天理教教会辞典 芦津大教会 あしつだいきょうかい

芦津大教会(あしつたいきょうかい)

井筒梅治部の入信

井岡梅治郎は天保9年(1838)4月28日大阪市西区本田町に生まれる。

明治12年(1879)5月、梅治郎42歳の時、長女たね(後の3代会長)の身上より信仰し始めた。

当時、井筒家は屋号を「播清」と称した万綿商を営んでいた。

多くの職人がいて、至極堅実な商人であり、町内の有力者でもあった。

明治12年(1879)2月28日、長女たねが生まれたが、5月頃より腹から下にかけての「百いぼ」で悩んでる時、隣家の中川文吉の紹介で摂津国安立村(現在の大阪市住吉区)の前田藤助(通称種市)より初めて「天理王命」の神名を聞いた。

種市は水ごりを取って「おたすけ」にかかり、親神に一心に祈った。

梅治郎夫妻もまた熱心に祈願し、遂にたねはたすけられた。

明治12年7月30日のことである。

本田寄所

娘たねの上にあざやかなたすけの現実をみた梅治郎は、従来の大峯山行者の修験道信仰から一転して、熱心に天理教を信仰するようになり、種市と共に遠近の病人に布教した。

隣家の中川文吉の失明が一夜のうちにたすかり、三日三夜のお願いで常態に復したのを始め、永年足が立たず戸板に乗ってたすけを乞いに来た人が帰る時には歩いて帰れるようになったり、永年不自由であった眼や耳や口や手足などがことごとく良くなるなど、「不思議な御守護」を得た人々の評判を聞き、難病業病に苦しむ者が続々とおたすけを乞いに集まり、井筒家は門前市をなす有様であった。

明治13年陰暦3月4日、梅治郎夫妻は娘たねの身上の快癒の御礼詣りに、たねを連れて初めて「おちば」にお礼参拝した。

早朝出かける時は大雨であったが途中からすっかり上がり、その日は藤井のお茶屋に一泊、翌日の午後4時頃おぢばに到着した。

そうして、親しく教祖にお目通りし、

「あの雨の中をよう来なさった」

と、教祖はたねの頭を撫でて下さり、

「お前がたは大阪から来なさったか。めずらしい神様のお引寄せで、大阪へ大木の根をおろして下されるのや。子供の身上(病気)はあんじる事はない」(『逸話篇』71、123頁)

とのお言葉を頂いた。

梅治郎は、教祖に直々お会いできた喜びと、御守護への報恩の道として、大阪へ帰ると、さらに熱心に布教した。

病人があると、神様の御守護と信仰の喜びを説いて、お願いをかけた。

すると不思議にも次から次へとおたすけがあがり、おたすけを頂いた人は、また御恩報じに、「においがけ」、おたすけに歩き、大勢の信者が詰めかけて来るようになった。

明治14年信者の増加に伴い井筒家の向かいの2階家を借りて信者の寄り合い場所とした。

これは中川氏の持家で、間口2間半(4.6m)、奥行6間(11.0m)で東側に神様をお祀りし、2階全体が参拝所となっていた。

これが「本田寄所」である。

真明組講名拝戴と道の伸展

信者の拠り所である「本田寄所」が出来ると、参拝する人もいよいよ多くなり、信者の間に講名拝戴の議が持ち上がってきた。

講社を結ぶ相談がまとまり、その許しを得るために、明治14年陰暦4月17日おぢばに運び、教祖より「真明組」の講名を頂いた。

これが芦津大教会の前身である。

農村に発達してきた天理教にとって初めての都会に結成せられた講社である。

真明組が結成されると、井筒講元は、娘たねの身上をたすけられた「元一日」の喜びのままに、わが身を忘れ、わが家を忘れて道の御用に励んだ。

また、井筒家は、宇治川の船着場に近く、信者には、船乗りや、ここから諸国に旅する人も多く、それらの人々が諸国のいろいろな名物、名産、珍しいものをもたらしてきたが、その中から教祖に喜んで頂けるものをおちばへ運ぶのが常であった。

明治14年おちばでは「かんろだい石造りふしん」が行われた。

瀧本村の山で石見が行われ、石出しが始まったが、明治14年除暦4月17日、真明組の人達もこれに参加し、山から麓の道路まで運び出す大役を真明組が引き受け、道路から「お屋数」までの運搬を明心組が引き受けた。

