています。

八つのほこり

皆さま方の中で、幸せになりたくないと思っている方はおられるでしょう?

おそらくおられないと思います。

世界中どこへ行っても、皆幸せになりたいと願うのが当然であります。

では、一体なぜ全ての人間は幸せを全ての人間は幸せを願うのでしょうか?

それは、もともと人間というものが、陽気で幸せな生活を送るべきものとして、この世に創られたからであります。

私たち人間を創られた神様は、人間が互いに仲良くたすけあい、楽しく暮らす有り様を見て、神も共に楽しみたいという思うから、私たち人間を創って下さったのでありますから、私たち人間は、自然に幸せを願うのであります。

しかし、現実にはどうでしょうか?

親子の断絶、夫婦の不仲、医学が進歩しているのにも関わらず、増加する病気、争い、不幸な姿を挙げればそれこそきりがありません。

なぜ、人間に陽気ぐらしをさせてやりたいという神様の思いから創られた人間がそのような不幸を招いているのでしょうか。

それは、人間が神様の思いに沿わない自分勝手な心を使っているからであります。

では、人間を不幸にする自分勝手な心とはどういうものでしょうか?

天理教の教祖は、私たちが毎日いろいろな心を使う中で、神様の思いに沿わない自分勝手な心遣いを「ほこり」に例えてお教え下さいました。

家の中のほこりを思い出して下さい。

ほこりは毎日払えば、なんともないですが、掃除を忘れると、つもり重なって、そのまま放っておきますと、拭いてもはいてもとれない汚れになってしまいます。

それと同じで、心の中のほこりも、毎日の心遣いを反省して、きれいに掃除をしていれば良いですが、それを忘れると、心に汚れが染み付いて、なかなかとれなくなり、改められない悪い心遣いが身についてしまうのです。

神様は、心の使い方を大きく八つに分けてお教え下さいました。

一つ目は、「をしい」という心遣い。

あの人にこれをあげるのはおしい、あんな奴にこんなことをしてやるのはおしい、出し惜しみして人に迷惑をかける。

これが「をしい」の心遣いであります。

二つ目は、「ほしい」という心遣い。

人のものを見ればむやみにほしく思い、その物に見合う努力をせず、与えを出さないで、結果のみを求めたりする。

これが「ほしい」の心遣いであります。

三つ目は、「にくい」という心遣い。

不都合があれば、自分のいたらぬことを棚に上げ、他人のせいにして憎み、あの人がこんなことをしたとして憎み、人が成功したといっては憎む、みんな「にくい」の心遣いであります。

四つ目は、「かわい」という心遣い。

自分の子供だけがかわいくて、そうでない人には、冷たい仕打ちをする。

これが「かわい」という心遣いです。

五つ目は、「うらみ」という心遣い。

あいつがこんなことをした・言ったと、しつこく恨み、人が親切でした忠告を恨み、良いことにつけ、悪いことにつけ、人を仇にして恨む心遣いが「うらみ」のほこりであります。

六つ目は、「はらだち」という心遣い。

人が何かを言ったからと、すぐに腹を立てたり、自分が面白くないからといって、少しでも自分の意に沿わないことに「はらだち」の心をもって報いることもまたほこりであります。

七つ目は、「よく」という心遣い。

人より余計にモノや金を欲しがったり、人をおとしめてまで、名誉や地位を求める心が「よく」であります。

八つ目に「こうまん」という心遣い。

自分の知らないことでも、知っているような顔をしたり、人よりも偉い顔をして通りたいと思う心、また、人のすることを見下したり、人の欠点をわざわざ探したりする。

これが「こうまん」の心遣いであります。

これらを八つのほこりとして、戒められています。

その他に、「うそ」「ついしょう」の二つの心遣いもよろしくないとお教えいただいております。

人間は自分の力でいきているのではなく、神様のおはたらきによって生かされていることを知り、いつも自分の心のほこりを掃除し、神様に感謝し、毎日を嬉しく楽しく、たすけあいの心で生きることこそが、幸せへの道につながるのであります。

日々の感謝と反省が陽気ぐらしへの近道であります。

身体はかりもの

皆さん私たちの身体の精巧な構造、不思議な働きについて考えてみたことがあるでしょうか?

目が見える、言葉が話せる、耳が聞こえる、手足が自由に動く、このようなことがあまりにも身近で当たり前になり、その有難さを忘れているのではないでしょうか?

夜寝ている時も、心臓は休みなく動いています。

呼吸も止まることはありません。

自分で心臓を動かしたり、呼吸をしようとしている人はいないのです。

食べたものを自分で消化している人は一人もいません。

胃が勝手に消化して、腸を通って栄養分が吸収され、不要物は排出されます。

誰が私たちの身体を調整してくれているのでしょうか?

天理教には、「かしもの・かりもの」という大切な教理があります。

「かしもの・かりもの」とはどういうことかと申しますと、人間の身の内とは身体のことで、私たちのこの身体は、神様からお借りしているのであって、私たちのものではないと仰られるのです。

その証拠に誰一人として、自分の身体を自分で動かしている人はいません。

すべて神様の御守護のおかげによるものです。

例えば、病気になった時を考えるとよく分かります。

発熱に苦しみ、悪寒に悩み、手足一つさえ自由に動かせなくなるときはあります。

自分の身体であれば、病気になることもないでしょうし、たとえなったとしても自分で治せるはずです。

自分の力ではない何か大きな自然の力、神様の力が私たち人間の身体を調整して下さっているのです。

こういうことを考えてみますと、やはりこの身体は、自分のものではないということが分かってくると思います。

私たちは人間の身体は、神様からいえば、かしものなのです。

私たちは、神様に生かされおり、この身体をおかりしているのです。

かりものというのは、この肉体のみでなく、妻・夫・親・子供も地位財産、それから空気・水・太陽の光、これらの自然の恵み全てが神様からのかりものであります。

これを、私たちは無償でおかりているのであります。

このお働きと御恩をいつも忘れず、感謝の心を持って大切に使わせて頂き、人のため、世のために心と身体を使うことで、この世界が喜びに満ちた社会に変わっていくことが、天理教の教祖の教えられた陽気ぐらしの世の中であり、神様の待ち望まれる陽気世界なのです。

どうか一度、天理教の教会にお立ち寄り頂き、陽気ぐらしのためのお話を聞いて頂いて、共々にこの世界が陽気な明るい社会になるように、勤めさせていただきましょう。