天理教教会辞典 東大教会 あづまだいきょうかい

東大教会(あづまだいきょうかい)

初代会長の生い立ち

東大教会の道は、初代会長上原佐助の入信に始まる。

佐助の幼少より壮年に至る波乱の人生が、その信仰の土台となっていると言えよう。

佐助は嘉永3年(1850)、備中国小田郡笠岡で、浜屋と称し、煙草の製造販売を営む父笠原儀七、母たけの長男として出生した。

2歳の時に母に、13歳の時祖母と父に死別し、1歳の弟と、妹を妊娠中の継母の3人が残された。

こうした中から、佐助は大阪で手広く畳表の問屋を営む伯父上原佐吉を訪ね、父を失った笠原家の今後について相談し、笠原家再興の決意を固め、同時に商都の繁栄の姿を実見し故郷へ帰った。

その後15歳の時に継母とも死別するという不幸にもめげず、18歳で妻を迎え、夫婦心を合わせ、家運の再興に努力したが、幕末から明治へと移り変わる世の流れに耐え切れず、23歳の明治5年(1872)、遂に家を整理し、大阪の伯父佐吉の許に出ることになった。

しかし妻の実家からの苦情により、やむなく家内と離別し、妹を連れて大阪に旅立った。

かかる人間的な悲しみに耐え、伯父の厳しい仕みをうけた努力が実り、やがて伯父の跡目を継ぐこととなり、上原姓を名のるに至った。

このように人生の初期に、並みの人間では味わえない悲しみ、苦しみに耐え、努力を重ねて当時世間で「江戸積みは備佐(屋号)が一番」と言われる程の大阪屈指の豪商となった。

しかしそれも長く続かず、やがて明治15年頃を境として商売を縮少せねばならぬ苦しみも味わうことになる。

人間的幸福を求め、努力をし、その結果一時は栄達を味わったが、それはまことに儚いものと感じ取られたことであろう。

入信

このような時、明治13年31歳の佐助は、巷に伝わる天理教の教説を耳にし、翌14年家族と共に初めて「おぢば」に参拝し、教祖の暖かい親心と不思議な親神の働きを目のあたりにし、人間的思考に立った人生から親神、教祖の心に添った人生へと心の切り換えをし、確固たる信仰をもつようになった。

その後、事ある毎に大阪からおちばに通い、求道の日々を送るうち、教祖から「赤衣」を授けられ、

「東京々々、長崎」(逸話編』215頁)

という尊いお言葉を頂いた。

上原佐助はここに関東布教を志し、固い決意のもとに商売を整理し、家をたたんで「赤衣」を奉じ、「みかぐらうた」本1冊、「おいきの紙」一把を持ち、店の小僧をしていた椿卯之助一人を連れ、明治18年7月24日、神戸から海路東京へ向かった。

佐助は、まず下谷金杉下町に居を定め、布教を始めたが、その年の暮頃までには、後の大教会役員山本信之助、京橋分教会初代会長柴田吉之助、浅草大教会2代会長宫内初太郎、谿郷分教会初代会長松本善次郎等の人々が入信し、常に20〜30人の人が寄り集うようになった。

かくて家が手狭になるにつれて、金杉上町をへて竜泉寺へと移り、4間(7.2m)に2間(3.6m)の建物を増築した。

これは「死に間」と嫌われた世間の迷信を打破し、親神の教えを広く世に伝えるためのものであった。

当時の布教は秋田県本庄にまで及んだ。

明治20年陰暦正月26日、教祖が現身を隠されたことは、陰暦2月2日おぢば発の手紙で知った。

佐助はその返信の中で、この悲報に一時は驚き落胆もしたが、教祖の日頃の教え通り、「おつとめ、おたすけ、つくし、はこび」の固い決意を述べている。

この直後数名の者を連れておぢば帰りをし、「おさしづ」に基づき、帰京後直ちに信者を結集して東京真明講社を設立し、東京8講社の基礎を固めた。

講から教会へ

明治21年1月、教祖1年祭には、佐助は東京真明組の講元として信者を連れておぢばに帰ったが、「1年祭の事件」に遇い、協議の結果いよいよ東京で天理教会の公認を得るべく、急ぎ帰京し組を挙げて全力を注ぐことになった。

