天理教人名辞典 仲野秀信 なかのひでのぶ

仲野秀信 なかのひでのぶ

仲野秀信は、嘉永5年(1852)8月4日、大和国添上郡小泉村(現、奈良県大和郡山市小泉町)において、父仲野秀興、母久江の長男として生まれた。

父が大和小泉藩の藩士でお馬廻役をしていたせいであろうか、秀信は、青年期より柔術、剣術、馬術の三術に秀でていた。

奈良および大阪の巡査に奉職し、巡査に柔術や剣術を教授したり、奈良・大阪各地に道場を開いたりしていた。

明治17年(1884)、33歳のときから1年間程、中国・四国地方を遊歴し、明治18年、34歳のときに小泉村に帰っている。

明治18年の末に、梶本松次郎(中山眞之亮初代真柱の兄)より、当時20歳の初代真柱の柔術・剣術の指導を依頼され、それから「おやしき」に来るようになった。

その翌年、秀信35歳の明治19年2月4日か5日に、おやしきに稽古に来た折、初めて教祖(おやさま)にお目にかかった。

そのときに、教祖と力くらべをして、教祖から

「そっちで力をゆるめたら、神も力をゆるめる。そっちで力を入れたら、神も力を入れるのやで。この事は、今だけの事やない程に。」

とお言葉をいただいた(「稿本天理教教祖伝逸話篇』174話「そっちで力をゆるめたら」)。

以後、心を定めて信仰するようになったと伝えられる。

同年8月25日(除暦7月26日)の夜に、暴徒がおやしきに闖入するという「ふし」があったが、秀信は、この三輪村の博徒、木屋天こと外島市太郎の剣術の師匠でもあったので、ことなきをえたという(【稿本天理教教租伝』295-296頁。

秀信は、明治19、20年に盛んに行われた仏教撲滅演説等にも参加したり、各地の巡教におやしきの人々と同道している。

また明治20年1月10日(陰暦12月17日)夜9時過ぎの相談に参加している(『稿本天理教教祖伝」309頁)。

教祖現身(うつしみ)おかくしの際、秀信の紹介で、大阪の医者森長平に死亡診断書を書かせたという。

明治33年に、天理教校が開校され、翌年から本校舎の普請が始まり、明治35年に落成する。

そして明治41年には、天理中学校が創立開校されるが、秀信(57歳)は、柔道、剣術、体操の教師となっている。

また中学校の建築に際しては、教校4棟を監督し、また青石橋の改築をも進めた。

大正12年(1923)11月25日に出直した(72歳)。

[参考文献]
  • 天理教校『天理教校五十年史』(天理教校、1950年、2002年復刻版)
  • 松村吉太郎『道の八十年』(養德社、1950年、2009年改訂新版)
  • 天理柔道史編集部編『天理柔道史』(天理柔道会、1977年)