真明組は「真明組の踊り講」と言われ、「おてふり」は特に熱心であった。

病人のおたすけには、人数を揃え、「つとめ」の道具を持って出かけ、一同水をかぶり、身を浄めて神様にお願いし、3座の「お願いつとめ」をした。

朝3座、昼3座、夜3座というようにおつとめ、おてふりをし、2日3日と続けたこともあった。

また一手でも間違えると皆で話し合いをし、一岡が「さんげ』し合い、「心定め」をし、病人の家の人にもさとし、またつとめるという真剣そのままであった。

当時、初めて大阪の商人である梅治郎が入信して、天理教は商人の間に伝わり、またたく間に道は広く伸び広がり、各地で講社の結成を見ることになった。

明治14年井筒家の裏にいた立花善吉を通して天理教が兵庫に伝わり、同年陰暦6月上旬、上田藤吉を講元として兵庫真明組が結成(後の兵神大教会)され、明治15年井筒講元のおたすけにより眼病をたすけられた吉本八十八によって道はさらに遠州に伝わり、諸井國三郎を講元とする遠州真明組が結成(後の山名大教会)され、明治14、15年頃には大阪真明組信者野村辰太と弟京太によって阿波へ伝わり、播州、但馬へと伝わっていった。

明治16年に阿波出身の岡本久太郎、宗我元吉が入信して、道は梅治郎の郷里にまで及んだ。

明治17年には、真明組の河合六兵衛が淀川の回船業をしていた関係から山城伏見に伝わり、伏見真明組が設置された。

明治18年7月真明組の上原佐助は大阪へ妻子を置き東京に出て布教し、東京真明組(後の東大教会)を結成した。

大阪に残ったさと夫人は明治19年舅のいる笠岡へ帰って布教し、後に笠岡大教会となる。

明治19年秋岡亀次郎が入信、西宮で布教し後に西宮大教会となる。

明治20年真明組の信者都築竹治のすすめにより痔病をたすけられた島村菊太郎は入信し、「こんな有難いお話を、土佐の人々にも聞いてもらいたい」と思い、明治21年高知へ帰り布教した。

おたすけを願う人が多くなり、真明組より井筒講元始め7名の授訓者を派遣し布教して、短期間の間に道は高知県から愛媛県へと伸びていった。

これが高知大教会の前身である。

この間、伝道線が容易に伸び広がったのではなく、幾多の困難苦労の道が伴っていた。

梅治郎は親類縁者の白刃を振りかざしての阻止や、5回にもわたる警察への拘留科料等の迫害干渉をものともせず、命がけで布教し、信者育成に東奔西走の日々を送っていた。

梅治郎はまた一面明朗達そのもので、春花咲く頃ともなれば、誰いうとなく梅屋敷の梅見物、野田の影藤の藤見にと講元を中心に出かけて行き、一同は重箱の馳走や酒を出す前に必ず円陣を作って陽気にておどりをする風であった。

明治20年 6 月、常日頃至って壮健で、お道の御用に積る苦労も喜びにかえて、活動していた井筒講元が、またとよ夫人が共に高熱となり、病名もわからぬ不思議な容態となった。

12日おぢばに参拝したところ、13日、末代に輝く「こう水の水のさづけ」を授けられた。

明治20年6月13日、井筒梅治郎家内の者、身上障りに付、御願いせしに、「水のおさづけ」を頂けり。

その時の「さしづ」「さあ/\内にも障り付けて引き寄せた。長々細道余程勢もあるまい。さあ/\長々のきゅうこう、その功によって、さぁ/\さづけ、神水の水をさづけ。さあ/\さあしっかり受け取れ。この水にて人を救けるのやで。たとえ何処の水、どのよの水汲んでも、三度口頂いてやるのやで。さあさあさあ/\落すやない、戻すやない。神は返やせとは言わん。なれども心違えば、直ぐに戻るで。心違わねば末代子孫に続くで。神が返やせと言わん程に。よく/\心違わんよう。さあ/\受け取れ、しっかり受け取れ。」

