旭日大教会(あさひだいきょうかい)
岡本家の入信
おぢば近在には、早くから教祖のおたすけに浴した人が多い。
それぞれ各自おぢばに運ばせて頂いていたが、次第に地縁で講を結ぶようになった。
明治18・9年頃になると、おぢば周辺の約70カ大字の講社が大同団結して、日元講を結成し、やがて、旭日支教会が許されるに及んで、遠隔地にも道が伸び、今日の旭日大教会へと発展した。
なかでも、初代会長岡本善六の父重治郎の信仰は古く、元治元年(1864)義弟山中忠七の妻そのが不思議なお助けを頂いたのを目の当たり見せて頂いたのに始まる。
山中忠七から誘われるままに、おぢばに帰り、教祖のお姿に接し、御教えを聞き、深い感銘を覚えた。
慶応元年(1865)10月、入信後間もない重治郎は異端を唱えた針ヶ別所村の助造事件の解決に出向かれる教祖のお供として飯降伊蔵、山中忠七、西田伊三郎ら高弟の人々と共に出張した。
そして、慶応2年、重治郎は教祖より、黒骨の扇を授けられた。
重治郎は明治10年(1877)病気に罹り、毎日お屋敷に帰って蒸風呂に入れて貰っているうちに全快した。
そのお礼に、教祖のお居間の畳と夜具を献納し、教祖からお召物を頂いたが、明治11年6月9日、60歳で出直した。
重治郎の長男善六は、明治10年2月、永原村の組頭を命ぜられ、そのためか父の出直し後1、2年程は信仰を忘れていたようである。
ところが、明治12年、大和一円にコレラが流行し、長男栄太郎(7歳)も罹病した。
丁度、その頃の「おふでさき」にも「せかいにハこれらとゆうているけれど月日さんねんしらす事なり」(ふ14:22)と仰せ下されている。
善六は村の総代であるにもかかわらず、一村足止めになれば、村人に迷惑をかけることになり、息子の容体も案ぜられて、叔父の山中忠七に相談すると、「善六さん、あんた、親が亡くなって信仰せんから、一人の息子に障りつけて引き寄せて下さるのや。庄屋敷へお参りに行きなはれ。晩にはべんべら餅(餡つけ餅)食べられるワ」と諭され、お屋敷へ帰って、親の信仰を継いで一生懸命はげむ心を定めて家へ戻ると、不思議に治っていた。
後年、栄太郎が頂いた「おさしづ」にも「一夜のためし」「一夜十分一つの理」(さ23・3・4)と仰せられて、一夜の間に御守護頂いたことを忘れることのないよう諭されている。
明治14年8月頃、永原村から約1里(4km)離れた小路村の今田太郎兵衛から使いがきて、乳飲子を預かってほしいと頼まれたが、あいにく善六の妻シナの乳は出なくなっていたので断った。
ところが、 翌日になるとシナは身上にお知らせを頂いたので、息子の栄太郎を連れてお屋敷へ帰り、教祖に伺うと、
「シナさん、赤児に乳やるほど、大きなたすけはない。どうぞ助けてやっとくれ」
と仰せになった。
けれども、もう乳が出ないようになっていたので、さらに伺うと、
「世話さしてもらうという真実の心さえ持っていたら、与えは神の自由で、どないにでも神が働く。案じることは要らんで」
と仰せ下さったので、早速、世話させて貰ったところ、乳が出るようになり、月足らずで生まれた弱々しい児であったが、順調に育った。
後日、その児を連れてお屋敷へ帰った時、教祖はその児を抱き上げて下され、
「シナはん、善い事をしなはったなあ」
と仰せ下された(『逸話篇』144頁)。
明治14年、シナがお屋敷へ帰らせて頂くと、教祖が
「シナさん、一しょに風呂へ入ろうかえ」
と仰せられて、一緒にお風呂へ入れて頂いた。
またある時、教祖が一番下に召されていた赤衣のお襦袢を教祖の温みそのまま、サッとシナの肌身につけて下された。
