天理教人名辞典 中山秀司 なかやましゅうじ

中山秀司 なかやましゅうじ

文政4年(1821)7月24日中山善兵衛、みき(教祖)の長男として生まれ、善右衛門を襲名する。

天理教立教の機縁として、天保8年(1837)10月26日、足痛となる(ふ12:115ー120)。

立教は翌年の同月同日、秀司18歳の時である。

立教以来、教祖(おやさま)の傍らにあって、今日の天理教の礎を築いた。

ことに、教えが近隣諸国から遠方まで広まるにつれ、神官、僧侶、医者などの弁難攻撃、さらに官憲の圧迫干渉が激しくなったので、秀司は心を砕き、布教公認や教会設置認可を得て、安心して教えを説くことのできる道を講じた。

慶応3年(1867)7月、京都の吉田神祇管領より神祇祭祀の認可を取りつけ、明治維新で吉田神祇管領が廃止になると、明治9年(1876)、堺県より風呂屋兼宿屋業の監札を受けて開業。

さらに明治13年(1880)9月、金剛山地福寺へ願い出て、仏式教会を設立した。

しかし、これらは親神の意に適うところではなかった。

明治2年(1869)秀司49歳の時、親神の思召で平等寺村の小東松恵(当時19歳)と結婚(ふ1:58-74)、1女たまへをもうける(ふ1:63-74)。

それまでに、内縁関係にあった女性との間に、しゅう(おしゅう)(嘉永6年生)、音次郎(安政5年生)の二人の子供をもうけている。

結婚に先立ち内縁の妻おちえと音次郎は里方へ帰した(ふ1:39-43)。

しゅう(おしゆう)は翌明治3年出直した(ふ1:60-62)。

その魂は後にたまへとして生まれかわった。

立教の機縁としての秀司の足痛は、「つとめ」によってこれを治すという親神の「ためし」であった(ふ15:24-26、41、50)。

しかし、天理教の発展とともに、教祖にふりかかる世界からの圧迫干渉には、秀司にとって心痛のたねであった。

教えの公認は秀司の念願であり、そのため種々の方策を講じたのである。

これらはもとより親神の許すところでなく、ひたすら「神一条」であるべきことを求めた。

秀司は教え(理)と人間思案(情)との板挟みとなった。

国家や法に対する天理教信者のとるべき態度を秀司を台として教えられたものといえる。

秀司は、貧のどん底の中、親神の命で常に紋付を着て野菜を行商していたので、「紋付さん」の愛称がある。

明治14年(1881)4月8日出直した(享年61歳)。