芦津分教会設置

明治21年教会本部設置が公認され、明治22年1月14日、真明組分教会設置のお許しを得て初代会長に井筒講元が就任した。

早速大阪府庁へ認可申請したが却下された。

しかしそうした中にも信者は増加し、「本田寄所」はますます狭く明治23年4月には大阪市西区立売堀南通3丁目に新築移転した。

同年9月8日俗に新町焼けと呼ばれる大火が起り、猛火は真明組事務所にも迫ってきた。

水の授けを頂いている井筒講元は神前に一荷の水を供え、同一心におつとめをしてその水を手桶に移し火の粉の飛び散る屋根に上り「南無天理王命」と水をかけた。

その時、事務所の板塀が音を立てて焼け落ちたが、風向きが突然一変し一瞬の差で延焼をのがれた。

四方3,000戸ことごとく焼失した中に真明組事務所だけがポッンと残った。

人々は驚喜し一層勇み立った。

明けて明治24年、教祖5年祭を迎えて、教団全般の教勢が白熱的な伸展を示している時、真明組としても年祭の理を頂いて、「たすけ一条」に邁進することであるとの上から一刻も早く地方庁の公認問題の解決が急がれた。

真明組からすれば地方の真明組講社がすでに地方庁の教会公認となっていることから一刻も早くと願う心に、「事情は一つ一時始め掛掛けるがよい。さあ/\、始め/\、理は許す許さんは無いで処々の理を聞いて成程いう理を持たにゃ無らん、さあ〜掛かれ。」(さ24・5・5)と、早くかかれとの「おさしづ」を受け、6月に入って教会名称を「芦津」と改めて、3度目の教会設置の願書を明治24年6月17日に提出。

29日付をもって、地方庁から公認された。

8月26日には海路陸路を問わず、真明組につながる者が寄り集い喜びの中に開筵式を陽気につとめた。

同年10月には、西区新町南通2丁目に、320坪(1,059㎡)の土地を購入、移転建築に着手し、翌明治25年5月には神殿を中心に付属建物も落成した。

初代真柱及び本席を迎えて5月5日鎮座祭、6日開筵式、7日大祭を盛大に執行した。

真明組講社時代の地方講社である遠江真明組は山名分教会、兵庫真明組は兵神分教会、東京真明組は東分教会として、いずれも本部直属となり、土佐真明組は明治24年高知分教会設置の許しを得、翌25年には芦津分教会より分離して本部直属となった。

その他の講社はそれぞれ支教会、出張所、布教事務取扱所を設置して明治29年までに31カ所に及び、その範囲は大阪、兵庫、岡山、広島、京都、和歌山、島根、徳島、福岡、鹿児島、沖縄の各府県に及んだ。

2代会長就任と苦境の打開

井筒梅治郎会長の娘たね(18歳)に高安分教会長松村吉太郎の弟五三郎(23歳)を明治29年11月18日養嗣子に迎えた。

同年12月31日井筒梅治郎初代会長は59歳をもって出直した。

井筒五三郎は信仰篤い松村家の3男として生れ、16歳の時激しい痔の患いを不思議にたすかり、19歳で単身淡路洲本へ単独布激に出た。

淡路島に五三郎の足跡の及ばない所はないほど布教に専念し、教勢の伸展と共に教会設置の運びとなり、22歳で洲本出張所担任、翌年洲本支教会長に就任、部内教会6カ所を設立した。

初代会長の出直しにより、明治30年、五三郎は2代会長に就任した。

当時は内務省の秘密訓令(内務省訓令第12号、明治29年4月6日発令)、安堵村の水屋數事件(明治30年6月)、前橋事件(明治29年4月)、また教会の財政難、外部からの圧迫干渉等が天理教全体に大きな波紋を投げかけていた時である。

会長に就任した五三郎は、「道の歩みに、沈滞は死滅を意味する。勇んで働く。このことがすべてを生かすただ一つの道である。財政の困難を嘆く前に、不足不満を持つ前に、まず勇んだ心で、人だすけに働かせていただくこと、難境打開の道はこれのみ」と、若さと固い信仰信念をもって、難関打開へ勇んで立ち向かった。

信者の数も次第に増加し、一方一家を挙げて布教に専念する人も多くなり、住込み家族も増えたため、明治32年3月10日「おさしづ」を頂いて3間半(6.4m)に8間(14.6m)の2階建役員宅を新築した。

また、明治33年4月24日、三島(現在の南門の所)に「おさしづ」を仰ぎ376坪(1、245㎡)の信者詰所を新築した。

当時本部では初代真柱夫人を芯として婦人会の芽生えとも言える会合が持たれていたが、芦津部内でも「婦人研究会」と称して教理の研修、心の練成に努め部内の婦人巡教を展開する中に、入会者も増加し、明治31年11月18日、芦津分教会婦人会が結成された。