シナはそのお襦袢をたたんで押し戴いて帰ろうとすると、教祖は
「着て去にや。去ぬ時、道々、丹波市の町ん中、着物の上からそれを着て、踊って去ぬのやで。」
と仰せられたので、有難さが遠のいて、心配が先に立ったが、厳しい官憲の取締りの中、赤衣の襦袢を着物の上から羽織って、丹波市の町中を、「ておどり」しながら家へ帰った(『逸話篇』155頁)。
こうして、シナは温かい親心と厳しいお仕込みを頂いて一層信仰を強固なものにして頂いたのであった。
善六もまた常にお屋敷へ帰り、ご用をさせて頂いた。
明治14年には赤衣で作った紋を頂き、一段と信仰熱心になった。
日元講の結成
明治18、9年頃、おぢばの近在では、各村に講社が結成され、永原村を中心とした永信講、新泉方面の誠心講、井戸堂村の天與講、宮堂付近の神楽講、その他村名を冠して、川原城講社、石上講社、櫟本組等と呼称していた。
当時、地方でも続々と講が結成され、地元をめぐる各村落でも、後の城法、平安、治道などそれぞれ講社の再編、強化に当たっていた。
その頃、絶えずお屋敷に詰めていた岡本善六は、井野彌一郎、上田民蔵らと相談の上、おちば近在の約70カ大字の講元に呼びかけ、講社の統合に当たるべく、お屋敷前の石西三五郎宅(当時煮売屋)の2階で、第1回結講会議を開催した。
何回かの会合の後、総講長には辻忠作が選ばれ、講名も日元講として発足した。明治19年11月頃のことである。
ひのきしんと講社の結束
明治20年正月26日教祖が現身をおかくしになるが、その直前、布留川に架かるウテント橋の新築工事が進められていた。
日元講の信者もひのきしんをさせて頂き、教祖の御葬祭に間に合わせて頂いた。
明治22年2月、王寺街道開鑿工事が行われ、日元講、天竜講、心実講の信者が主にひのきしんに出て、その数5,000人に及んだが、中でも、日元講の面々は王寺町の大峯の寺院に宿泊し、岡本善六の地方で「みかぐらうた」をあげて、気勢をあげた。
また、明治22年の夏、櫟本から山間福住に通ずる堂ヶ谷街道の開鑿工事には、延3,600人がひのきしんに参加し、夜は竹筒に原油を焚いて明かりとし、大釜を据えて、お粥を焚いて、昼夜兼行で工事に励んだと言われている。
結講間もない日元講では、これらのひのきしんは随分と講の結束を固めると共に、村々への大きなにおいがけともなった。
ひのきしんの姿に感謝して入信した松田亀太郎もその一人で、後に櫟本支教会を設立した。
地方への伸展
おぢば周辺の講社を統合した日元講であったが、次第に地方へも伸展することになった。
冬期の間、永原の堀川酒造に杜氏として働いていた京都府竹野郡下宇川村袖志の美田京蔵が、明治19年、岡本善六からお助け頂き、丹後に道を広めた。
また、岡本善六、井野彌一郎が、丹後へ巡教の途次、京都府長池で宿泊し、宿屋の磷家吉川政治郎の妻の産後の患いのおたすけをしたのが基になって、城久の道がはじまり、さらに、吉川政治郎のにおいがけで入信した下津屋村の鹿戸覚治郎が大阪に移り、道を伝えて天満の道の基を築いた。
吉野郡十津川村の上北徳太郎が、一商人から「三島に不思議な神様が現れた。どんな病も助けて下さる」と聞き、明治20年、おちばに帰りお助け頂き、十津川へ戻り道を伝え、日元講の井野瀬一郎ら役員の度重なる巡教で道が広まった。
また、風水害で新十津川村に移住した人々によって、北海道にも道が伝えられた。
雨龍大教会を興した西垣定喜も十津川でお助け頂いた一人である。
十津川で杜氏として働いていた和歌山県西车婁郡近野村の久保坂長市・尾畑与平も郷里へ帰って道を伝え、西紀の道がはじまった。