明治21年4月10日、東京市下谷区北稲荷町42番地(現、東大教会所在地)に天理教会所(教会本部)を初めて認可され、同24日初代真柱が祭主となり、仮開筵式が盛大に執行された。

同年8月、教会本部がおぢばに移転、その後に「天理教会本部出張所」が置かれたが、さらに「おさしづ」を仰ぎ、翌22年10月14日、東分教会所に引き直された。

教祖5年祭を無事終えた明治24年4月5日、東分教会へ本席が入込まれることになり、このことが初代会長から発表されるや、寄り集う者すべては、躍り上がる思いで諸般の迎え準備を喜々として進めた。

当日各地から参集の信者は、神殿を埋め尽くし、前庭まで立錐の余地なく詰め寄せて本席を迎えた。

上段定めの席に着座された本席は、参集の一同に目通りされ、のち設けの客間に入られてから「教祖は生涯御苦労ばかりなされて、こんなもてなしを一度も受けられなかったのに、助けられたわしが、こんなにしてもらうては勿体ないことや、どうかわしに構わず、信徒に充分満足させてやってもらいたい」との話があった。

この時の本席には教祖の御苦労を深く偲ばれてか、涙を流さんばかりの表情であったと伝えられている。

その後昼食時、本席のようすが急に改まり、御前に伺候した初代会長に対して、「さあ/\この所/\、この所清水(せいすい)一条、もう水という清水の水を授けよう」「さあ/\水を授けて置くで」(さ24・4・5)とのおさしづにより、教会の土地所に「清水(せいすい)のさづけ」を頂いた。

また同14日には「又一つ出越した処、地所という、水と言えば清水、代々更われど、重々の理に授けてあるのやで」(さ24・4・14)との一連の「おさしづ」により、「さづけの理」が明らかになった。

この「清水のさづけ」によって、珍らしい「おたすけ」が相次ぎ、教えは関東はもとより東北、四国にまで及んだ(現在もさづけの取りつぎはつとめられている)。

明治27年、先の教会本部公認にあたり土地を献納した中台勘蔵を教会長とする日本橋支教会は、同2月17日の「おさしつ」により、日本橋分教会に分離昇格した。

明治29年、内務省から秘密訓令が出され天理教に対する弾圧が烈しくなり、各新聞が一勢に反対攻撃の記事を掲げたが、かかる中にあっても初代会長は些かも動揺する事なく、教祖殿の普請にかかり、一方教内外から講師を招いて講習会を開き、また数多くの公共事業に参加する等、懸命につとめた。

明治35年11月、初代会長は「おさしづ」により、一家を挙げておぢばに引き移った。

また前後して詰所建築が決まり、三島471番地を買収、同34年5月詰所本館の新築棟上げが行われ、秋には完成した。

明治41年11月27日、天理教の一派独立を機として、同年12月30日、東大教会に昇格した。

おぢばにあって10年、建築中の詰所に起居し、本部員としての勤めに精進する初代会長は、絶えず東の道の上に心を馳せ、部内教信者の丹精に努めたが、明治45年3月11日、63歳でその生涯をとじた。

明治45年5月1日、理事の椿卯之助が会長事務取扱の許しを得て、折柄おぢばで進んでいた旧神殿の普請と、同年6月10日の初代会長100日祭を目指し、天理教最初の試みである団体臨時列車によるおぢば帰りを行った。

参加者は1,200名を数えた。

東の道の伸展に伴い、明治22年建築の教堂は手狭となり、大正5年(1916)から数十回にわたって大教会建築の設計図が引かれ、関東草分けの道に相応しい建築計画が練られた。

このような中で大正9年10月25日、2代会長に上原義彦が就任し、東部内教会は拳って新たな前進を期した。

2代会長時代

大正12年9月1日の関東大震災には、大教会を始め多くの部内教会が焼失した。

しかし教祖40年祭に向かい「大教会の復興は、ぢばへのつとめと部内教会の復興から」との2代会長の思いにより、大教会はバラック建築にし、罹災教会23カ所の復興を手始めに部内教会を糾合、年祭の一大運動たる教勢倍加に全力をあげ、教会数430カ所の教勢となった。

