天理教人名辞典 北田嘉一郎 きただかいちろう

北田嘉一郎 きただかいちろう

三島村(現、天理市三島町)の人。醤油屋。

慶応3年(1867)新春から8月にかけて十二下りの歌が制作されたが、節付けと振り付けに、満3カ年かけられた。

その時初めて手振りを教えられた中に、嘉一郎の名がある。

中山重吉の子中山慶太郎の妻もと(教祖の孫福井鶴太郎の長女、明治12年7月生まれ、同42年90歳没)は、この人からお手振りをよく習ったという(平成9年5月3日、福井鶴太郎の孫鶴之丞90歳から聞く)。

明治13年(1880)の「辰歳大宝恵」の7月29日の条には「一金弐十円 北田嘉一郎へ戻ス云々」(『天理教学研究』)第33号130~131ページ)と記載がみられる。

この家に明治16年頃高井猶吉が寄寓していたという。

明治18年3月7日の教会創立事務所で行われた教会設置運動を推進する会議にも名を連ねるほど熱心な信者で、天元講にも相当関わりがあったとおもわれる。

嘉一郎の子竹松は、初代真柱の学友として交わりも深かったが、明治41年5月、天元講を改めて組織し、明治42年4月調べによる人名調には、講元となっている。