明治24年、三重県一志郡南家城の岩崎乙五郎が、噂を聞いて「おびや許し」を頂きにおぢばに帰り、日元講に加入し、道を広めたのが家城の道のはじまりである。
旭日支教会の設立
教勢の伸展する中、辻忠作は講長を辞任し、明治23年岡本善六が2代講長に就任した。
明治21年以来、次々と全国に教会が設立されるに及んで、日元講でも名称の設立を願い出たが、「本部周囲1里以内にての直属教会設立は認められず、部属教会の距離は2里以上たるべし」とのことで、おぢばに近い関係からお許し頂けず、講名のまま、内容の充実を計っていた。
そのため「明治26年9月14日、日の元講社内織田村大字芝において布教事務取扱所設置の願」「明治27年6月4日、日の元講社十津川込之上32番地に元和布教事務取扱所設置願」などと、今日の織田、十津川など部内教会が先に設立のお許しを頂いた。
ようやく、明治28年3月13日、特に許されて、奈良県山辺郡朝和村大字永原57番屋敷で、岡本善六を担任として、旭日支教会の設立のお許しを頂いた。
翌明治29年には、村の東端に737㎡(7畝13歩)を購入し、二階堂村井戸堂の木村宅82㎡(25坪)を移築し、仮神殿とした。
遠隔地の布教と部内教会の設立
旭日支教会の設 立と相前後して、中家友吉、津越熊江、仲野宗五郎、外川嘉兵衛、石原やす等が足尾銅山にて布教し、更に外川嘉兵衛、石原やすは栃木県那須郡金田村に道をつけ、秋田に入り、増田町に道を伝えた。
教祖10年祭を前に、道が全国に広まって行く中に部内の講社や新しい布教地でも次々と名称の理を頂くことになり、織田、元和につづき、天満、西紀、磯城、櫟本、足尾、家城の設立をみた。
また、秘密訓令後の厳しい情勢の中に、紀本、菅、戒場、朝和、纒向、増田、内牧、西那須と設立が相次いだ。
神殿建築のふし
明治34年、神殿建築の議が起こり、接続地約3,000㎡(3段11歩)を買収し、同年5月15日神殿建築のお許しを頂き、9間(16.2m)に6間(10.8m)の神殿および客殿、庭園、塀、表門など万余の経費と3年の年月を費して、明治36年8月竣工し、明治37年3月9日に鎮座祭、3月10日に落成奉告祭を盛大に執行した。
ところが、後に残されたのは多大の負債であった。
その上神殿建築に平行して、明治34年頃より三島事務所の移転拡張が計画され、郡山詰所前の田畑3,967㎡(4段歩)の購入の話がまとまり、手付金を打ったが、代替地に予定していた三島事務所の売買交渉が解約され、財政的窮地にあった教会を一層窮迫に導いたのであった。
当時、岡本家の財産は神殿建築の上にすべて使い果たし、不動産も借財の抵当に入り、寄附金も予算の額に達せず、負債の利子払いさえも停滞がちになった。
加えて、日露戦争が勃発し、会計面に意を注いでいた初代会長の子息栄太郎(4代会長)が召集を愛け、大津の9連隊に入営した。
初代会長は負債の整理に奔走したが、役員も1人去り、2人去りして、明治38年1月には教会在住者のほかわずかの役員が踏み止まったに過ぎなかった。
心身ともに極度に消耗した初代会長は軽い中風にかかり、山中彦七の勧告を入れて会長職を辞し、事情整理のため本部より派遣されていた山澤為造が明治39年11月28日、2代会長に就任した。
2代会長時代
2代会長は借財の返済期間の猶予依頼に債権者を戸別に度重ねて訪問したが、尋常の手段をもって到底整理のおぼつかないことを悟り、神殿はじめ教会の所有物件をすべて売却して負債の整理に当たり、一から出発することにした。
当時の神殿は今日なお、奈良市十輪院町の法徳寺の本堂としてその名残りをとどめている。
