天理教教祖伝逸話篇 全文(1話~200話まで)

逸話篇

【登場回数順】教祖伝逸話篇登場人物まとめ!

玉に分銅

教祖は、綿木の実から綿を集める時は、手に布を巻いてチュッチュッとお引きになったが、大層早かった。又、その綿から糸を紡ぎ機を織るのが、とてもお上手であった。

糸を括って紺屋へ持って行き、染めてから織ると模様が出るのであるが、中でも最も得意とされたのは、玉に分銅、猫に小判などという手の込んだ模様ものであった、という。

お言葉のある毎に

天保九年十月の立教の時、当時十四才と八才であったおまさ、おきみ(註、後のおはる)の二人は、後日この時の様子を述懐して、「私達は、お言葉のある毎に、余りの怖さに、頭から布団をかぶり、互いに抱き付いてふるえていました。」 と述べている。

内蔵

教祖は、天保9年10月26日、月日のやしろとお定まり下されて後、親神様の思召しのまにまに内蔵にこもられる日が多かったが、この年、秀司の足、またまた激しく痛み、戸板に乗って動作する程になった時、御みずからその足に息をかけ紙を貼って置かれたところ、10日程で平癒した。

内蔵にこもられる事は、その後もなお続き、およそ3年間にわたった、という。

一粒万倍にして返す

『貧に落ち切れ。貧に落ち切らねば、難儀なる者の味が分からん。水でも落ち切れば上がるようなものである。一粒万倍にして返す。』

流れる水も同じこと

教祖が、梅谷四郎兵衞にお聞かせ下されたお言葉に、

「私は、夢中になっていましたら、『流れる水も同じこと、低い所へ落ち込め、 落ち込め。表門構え玄関造りでは救けられん。貧乏せ、貧乏せ。』と、仰っしゃりました。」

と。

心を見て

嘉永五年、豊田村の辻忠作の姉おこよが、お屋敷へ通うて、教祖からお針を教えて頂いていた頃のこと。教祖の三女おきみの人にすぐれた人柄を見込んで、櫟本の梶本惣治郎の母が、辻家の出であったので、梶本の家へ話したところ、話が進み、辻忠作を仲人として、縁談を申し込んだ。教祖は、

 「惣治郎ならば、見合いも何もなくとも、心の美しいのを見て、やる。」

と、仰せられ、この縁談は、目出度く調うた。おきみは、結婚して、おはると改名した。

 惣治郎は、幼少の頃から気立てがよく素直なため、村でも仏惣治郎と言われていた、という。

真心の御供

中山家が、谷底を通っておられた頃のこと。ある年の暮れに、一人の信者が立派な重箱に綺麗な小餅を入れて、「これを教祖にお上げして下さい。」と言って持って来たので、こかんは、早速それを教祖のお目にかけた。

すると、教祖は、いつになく、
「ああ、そうかえ。」
と、仰せられただけで、一向御満足の様子はなかった。

それから二、三日して、又、一人の信者がやって来た。そして、粗末な風呂敷包みを出して、「これを、教祖にお上げして頂きとうございます。」と言って渡した。中には、竹の皮にほんの少しばかりの餡餅が入っていた。

例によって、こかんが教祖のお目にかけると、教祖は、
「直ぐに、親神様にお供えしておくれ。」
と、非常に御満足の体であらせられた。

これは、後になって分かったのであるが、先の人は相当な家の人で、正月の餅を搗いて余ったので、とにかくお屋敷にお上げしようと言うて持参したのであった。後の人は、貧しい家の人であったが、やっとのことで正月の餅を搗くことが出来たので、「これも、親神様のお蔭だ。何は措いてもお初を。」というので、その搗き立てのところを取って、持って来たのであった。

教祖には、二人の人の心が、それぞれちゃんとお分かりになっていたのである。

こういう例は沢山あって、その後、多くの信者の人々が時々の珍しいものを、教祖に召し上がって頂きたい、と言うて持って詣るようになったが、教祖は、その品物よりも、その人の真心をお喜び下さるのが常であった。

そして、中に高慢心で持って来たようなものがあると、側の者にすすめられて、たといそれをお召し上がりになっても、

「要らんのに無理に食べた時のように、一寸も味がない。」
と、仰せられた。

一寸身上に

文久元年、西田コトは、五月六日の日に、歯が痛いので、千束の稲荷さんへ詣ろうと思って家を出た。千束なら、斜に北へ行かねばならぬのに、何気なく東の方へ行くと、別所の奥田という家へ嫁入っている同年輩の人に、道路上でパッタリと出会った。そこで、「どこへ行きなさる。」という話から、「庄屋敷へ詣ったら、どんな病気でも皆、救けて下さる。」という事を聞き、早速お詣りした 。すると、夕方であったが、教祖は、