4代会長の誕生

2代会長夫妻の結婚は、明治29年11月18日で、その後会長夫人は、前後13回ほども妊娠したが、流産や夭死(ようし)が続いた。

明治31年7月23日井筒たね7カ月にて死産後心得の事情願の「おさしづ」には、「元の修理肥足らんから十分実がのらん。修理肥やし足らんと言えば、物を以てと思う心を繋ぐたんのう。嬉しい働けば神は守る、という。よく聞き取ってくれ。」との御諭しがあり、また明治32年11月8日「井筒五三郎妻たね21才流産後身上障りに付願」の「おさしづ」には、「楽しみが苦しみあって、どうでもこうでも通らにゃならん。案じてはなろまい。必ず案じよう。内々も外も隔て無いなあ。一つの理神の理、皆々心ただ一つの理に治め。」との「おさしづ」も頂き、2代会長夫妻の熱い信仰に、身上を通じ一層拍車をおかけ下された。

前述のごとく流産夭死の続く中に、ただ一人4代会長(井筒貞彦)のみが成人したのである。

大教会昇格と本部神殿ふしん

明治41年11月27日、天理教一派独立に伴い、明治42年1月8日芦津分教会は芦津大教会と改称の認可を受け、同年4月12日初代真柱を迎え改称奉告祭を執行した。

当時教師として教会本部より辞令交付された者は、1,764名であった。

明治43年1月28日天理教婦人会が創立され、芦津婦人会は1,400余名の会員をもって芦津支部となった。

明治44年10月27日本部神殿建築の起工式が行われると、各直属教会からの献木が相次いだ。

芦津においても献木に「おつくし」に会長を先頭に全部内―手一つに懸命につとめた。

2代会長自ら所々の山を検分し御用材の切出しに精根をつくし、明治45年4月18日には、吉野檜材を丹波市駅まで鉄道貨車で運び、大教会長を先頭に2千余名が勇ましく賑やかに御木曳を行った。

大教会昇格後の動き

大教会では、教勢の進展、信徒の増加、諸種の行事、それに婦人会芦津支部の活発な動きに、従来の建物では狭隘を極めるので、大正2年(1913)7月31日にお許しを頂き、神殿南側に3階建家、間口8間(14.6m)、奥行3間(5.5m)を増築した。

大正4年4月25日には本部神殿新築奉告祭が執行せられたが、その荘厳な姿を仰ぎ見ると、大教会における教祖殿が決して満足できるものとは言えないので、教祖殿の普請を会長自ら心に定め、大正6年11月27日お許しを頂き、建築にかかり、大正8年2月21日新築落成奉告祭を執行した。

同年11月2日井筒五三郎2代会長は図らずも病床に臥し、同月8日、46歳をもって出直した。

3代会長就任と詰所ふしん

2代会長出直し当時、嗣子貞彦は14歳であったため、後任者について度重ね役員会議を開き、2代会長夫人井筒たねが、大正8年12月2日お許しを頂き3代会長に就任した。

本教初めての婦人大教会長であった。

時あたかも教祖40年祭に向かって「倍加運動」のさ中であったが、就任後は、「わしはこれから女やないで。男やで。井筒たねは、男の井筒多彌や」と、赤いものは一切身につけず、着物は男仕立、女の帯を結ばず、袴をはき、外出の時は、将校マントを着るようにして、職責を果たすべく全力を注いで活躍した。

「別科生」、授訓者も急激に増加し、海外への伝道も台湾、棒太に及んだ。

本部境内地の拡張は、すでに大正8年頃から進められていたが、教祖40年祭活動目標の〜つとなり、各詰所は、次々にお屋敷から遠くへ移転し、神殿南側の地域が、漸次広場に改められていく中に、芦津も丹波市町丹波市に土地3,000坪(9,930㎡)を購入し、大正13年信者詰所移転に着手した。