「旭日支教会長岡本善六辞職に付、山沢為造後会長にお許し願」のおさしづに「これまで日元講と言うであろう。容易ならん、これよりの理はあろまい。なれど、皆々心の理が何かの理に成らん。尋ねる事情余儀無く事情であろう。よく聞き分け。皆々辺所でも心を結んで通れば、どんな所どんな所でも皆治まるもの。なれど、一人又一人二人三人事情、何人めん/\事のように思うから、何したんぞいなあ、と言うようになる。世界多くの中にも、こんな理はあろまい。よく聞き分けて改め替え。遠く所遙かな事情でも皆治まりてある。いかな事情も治まりある。元一つの道でありながら、一つの心皆そも/\で通るから、何したんぞいなあと言うようになりたる。又変わる処人の心、心に添え、役員々々とも言う、詰員とも言うであろう。皆心の精神の理を以て、一つ出たる理に心を添うて一条の道を通れば、これからと言う」(さ39・11・28)と仰せ頂いている。
日元講という結構な理を頂きながら、みんなが「一つの心」にならず「そもそも」で通るから「何したんぞいなあ」というような結果になってしまった。
役員、詰員をはじめみんなが後任会長に心を添うて通れば、これから道がひらけて行くと、反省を求めるとともに、今後の歩み方をお示し頂いた。
明治40年2 月21日、旭日支教会を奈良県山辺郡二階堂村田井之庄の中西憲一の離れ座敷に一時移転し、仮神殿とした。
その頃の初代会長一家は永原村では村八分の状態で、初代会長夫人と子息栄太郎の嫁の2人が小間物やきざみ煙草の行商で一家の糊口をしのいだ。
暫くして、初代会長は本部の農事のご用に大裏へ、夫人は炊事場へつとめることになった。
兵役を除隊して帰還した初代会長の子息栄太郎は、わが留守中に行われた負債の整理の仕方に納得できず、不満であった。
そこで、除隊の一時金で、下駄の裏金の機械を買い入れ、その製造卸をする一方、「元の岡本にせんならん」と、百姓、養蚕はもとより、柿、梨、みかんの仲買から呉服反物商と悲境の盛り返しにつとめた。
明治45年、初代会長夫妻が相次いで出直し、その50日祭の日に栄太郎の姉の嫁ぎ先の舅に当たる東海の加見兵四郎会長より、「財産をなくしたのは、教会のためになくしたのではなく、岡本家のいんねんを果たさせて頂いたのである」と、お諭しを受け、加見兵四郎の苦労話を聞かして頂いた。
すると、栄太郎は急に居住いを正し、「私の思い違いでした」とさんげし、一家揃って再び道一条に出ることになり、永原の岡本の家をたたんで支教会の移転先、井之庄に移り、神社の境内の会所を借りて住居とし、教会へ通った。
しばらくして、栄太郎は山澤会長の命を受けて秋田へ布教に出発し、長男重善は青年として教会へつとめた。
山沢2代会長は就任早々から、「伏せ込み柱でも結構、丸太柱でも結構、神様の参り場所として、早々建物が欲しいものや」と話していた。
たまたま、役員の太田嘉平の妻キヨが伝染病に罹り、到底たすからぬと思われるところ、田畑一段歩を教会の敷地にお供えする心定めをすると、一夜の間にご守護頂いた。
これが基礎となって拡張され、現在の旭日の境内地になっているのであるが、ここに4間半(8.1m)に7間(12.6m)の神殿を新築し、明治43年12月10日鎮座祭、翌11日に分教会昇格とあわせ神殿落成奉告祭を執行した。
分教会昇格と前後して、城久、呉城、西川、狭川の各名称の設立をみた。
大正3年(1914)12月31日、初代真柱が出直され、山沢会長は管長職務摂行者に就任し、大正4年2月25日3代会長に桝井安松が就任した。
その年、竹ノ宮の設立をみた。
3代会長時代
大正10年1月27日、教祖40年祭が提唱され、教勢倍加が打ち出された。