 「よう帰って来たな。待っていたで。」

と、仰せられ、更に、

 「一寸身上に知らせた。」

とて、神様のお話をお聞かせ下され、ハッタイ粉の御供を下された。お話を承って家へ帰る頃には、歯痛はもう全く治っていた。が、そのまま四、五日詣らずにいると、今度は、目が悪くなって来た。激しく疼いて来たのである。それで、早速お詣りして伺うと、

 「身上に知らせたのやで。」

とて、有難いお話を、だんだんと聞かせて頂き、拝んで頂くと、かえる頃には、治っていた。

 それから、三日間程、弁当持ちでお屋敷のお掃除に通わせて頂いた。こうして信心させて頂くようになった。この年コトは三十二才であった。

ふた親の心次第に

文久三年七月の中頃、辻忠作の長男由松は、当年四才であったが、顔が青くなり、もう難しいという程になったので、忠作の母おりうが背負うて参拝したところ、教祖は、

 「親と代わりて来い。」

と、仰せられた。それで、妻ますが、背負うて参拝したところ、

 「ふた親の心次第に救けてやろう。」

と、お諭し頂き、四、五日程で、すっきりお救け頂いた。

えらい遠廻わりをして

文久三年、桝井キク三十九才の時のことである。夫の伊三郎が、ふとした風邪から喘息になり、それがなかなか治らない。キクは、それまでから、神信心の好きな方であったから、近くはもとより、二里三里の所にある詣り所、願い所で、足を運ばない所は、ほとんどないくらいであった。けれども、どうしても治らない。

その時、隣家の矢追仙助から、「オキクさん、あんたそんなにあっちこっちと信心が好きやったら、あの庄屋敷の神さんに一遍詣って来なさったら、どうやね。」と、すすめられた。目に見えない綱ででも、引き寄せられるような気がして、その足で、おぢばへ駆け付けた。旬が来ていたのである。

キクは、教祖にお目通りさせて頂くと、教祖は、

「待っていた、待っていた。」

と、可愛い我が子がはるばると帰って来たのを迎える、やさしい温かなお言葉を下された。それで、キクは、「今日まで、あっちこっちと、詣り信心をしておりました。」と、申し上げると、教祖は、

「あんた、あっちこっちとえらい遠廻わりをしておいでたんやなあ。おかしいなあ。ここへお出でたら、皆んなおいでになるのに。」

と、仰せられて、やさしくお笑いになった。このお言葉を聞いて、「ほんに成る程、これこそ本当の親や。」と、何んとも言えぬ慕わしさが、キクの胸の底まで沁みわたり、強い感激に打たれたのであった。

神が引き寄せた

それは、文久四年正月なかば頃、山中忠七三十八才の時であった。忠七の妻そのは、二年越しの痔の病が悪化して危篤の状態となり、既に数日間、流動物さえ喉を通らず、医者が二人まで、「見込みなし。」と、匙を投げてしまった。この時、芝村の清兵衞からにをいがかかった。そこで、忠七は、早速お屋敷へ帰らせて頂いて、教祖にお目通りさせて頂いたところ、お言葉があった。
 「おまえは、神に深きいんねんあるを以て、神が引き寄せたのである程に。病気は案じる事は要らん。直ぐ救けてやる程に。その代わり、おまえは、神の御用を聞かんならんで。」
と。

肥のさづけ

教祖は、山中忠七に、

 「神の道について来るには、百姓すれば十分に肥も置き難くかろう。」とて、忠七に、肥のさづけをお渡し下され、

 「肥のさづけと言うても、何も法が効くのやない。めんめんの心の誠真実が効くのやで。」と、お諭しになり、

 「嘘か真か、試してみなされ。」と、仰せになった。

 忠七は、早速、二枚の田で、一方は十分に肥料を置き、他方は肥のさづけの肥だけをして、その結果を待つ事にした。

 やがて八月が過ぎ九月も終りとなった。肥料を置いた田は、青々と稲穂が茂って、十分、秋の稔りの豊かさを思わしめた。が、これに反して、肥のさづけの肥だけの田の方は、稲穂の背が低く、色も何んだか少々赤味を帯びて、元気がないように見えた。

 忠七は、「やっぱりさづけよりは、肥料の方が効くようだ。」と、疑わざるを得なかった。

 ところが、秋の収穫時になってみると、肥料をした方の田の稲穂には、蟲が付いたり空穂があったりしているのに反し、さづけの方の田の稲穂は、背こそ少々低く思われたが、蟲穂や空穂は少しもなく、結局実収の上からみれば、確かに、前者よりもすぐれていることが発見された。

種を蒔くのやで

摂津国安立村に、「種市」という屋号で花の種を売って歩く前田藤助、タツという夫婦があった。二人の間には、次々と子供が出来た。もう、これぐらいで結構と思っていると、慶応元年、また子供が生まれることになった。それで、タツは、大和国に、願うと子供をおろして下さる神様があると聞いて、大和へ来た。しかし、そこへは行かず、不思議なお導きで、庄屋敷村へ帰り、教祖にお目通りさせて頂いた。すると、教祖は、