翌14年12月16日詰所本館落成式を執行。

この建造物は600坪(1,986㎡)の地下室を有する鉄筋コンクリート造り、また巨大な信徒室の棟など、結所設備の先駆であって見学が絶えなかった。

3代会長は、婦人会本部理事として、台湾への初巡教、天理女学校設立委員、幼稚菌、託児所の建築、養徳院の改築など積極的にとりくんだ。

また、大変子供が好きで、大教会内の子供はもちろん、部内の子供の育成にも力をそそぎ、昭和4年(1929)6月23日には芦津子供会の発会式を行った。

当日は親達も交じって総勢400名に達した。

4代会長就任と戦中、戦後の動乱期

4代会長井筒貞彦は昭和3年郡山大教会長増田甚七5女志まへと結婚、昭和5年2月15日お許しを頂き4代会長に就任した。

昭和10年4月笠岡分教会は中教会に昇格分離。

昭和12年に勃発した日中戦争は次第にエスカレートし、戦時色が濃くなっていく中に、遂に会長も召集となった。

出征に際し、会長は池田、西宮両教会を本部へお供えすることに決定した。

戦時中会長は「いざひのきしん隊」隊長としても九州筑豊炭坑に出動し、また兵庫教区長として管内を統轄した。

昭和20年3月13日深夜から14日早朝にかけて大阪を一面火の海と化した大空襲により、大教会もまたたく間に灰爐に帰した。

昭和20年8月15日終戦の日を迎え、思想、宗教に対する抑制が解除せられ、「おやさと」においても各詰所に宿泊中の軍関係者らは、逐次解散帰国、転々と移動していた芦津詰所も9月1日もとの第12寮へ復帰した。

翌21年6月10日復興建築のお許しを頂き、10月大教会焼跡に着工、昭和23年5月21日 2代真柱を迎え落成奉告祭を執行した。

終戦を契機として日本の動向は180度転換した。

天理教では「復元」の旬のおとずれと共に、本来の信仰の道を歩むことができるようになり、4代会長は次々と本部の要職に推され、本部につとめ切り、大教会においては全員総力を駆使して立ち遅れた教勢の挽回につとめた。

戦火の傷跡はあらゆる面に生々しく、殊に都会の教会では苦労も一入であったが、一歩一歩と元の姿に近づいていった。

5代会長就任後の道、神殿及び母屋ふしん

4代会長に嗣子なく、昭和32年3月撫養大教会長の弟敏夫を養嗣子として迎え、さらに4月治道大教会長3女ふみこを嫁に迎えた。

翌昭和33年4月、4代会長はその職を辞し本本部勤務に専念した。

かくして昭和33年4月24日お許しを頂き共筒敏夫は5代会長に就任。

席の暖まる暇もなく北海道から沖縄へと全国にわたり、部内教会、布教所信者に至るまで修理丹精した。

沈滞気味であった部内一同次第に活気を取りもどしてきた。

会長は諸々の事情から、初代の心にかえることを心に誓い、大教会の土地建物すべての献納を決断し、同年10月21日大阪市阿倍野区三明町2丁目59番地、元芦浪分教会の土地建物を借用し移転した。

借地借家であり、仮住いの形は小規模であったが、部内一丸となって熱心な布教を展開して、布教所は各地に開所され、教会内容は充実をみるに至った。

昭和37年2代会長40年祭を機に、現在の大教会の敷地である大阪市東住吉区平野西脇町525番地に千坪(3,310㎡)の土地を購入、6月21日大教会神殿ふしん第1期工事に着手、翌昭和38年5月20日鉄筋コンクリート3階建の神殿および付属屋が落成し、2代真柱、3代真柱の臨席のもとに鎮座祭、翌21日は喜びの中に落成奉告祭を執行した。

会長は准員そして本部員として、「ぢば」への勤めに励み、また部内の修理に心を尽くした。

また一方、ようぽく信者一同一丸となって通る中に、昭和45年千坪(3,310㎡)の大教会敷地拡張の土地を得、3月26日お許しを頂き、4月16日起工式と、いよいよ本格的な神殿建築に着手した。

一同は喜びにあふれ、部内教会長始め全ようぼくが真剣に布教活動を展開し、人手不足の社会情勢にもかかわらず、連日100名に上るようぽく・信者の「ひのきしん」によって、巨大な神殿、その他附属建物が建築された。

かくて昭和48年5月19日真柱臨席のもと鎮座祭を執行し、翌20日には8,000人のようぽく・信者の寄り集う中で神殿建築落成奉告祭を執行した。

昭和50年8月26日第2次世界大戦後教内における台湾での初めての教会、真明彰化教会が設置された。

昭和51年8月30日、5代会長はアメりカ・ブラジル巡教のため成田を出発したが、本部神殿不測の事故により急きょアメりカから引き返した。

教祖100年祭を迎えるに当たり、老朽した詰所の建替えをと昭和52年5月26日お許しを頂き、11月27日起工式、昭和54年2月24日真柱臨席のもと竣工式を執行、当日より第73母屋芦津詰所として使い始めた。