桝井会長の下、事情の節に立ち遅れた本会も、倍加運動の波に乗って、活気を呈し、大正11年から数年の間に、布施、斑鸠、天與、大倭、久原、高天、久神、天一、東北、呉吉、粕尾、日尾、東那須、日北、旭弘、標津、織西、天産、天要と教会設立が相次ぎ、教祖40年祭の執行された大正15年には教会数も40カ所になった。
昭和3年(1928)5月19日、旭日中教会に昇格し、桝井会長は本部に帰任することになり、昭和3年7月23日、4代会長に岡本栄太郎が就任した。
その年、久本、ハッ山、天任の3名称の設立をみた。
4代会長時代
4代会長岡本栄太郎は就任直後、 松村吉太郎本部員を迎えて、「授訓者並教師大会」を開催した。
松村吉太郎本部員の意気に燃えて、再び教勢倍加の運動を起こし、1、2年の間に照理、久大、久永、満寿美、旭津、五十弘、旭和、旭城、大野美、旭之宫、旭洋、満寿市等12カ所の名称設立をみた。
当時、旭日の境内建物はあまりにれ狭嗌であった。
そこで、教会を移転し、現在地に時所を設置することになり、奈良県生駒郡平端村額田部に17,292㎡(1町7段4畝14歩)を買収した。 直ちに移転計画にかかったが、昭和6年10月26日、諭達第五号を以て教祖50年祭、立教100年祭の提唱があり、移転計画を中止し、両年祭活動の上につとめることになった。
その後、従来の境内地に加えて、隣接地4,727㎡(4段7敏23歩)を買収し、信徒室、食堂、講堂、倉庫などを増築し、両年祭の帰参者の受け入れに当たった(平端の移転予定地は天理時報社移転の話が出て、昭和39年6 月26日、本部に献納させて頂いた)。
両年祭活動の白熱化するなか、昭和7年4月7、8、9日の3日間、本部の普請に使われる足場木4万本を滝本山から切り出し、ご本部へ運ばせて頂き、信者一同昭和普請へ一層の意気を昂めた。
別科生、別席者も増加し、年祭活動中に櫟阪、萱生中、旭愛、旭北、鷲尾の設立をみた。
5代会長時代
昭和13年、国家総動員法が公布され、日中戦争が激化し、政府より教義、儀式の改正を迫られるなか、昭和15年2月14日、旭日大教会に昇格し、昭和16年7月2日、5代会長に岡本重善が就任した。
第2次世界大戦が勃発し、大教会の信者棟も終戦まで、海軍三重航空隊奈良分遺隊第3兵舎として、少年航空兵の学舎に接収され、その間、教勢の進展に余り見るべきものはないが、戦時中にもかかわらず、京二、明談、旭道の3教会の設立をみた。
戦争が終結し、昭和21年、教祖60年祭を迎えて復元が提唱され、教典が制定された。
第13回教義講習会が開催され、教典の精神が教内に徹底されるなかに、おたすけ活動も進み、菊園、天満都、久道広、久高の4名称の設立をみた。
4代会長は、外に教勢の伸展を計り、内に境内地の拡張、附属建物の増築など内部の整備に心を尽したが、神殿建築を後々の者に残しておくと言って、昭和20年2月24日出直していた。
そこで、5代会長は先代の遺志を継ぎ、神殿建築の機をうかがい、奈良教区長在任中(昭和23年3月〜26年3月)も、他教会へ参拝の折など常にふしんに関心を払って準備に余念がなかった。
昭和25年10月24日、神殿ふしんにかかる旨を発表し、早速、資材を収集した。
時に、昭和28年1月、教祖70年祭のお打ち出しを頂き、おぢばのご用に専心つとめさせて頂く上から、神殿ふしんを70年祭終了まで延期した。
おやさとやかたの構想が発表され、全教がひのきしんに湧き立つなか、旭日でもおやさとふしんに度重ねて、総出ひのきしんを繰り出した。
70年祭活動の期間中、榎坂、大倭西、磯和、磯芳、磯治の5名称の設立があり、その後、道野元の設立をみた。
