天理教人名辞典 喜多治郎吉 きたじろきち

喜多治郎吉 きたじろきち

嘉永5年(1852)7月8日、大和国添上郡伊豆七条村(現、大和郡山市)にて父矢迫和市郎、母おたみの三男として生まれた。

兄二人、姉二人の末弟。安政6年(1859)8歳より慶応元年(1865)14歳まで郡山藩儒者藤井貞次郎塾で学び、伊豆七条村で生き字引と言われた矢追順次(準治)から米鴇きの合間に字を書いて貰い、一心に糠に書いて練習した。

夜仕事の暇に同村矢追典膳(熊造)より旧算(算数)を教わり、開平開立まで習得した。

明治元年(1868)17歳の時、眼を患い、実姉(一説に桝井伊三郎)より「にをいがけ」(においがけ)を受け入信。

その頃祖父が公事(訴訟)負けをしたため家運が傾く。

治郎吉は体格が秀れ力が強く、明治3年19歳の時、宮相撲に出て以後負け知らず。

20歳頃、添上郡柳生村(現、喜多治郎吉奈良市)へ製茶二番師として出向いた。

以前製茶の経験がなかったが、半日程で覚え、まもなく他の者より上手になった。

治郎吉の訪ねた家では是非製茶法の秘法を教えてもらいたい。

その代わりに柳生新陰流極意を伝えるからと申し出があり、枇杷の木太刀一振を貰い極意を教わった。

明治7年23歳で相撲取りの夢断ちがたく大阪へ出て陣幕関取に入門、3年間修行したが、途中悟るところがあって、やめて帰郷した。

この年重い熱病に罷り、明治8年頃相当熱心に信仰した。

明治9年25歳頃より家から通いおやしきの蒸風呂焚きや「ひのきしん」に精を出した。

当時御供であった金平糖一桶100斤(60也)を両手に一桶ずつ提げ軽々と神殿に運んだ。

明治10年26歳の時、緑あってもと郡山藩御典医で漢方医者の喜多源吾の娘よしの婿養子に迎えられ、喜多姓に改まる。

喜多家は融通念仏宗で、治郎吉の天理教の信仰に大反対であったため、義父母に隠れておやしきへ詣った。

明治13年29歳の時、付近の美濃庄、番条、轢枝、七条、横田、三橋、発志院、中城、白土という村々の信者を組合して誠心講という講社を結成、妻主上は講元となった治郎吉の支えとなるべく大和木綿製造を業とした。

明治19年治郎吉34歳で教導職拝命、翌20年教祖現身隠しの際のおっとめに、万一の拘引に備え下着を重ね着し、白土村からおやしきへ駈け付けた。

ただし「おさしづ」公刊本に人名はない。

明治20年5月6日、36歳で「水のさづけ」(さずけ)を頂き、1里半(約6km)の道のりを40日間おやしきまで通いつめ、手振りを習った。明治21年、神道天理教会が設置された。

その年5月梅谷秀太郎を養子に迎えた。

5月に治郎吉は教会本部準派出掛、22年7月、本部常詰貞(本部員)拝命。

明治23年よしは両足の立たぬ身上障りとなり、続いて治郎吉も立ち眩み激しく、心定めしてたすかる。

これを機に家業の木綿製造をやめ、道一条となり一家挙げておやしきへ入り込む。

明治26年、誠心講は治道布教事務取扱所と発展、矢追楢蔵に担任を譲った。

明治27年8月、日清戦争の軍夫募集に当たり、人夫取締掛を拝命。

28年頃からお道が日本全国に非常な伸展を見せる時期に、教会内部においても対社会的問題においても事情が起きた。

明治29年、いわゆる秘密訓令により天理教に対する外圧の取り締まりが厳しくなるや、本部から派遣され教会の修理丹精に当たった。

明治30年中河分教会事情整理員、35年以降教区取締条規、40年教会組合規定に基づき教区ごとに教務支庁長が任命され、治郎吉は、福岡(福岡、大分、佐賀、台湾)、熊本(熊本、鹿児島、宮崎、沖縄、長崎)の両教務支庁長に任命され手腕を振るった。

明治41年12月14日、本部員拝命、大正2年(1913)2月14日、島ヶ原分教会4代会長、同3年には本部会計収入掛、5年4月に大阪教務支庁長拝名。

大正6年11月1日、66歳で出直した。