大正15年8月、本部の命で中国東北地方巡教中の2代会長は、現地での病気を機として東の海外布教を決意し、当時韓国大邸で韓国人への布教をしていた清水豊吉夫妻を中心に、内鮮同慶会をおこし、布教の傍ら学校を開いて、韓国婦人の教化と職業教育を施した。

昭和2年の春、2代会長は大教会の復興建築について、「我が東大教会は明治21年天理教会本部が初めて公認をうけた由緒ある教会にして、本教が公然と社会に打って出た道の源流である。関東における大教会にして帝都の中央に位置する天理教の代表的建築物としたい」と抱負を語り、その具体化に動き出した。

同年8月18日、2代会長の就任まで会長事務取扱であり、教会の支え柱と言われた椿卯之助が出直した。

昭和2年(1927)12月21日、遷座祭、昭和4年最終的建築設計図も完成、12月24日本部より許しを得、昭和5年7月11日起工式、12月11日には上棟式が挙行された(本教初の鉄筋コンクリート建築)。

昭和6年10月9日、2代真柱によって鎮座祭が、翌10日落成奉告祭が盛大に執り行われた。

参拝者の宿泊所の一つとして下谷公会堂(現台東区役所)等を借り、当日支給の弁当は23000個という盛況であった。

この時韓国からも、種々の困難の中を27名の韓国人が参拝した。

この復興建築と並んで時かれた海外布教の種は、昭和7年10月同慶宣教所の設立、同6年単身台湾に渡り布教を開始した五百部安次郎が、同9年12月に東昭陽宣教所を台北市に設立、同8年大連布教事務所(所長高橋樹一郎)を、同10年旧新京に満洲同慶会を開設、また11年上海在住の大塚野布の中国大陸布教となった。

昭和8年本部の教祖殿が、翌9年10月南礼拝殿が落成し、その2度にわたる奉告祭に東も国内はもとより、韓国、中国からも大挙しておぢばに参拝し、詰所は増築も聞に合わず、天幕張りの急造の宿舎で参拝者を受け入れた。

昭和11年教組50年祭には、詰所もさらに増改築をしたが、なお三島公会堂を借りて宿舎とし、盛況裡に年祭期間をつとめた。

立教100年祭を目前にした昭和12年4月10日、大教会で2代真柱により天理教会創設50年記念祭が盛大につとられた。

同年11月28日執り行われた立教100年祭の後、同12月3日初代会長夫人上原つねが73歳で出直した。

昭和15年、教会制度の改革により、牛込、深川、浅草の各分教会が分離昇格する事となり、同年4月10日、東大教会で3大教会昇格の奉告祭が執行された。

日中戦争、太平洋戦争と戦火が進むにつれ、東京をはじめ各地が空襲に遇い、部内教会16カ所が戦火をうけ、同20年1月大教会も被爆したが、火災に至らず損害は軽かった。

昭和21年1月からの教祖60年祭期間中の2月1日、2代大教会長夫人上原るいが57歳で出直した。

昭和27年4月教祖70年祭が発表されたのを機に、東詰所の移転が決まり、同29年12月豊井町55番地への移転が殆んど完了した。

同年6月、同15年以来とだえていた大教会連絡報(大正5、6年頃よりの『興道の日本』『東陽』さらに『このみち』と続く)が「東大教会報』の名称で発刊され、文書活動の一端として毎月おぢばの動きや大教会よりの連絡あるいは部内教会の情報を伝え、370号(昭和61年12月)に及んでいる。

同年7月、本部より発表された第1回子供おぢばがえりが行われ、以後毎年大勢の子供がおぢばに参拝し今日に及んでいる。

3代会長時代

昭和32年、教祖80年祭への第一歩として15カ所の部内教会が新設された。

同年4月26日、3代会長に上原義輝が就任、新しい東の道が踏み出された。

戦災教会あり、海外よりの引揚げ教会もあり、決して充分な姿ではなかったが新設の15カ所の教会を擁し、まさに2代から3代に移るに相応しい成人への道であった。

同年10月20日大教会に2代真柱代理として、中山善衛3代真柱後継者の臨席を得て、3代会長就任奉告祭が盛大に執行され、翌33年2月1.200名の慶祝団体がおぢばに参拝した。

