天理教人名辞典 山本利三郎 やまもとりさぶろう

山本利三郎 やまもとりさぶろう

嘉永3年(1850)1月13日、河内国志紀郡相原村(現、大阪府柏原市)に、父利八の長男として生まれた。

青年期、利三郎は村相撲で「やつがね」のしこ名を名のる相撲好きであったが、21歳の時、相撲の打身が原因で病床に就き、3年間の長患いをしていた。

この頃、大和の布留(現、天理市布留町)から同じ柏原村の「トウ宮」という木挽屋に働きに来ていた態さんという人から「大和の神さま」の話を聞いて、父利八ともども「おぢば」へ引き寄せられる。

この時利三郎は教祖(おやさま)直々のおたすけに浴し、感激をもって入信する。

明治6年(1873)、利三郎が24歳の時である。

以後、地元柏原村はもとより、志紀、老原、恩智(現、大阪府八尾市、藤井寺市一帯)の村々、さらには古市村(現、羽曳野市)など、河内一帯に布教の足跡を残し、未開を拓く「あらきとうりよう」の使命に挺身した。

明治10年頃、大阪河内の講社取締役を拝命。

明治22年10月、柏原村に柏原集談所を設置。

翌23年3月17日、同所に相原分教会設置のお許しを頂き、会長となる。

なお、地方庁認可は明治25年1月23日であった(会長山本利三郎。地方庁出願担任は板倉槌三郎。名称改称 中河分教会。場所を南高安村大字恩智(現、八尾市恩智)に移す)。

明治26年5月、教会事情により、本部から前川菊太郎が3代会長に就任。

山本利三郎は本部詰となる。

教祖在世中、明治14年頃以降、利三郎は「おやしき」で教祖の間近にお仕えし、「取次人」としてその御用にあたった。

明治21年5月23日、本部役員を拝命。

明治28年11年13日、出直した。46歳。