教祖70年祭を無事つとめ、昭和31年8月25日、神殿建築外附属建物建築のお許しを頂き、5年の歳月をかけて、神殿489㎡(148坪)祖震殿132㎡(40坪)神饌室16㎡(5坪)客殿264㎡(80坪5合)廊下35㎡(10坪5合)が竣工し、昭和35年11月23日、神殿落成奉告祭を執行した。
昭和36年1月、教祖80年祭が提唱され、地方講習会、おやさと講習会、後継者講習会、布教所長講習会などが相次いで開催され、80年祭活動が次第に教内に盛り上がるなか、旭日でも昭和36年8 月27日「ようぼく大会」を開催し、ようぼくの決意を促した(以後、毎年8月に実施し、昭和40年より「よのもと会旭日会総会」として開催を続けている)。
80年祭活動期間中、ようぼく数もかつてない増加をみた。
昭和41年10月31日、創立71周年記念祭を執行し、旭日の道をふりかえり、新たな出発の日とした。
また昭和43年には、立教131年教義講習会が、1次2次と開催され、折から提唱中の「一人のようぼくが三年の間に三人のようぼくを!」のスローガンに応えて、ようぼくの丹精に励み、真柱より「丹精」の御染筆を下付頂いた。
その間、川城、菊香、旭之井、日川原の設立をみた。
昭和43年 3月28日には、少年会旭日団結成式を開催し、全部内教会に隊を結成した。
以後毎年3月28日に少年会旭日団総会を開催し、後継者の育成と隊活動の推進を計っている。
また、昭和38年以来、毎年続けて開催している学生生徒夏季練成会も、昭和43年8月より野外で実施し、昭和55年6月25日には京都府の丹後半島の一角に土地を購入し、キャンプ場の開設をみた。
教祖80年祭後、新たに旭東都、旭波、旭東静、旭芳南(移転改称)の設立をみた。
6代会長時代
5代会長岡本重善は、昭和46年10月24日、在職30年目の節に会長を辞任する旨を発表し、昭和46年12月26日、岡本善孝が6代会長に就任した。
教祖90年祭が提唱され、つとめとさづけの徹底による教会内容の充実を促されるなか、6代会長は全旭日部内教会を巡教し、現状の掌握と修理丹精につとめた。
その間、菊路と旭陽都(移転改称)の2名称が設立された。
昭入50年3月30日、真柱を迎え、創立80周年記念祭を数行し、数会内容の充実と併せ、100名称達成を誓った。
その当時、旭日は76名称であった。
いちはやく、旭園、菊生、大楼宮、吉日と名称設立が相次ぎ、動きがみられるかに思われたが、その後は遅々として進まず、再三、布教所長研修会を開催し、機関誌「躍進』を発刊して、教会設立への決意を促した。
その間、将来に備えて、旭日の神殿を中心として構内の建物を整備することになり、配置・設計計画を立て、その第1期工事として、昭和53年12月1日、鉄筋コンクリート造り4階建、延2,817㎡の信者会館を建築した。
教祖100年祭が提唱され、旭日大教会では、おぢばへのつくしはこび、教会内容の充実、教会名称100カ所達成の3つを目標に100年祭活動をすすめてきたが、なかでも、100名称達成については、昭和56年には旭拝、昭和59年には久成、菊都、道誠、旭摂、百光、天八(移転改称)、昭和60年には別海、東中標津、別保、櫟高、久山、城俣、菊山、神納川、旭徳、城津、增道、久治、西紀港、磯里(移転改称)、道小阪(移転改称)と名称の設立が相次ぎ、100年祭を前に100名称を達成した。
昭和61年1月26日、感激のうちに教祖100年祭をつとめさせて頂き、昭和61年5月25日、100名称達成祝賀会を開催した。
昭和61年10月24日の秋季大祭には真柱の巡教があり、「100カ所の教会が、もれなく教会らしい活動をして貰いたい」とお言葉を頂き、「百という字を実らそう」と御揮毫頂いた。