昭和56年5月23日

「おまえさん方は、大阪から来なさったか、珍しい神様のお引き寄せで、大阪へ大木の根を下ろして下されるのや。⋯⋯⋯」(『逸話篇』124頁)

と教祖よりお言葉を頂いた初代の道より100年という年月を数え、真明組講名拝戴100周年記念祭を真柱夫妻臨席のもと、5、000人のようぽく・信者喜び集う中に執行された。

昭和54年1月26日、5代会長は東西礼拝場ふしん委員会副委員長に指名され、実施部長に任命され、「ぢば一筋」に与えられた御用に伏込んでいたが、翌昭和55年4月身上を頂き、その中をも東西礼拝場ふしんに全霊を賭してつとめ、竣工目前の昭和59年9月13日、68歳をもって出直した。

昭和59年11月26日、お許しを頂き井筒梅夫は6代会長に就任、翌60年1月23日真柱夫妻臨席のもと部内教会長始めようぽく・信者4,000余名の寄り集う中、6代会長就任奉告祭を執行した。

芦津大教会年表

年号月日内容
天保9年4月28日井筒梅治郎(初代会長)、大阪市西区本田町通3丁目198番屋敷に出生
明治12年7月30日井筒梅治郎、娘たねの身上により入信
明治13年3月5日井筒梅治郎一家おぢばへ初めて参拝、教祖より「大阪へ大木の根を下ろして下されるのや。」とのお言葉を頂く
明治14年4月17日井筒梅治郎始め信者一同おぢばへ詣で、教祖より「真明組」の講名を頂く
明治20年6月13日「こう水のさづけ」を頂く
明治22年1月14日真明組合教会設置のお許し
明治23年4月大阪市西区立売堀南通3丁目に新築移転
明治24年6月29日地方庁認可
7月5日井筒講元は芦津分教会長に就任。月次祭を22日と定める
明治25年5月5日大阪市西区新町南通2丁目37番地屋敷に新築中の芦津分教会落成、初代真柱を迎えて、親神、教祖の鎮座祭執行(随行·前川、桝井、宮森、山中)
5月6日5日に続いて開筵式執行
明治29年12月31日芦津分教会初代会長井箭梅治郎出直(59歳)
明治30年4月28日井筒五三郎、芦津分教会長のお許しを頂く
明治31年11月18日芦津分教会婦人会結成
明治33年4月24日三島町に信者詰所新築
明治42年4月12日初代真柱を迎え、芦津大教会と改称奉告祭を執行(随行・高井ほか3名)
大正8年2月21日大教会教祖殿新築落成奉告祭執行
大正11年11月8日2代会長井筒五三郎出直(46歳)
12月2日井筒たね、芦津大教会3代会長に就任
大正14年12月16日芦津詰所移転建築落成(丹波市町300番地)
昭和4年6月23日芦津子供会発会
昭和5年2月5日3代会長井筒たね、大教会長辞任出願
2月15日井筒貞彦、芦津大教会4代会長に就任
昭和8年8月2日3代会長井筒たね出直
昭和20年3月13~14日大教会戦災を受け焼失、お目標兵庫教務支庁へお供する
3月21日東津分教会へ仮鎮座
4月6日強制疎開で移転のため豊野分教会(大阪府北河内郡)へ仮鎮座
昭和23年5月21日2代真柱を迎え、大教会復興建築落成奉告祭執行(随行・中山為信、梅谷忠雄、岩田長三郎、板倉知広)
昭和33年4月24日井筒敏夫、芦津大教会5代会長に就任
昭和38年5月20日2代真柱、3代真柱、中山玉千代を迎えて、大教会移転建築第1期工事落成奉告条執行(随行·梅谷忠雄、小松駒太郎、中山正信)
昭和48年5月20日真柱夫妻を迎え、大教会神殿落成鎮座祭(19日)、奉告祭(20日)執行(随行・梅谷忠雄、板倉知広、中山正信)
10月30日4代会長井筒貞彦出直し
昭和50年8月26日戦後初の台湾教会、真明彰化設立
昭和52年5月26日詰所改築お許し
昭和54年2月24日2/24 真柱を迎え、第73母屋竣工式執行
昭和56年5月23日真明組講名拝戴100周年記念祭執行
昭和59年9月13日5代会長井筒敏夫出道(68歲)
11月26日井筒梅夫、芦津大教会6代会長に就任
昭和60年1月23日3代真柱夫妻、中山善司真柱、中山善亮を迎え、大教会6代会長就任奉告祭執行(随行·中山正信、喜多秀義、松村義和)