昭和34年1月、東大教会史編募委員会が発足し、定期的会合を重ね、昭和38年1月20日『東大教会史第1巻』を刊行し、部内教会に配布した。

昭和37年1月、活動要項の一つとして、「講」の結成促進が発表され、以後今日まで200カ所以上の講が結成された。

同年2月27日、おちばで初代会長50年祭が執行され、全国各地から1,000余名の教信者がおぢばに参拝し、折から進められていた「おやさとやかた」西棟のひのきしんに参加、また3月11日大教会で勤められた年祭には、分離大教会からも多数の参拝者があり、韓国からも追悼詞が寄せられた。

昭和40年 8月1日、地番変更により北稲荷町40番地は東上野5丁日3番14号と改まり、部内教会の地番変更も多く、教祖80年祭の記念事業の一つとして、同年10月『大教会名称録』を刊行した。

昭和41年おぢばでは教祖80年祭がつとめられ、詰所では部内30有余の団体参拝者を受け入れるため、1年以上も前から準備に万全を期し、期間中5.000余名の参拝者を迎えた。

翌42年3月19日、大教会に1,000名の会員が参集、「よのもと会東会」の結成総会が盛大に開催され、ようぽくの決意と誓いを新たにした。

同年11月、2代真柱の出直を機に海外布教の推進が図られ、韓国、台湾との往来も密となり、昭和43年には東南アジア、ハワイへ青年会員が布教研修のため派遣された。

昭和43年 3月、大教会設立80年記念事業として、信者用付属建物の普請にかかり、9月に完成を見た。

同年3月31日、少年会東団結成総会、5月16日、婦人会東支部では婦人会長を迎え総会を開催、また10月20日、真柱臨席のもとに大教会設立80年記念よのもと会総会が執行され、大教会は参拝者の人波に埋まった。

昭和45年11月から12月にかけ、部内教会長を対象に、教理を治め自覚を新たにする事を目的に、「教会長研修会」を11会場で催し、翌46年には「教会長夫人研修会」を開催、教祖90年祭に向かう心づくりの第一歩とした。

教祖90年祭に向かう途上の昭和46年6月2日、戦中戦後の苦難の中を通って来た韓国大邸に、テグ教会が新設され、昭和49年2月26日、吾妻長崎分教会が長崎市に新設、初代会長が教祖から頂いたお言葉の生かされる旬を見た。

教祖80年祭後より、天理大学と台湾の中国文化学院との交換教授として台北に在った清水栄吉の布教活動により台北士林布教所が開設され、昭和50年11月8日、劉月眉を会長に東慶教会の開設奉告祭がつとめられた。

これより先、同慶分教会役員の縁により、昭和48年5月インドネシヤN.T.B州長官の招きにより、大教会長がロンボク島に渡航し親交を深め、前後して天理大学日本語選科への留学生を迎えることになった。

昭和51年教祖90年祭を迎え、数干の参拝者を受け入れた詰所は、老朽化が目立つうえに手狭でもあり、昭和53年9月27日第94母屋(東詰所)普請の許しを得、同10月20日に大教会設立90年記念秋季大祭を真柱臨席のもと、つとめ終えた後工事にかかり、昭和56年4月26日工事の完成を祝った。

昭和54年3月5日、本部員として50余年おちばの御用に勤め切った2代会長上原義彦は、91歳を天寿として出直した。

この悲しみの中にも詰所の普請は進み、海外布教も一層推し進められた。

同年、青年会員の布教意欲昂揚を図る上から、東分会主催の第1回布教キャラバン隊が、12月21日より東北、北海道の部内教会を拠点に出発した。

以後毎年この時期に行っている。

昭和58年 2 月、『東大教会部内教会史』第1巻が刊行された。

これは2代会長が晩年に、「自分としては至らぬながら、おぢばの御用に精一杯働かして頂いたことは有難く思っているが、一つだけ心残りなことがある。それは東大教会長のご命を頂いた者として、部内教会の丹精に充分な時間が割けず、部内の者に満足のゆく導きの出来なかったこと」と語った意を生かし、5年祭をつとめるに当たり刊行されたものであった。