今後、旭日の道はまさにこの真柱のお言葉を体して、その内容の充実に向かわんとしているところである。
旭日大教会年表
年号 | 月日 | 内容 |
嘉永2年 | 11月24日 | 岡本善六(初代会長)、奈良県山辺部朝和村永原に生まれる |
元治元年 | 岡本重治郎(初代会長の父)、義弟山中忠七の妻そのの不思議なおたすけを見て入信する | |
慶応元年 | 10月 | 重治郎、助造事件に教祖のお供をする |
明治12年 | 長男栄太郎(4代会長)がコレラに罹り、一夜の間にお助け頂き、父善六は信仰熱心になる | |
明治14年 | 岡本シナ(初代会長夫人)、赤衣を頂く | |
明治19年 | 11月 | おちば周辺の70カ大字の講社を統し、日元講を結成、総講長は辻忠作 |
明治20年 | 1月 | 日元講事務所を三島の鈴木芳太郎宅に置く |
明治22年 | 王寺街道開馨工事、堂ヶ谷街道開鑿工事に日元講より、ひのきしんに参加 | |
明治23年 | 2代講元に岡本善六就任する | |
明治26年 | 三島418番地に日元講事務所開設 | |
明治28年 | 3月13日 | 奈良県山辺郡朝和村永原57番屋敷で旭日支教会設立、初代会長は岡本善六 |
明治37年 | 3月10日 | 神殿新築落成奉告祭 |
明治39年 | 負債整理のため、神殿及土地売却処分 | |
11月28日 | 2代会長に山澤爲造が就任する | |
明治40年 | 2月21日 | 二階堂村田井之庄、中西憲一宅に旭日支教会移転 |
明治41年 | 神殿建築にかかり、復興を目指す | |
明治43年 | 12月11日 | 分教会に昇格、神殿落成移転奉告祭執行 天理市田井之庄町128番地に移転 婦人会旭日支部発足 |
大正4年 | 2月25日 | 3代会長に桝井安松が就任する |
大正8年 | 2月27日 | 青年会旭日支会発足 修徳会(昭和30年旭友会と改称。現在、旭日学生会)発足 |
大正15年 | 教会数倍加し、40ヵ所となる | |
昭和3年 | 5月19日 | 旭日中教会に昇格する |
7月23日 | 4代会長に岡本栄太郎が就任する | |
昭和6年 | 移転用地購入。平端村額田部に17,292㎡買収するも移転中止 | |
昭和8年 | 境内地拡張し、信徒室、食堂、講堂を增築 | |
昭和15年 | 2月14日 | 旭日大教会に昇格する |
昭和16年 | 7月2日 | 5代会長に岡本重善が就任する |
昭和22年 | 創立50周年記念祭執行 | |
昭和35年 | 11月23日 | 神殿新築落成奉告祭執行 |
昭和38年 | 8月 | 旭日学生生徒夏季練成会発足 |
昭和40年 | 8月24日 | よのもと会旭日会結成式 |
昭和41年 | 10月31日 | 創立71周年記念祭執行 |
昭和43年 | 3月28日 | 少年会旭日団結成総会開催 |
昭和46年 | 12月26日 | 6代会長に岡本善孝が就任する |
昭和50年 | 3月30日 | 創立80周年記念祭執行。「教会内容の充実」と「教会名称100カ所達成」を誓う |
昭和53年 | 12月1日 | 信者会館竣工(4階建、延2.817㎡) |
昭和60年 | 12月26日 | 教会名称100カ所を達成し、教祖100年祭を迎える |
- 青年会天満支会編『あさひの光』(大正14年)
- 旭日大教会編『旭日乃浴革』(昭和15年)
- 岡本重善著『道のこころ』(昭和55年)
- 旭日大教会機関誌『日元』(季刊)