郷分教会長松本滋が、東京大学留学中のネパール皇太子(現国王)の世話取りをしたことが機縁となり、本部派遣のネパール出張所長大向良治氏とのつながりをもち、昭和58年11月、青年会東分会がネパール布教研修を行い、大教会長始め20数名がカトマンズに渡航した。

以後教理と日本語の勉強を図る文書を通じ交流を深め、修養科、別席を運ぶ者が来訪し、教祖100年祭の年の昭和61年7月20日、講元M.K.シュレスタを中心にネパール真明講が結成され、同11月カトマンズに東青年の家を建設、親神の神実祀り込みを行った。

昭和62年4月10日、天理教会創設100年記念祭を東より分離の日本橋、牛込、深川、浅草、阪東、立野堀の7大教会連合で執行する予定である。

東大教会年表

年号月日内容
明治18年7月24日上原佐助、関東布教のため上京
明治20年8月東京真明講社を設立、東京8講社の基を築く
明治21年4月10日下谷区北稲荷町42に天理教会設置認可
明治22年10月14日本部、おぢばへ移転の後の出張所をひき直して東分教会設置認可
12月21日初代真柱より、上原佐助東分教会長の辞令を頂く
明治24年4月5日「せい水のさづけ」を頂く
明治27年2月17日日本橋支教会、分離异格
明治33年5月6日初代会長、本部員登用のおさしづを頂き、11月、家族共々おぢばへ引越のお許しを頂く
明治41年12月30日東大教会に改称
明治45年3月11日初代大教会長上原佐助63歳、詰所にて出直(椿卯之助会長事務取扱)
6月10日初代大教会長100日祭に当たり、おぢば帰り団体挙行(1200名)。
本教最初の臨時列車団体
大正9年10月25日上原義彦、2代大教会長に就任
大正12年9月1日関東大震災、大教会類焼、部内23教会焼失
大正15年6月3日清水豊吉、韓国布教を開始
8月11日機関紙『このみち』発刊、この以前に『興道の日本』「東陽』を刊行
昭和5年7月11日昭5 7/11 大教会復興建築起工式
12月11日上棟式
昭和6年2月五百部安次郎、台湾布教開始
10月9日大教会復建築鎮座祭、翌10日奉告祭
昭和15年1月23日牛込、深川、浅草分教会分離昇格
昭和29年6月10日『東大教会報』発刊
12月5月以来の詰所移転工事完成
昭和32年4月26日上原義輝、3代大教会長に就任
昭和38年1月20日『天理教東大教会史』第1卷刊行
昭和43年3月11日大教会設立80年を記念し、附属建物(新館)増築起工式、9月11日落成式
10月20日真柱臨席のもと、東大教会設立80年記念、よのもと会東会総会開催
昭和46年6月2日韓国、大邱にテグ教会新設
昭和48年5月インドネシャN.T.B州長官の招きにより、大教会長渡航(ロンボク島)
昭和49年2月26日吾妻長崎分教会設立
昭和50年11月8日台湾、台北の東慶教会開設奉告祭
昭和53年9月27日第94母屋(東詰所)普請のお許し
10月20日設立90年記念秋季大祭、真柱臨席
昭和54年3月5日2代大教会長上原義彦出直(91歲)
12月21日第1回布教キャラパン隊出発
昭和56年4月26日第94母屋(東詰所)竣工
昭和58年2月20日『東大教会部內教会史』第1卷刊行
4月教祖100年祭三年千日、東一斉おちば帰り
5月58年度教会長親里研修会を3回に互り実施
11月教祖100年祭ようぼく研修会で始まる
東分会第1次ネパール布教研修実施
昭和61年7月20日ネバール真明講結成、講元M.K.シュレスタ
11月カトマンズ東青年の家開設