 「あんたは、種市さんや。あんたは、種を蒔くのやで。」

と、仰せになった。タツは、「種を蒔くとは、どうするのですか。」と、尋ねた。すると、教祖は、

 「種を蒔くというのは、あちこち歩いて、天理王の話をして廻わるのやで。」

と、お教えになった。更に、お腹の子供について、

 「子供はおろしてはならんで。今年生まれる子は、男や。あんたの家の後取りや。」

と、仰せられた。このお言葉が胸にこたえて、タツは、子供をおろすことは思いとどまった。のみならず、夫の藤助にも話をして、それからは、夫婦ともおぢばへ帰り、教祖から度々お仕込み頂いた。子供は、その年六月十八日安産させて頂き、藤次郎と名付けた。

 こうして、二人は、花の種を売りながら、天理王命の神名を人々の胸に伝えて廻わった。そして、病人があると、二人のうち一人が、おぢばへ帰ってお願いした。すると、どんな病人でも次々と救かった。

染物

ある時、教祖が、

 「明朝、染物をせよ。」

と、仰せになって、こかんが、早速、その用意に取りかかっていた。

すると、ちょうど同じ夜、大豆越でも、山中忠七が、扇の伺によってこのことを知ったので、早速、妻女のそのがその用意をして、翌朝未明に起き、泥や布地を背負うてお屋敷へ帰って来た。そして、その趣きを申し上げると、教祖は、

 「ああそうか。不思議な事やな。ゆうべ、こかんと話をしていたところやった。」
と、言って、お喜び下された。こういう事が度々あった。

 染物は、後にかんろだいのぢばと定められた場所の艮(註、東北)にあった井戸の水で、お染めになった。教祖が、

 「井戸水を汲み置け。」
と、仰せになると、井戸水を汲んで置く。そして、布に泥土を塗って、その水に浸し、浸しては乾かし、乾かしては浸す。二、三回そうしているうちに、綺麗なビンロージ色に染まった。この井戸の水は、金気水であった。

この物種は

慶応二年二月七日の夜遅くに、教祖は、既にお寝みになっていたが、

「神床の下に納めてある壷を、取り出せ。」

と、仰せになって、壷を取り出させ、それから、山中忠七をお呼びになった。そして、お聞かせ下されたのに、

「これまで、おまえに、いろいろ許しを渡した。なれど、口で言うただけでは分かろうまい。神の道について来るのに、物に不自由になると思い、心配するであろう。何んにも心配する事は要らん。不自由したいと思うても不自由しない、確かな確かな証拠を渡そう。」

と、仰せになって、その壷を下された。そして、更に、

「この物種は、一粒万倍になりてふえて来る程に。これは、大豆越村の忠七の屋敷に伏せ込むのやで。」

と、お言葉を下された。

そして、その翌日、このお礼を申し上げると、

「これは家の宝や。道の宝やで。結構やったなあ。」

と、お喜び下された。

これは、永代の物種として、麦六升、米一斗二升、小遣銭六十貫、酒六升の目録と共に、四つの物種をお授け下されたのであった。それは、縦横とも二寸の白い紙包みであって、縦横に数条の白糸を通して、綴じてあり、その表にそれぞれ、
「麦種」 「米種」 「いやく代」「酒代油種」
というように、教祖御みずからの筆でお誌し下されてある。教祖が、この紙包みに糸をお通しになる時には、
なむてんりわうのみこと なむてんりわうのみこと
と、唱えながらお通しになった。お唱えにならぬと、糸が通らなかった、という。これは、お道を通って不自由するということは、決してない、という証拠をお授け下されたのである。

註 六十貫は、当時の米二石七斗、昭和五十年現在の貨幣九四五〇〇円にあたる。

子供が親のために

桝井伊三郎の母キクが病気になり、次第に重く、危篤の容態になって来たので、伊三郎は夜の明けるのを待ちかねて、伊豆七条村を出発し、五十町の道のりを歩いてお屋敷へ帰り、教祖にお目通りさせて頂いて、「母親の身上の患いを、どうかお救け下さいませ。」と、お願いすると、教祖は、

「伊三郎さん、せっかくやけれども、身上救からんで。」

と、仰せになった。これを承って、他ならぬ教祖の仰せであるから、伊三郎は、「さようでございますか。」と言って、そのまま御前を引き下がって、家へかえって来た。が、家へ着いて、目の前に、病気で苦しんでいる母親の姿を見ていると、心が変わって来て、「ああ、どうでも救けてもらいたいなあ。」という気持で一杯になって来た。

 それで、再びお屋敷へ帰って、「どうかお願いです。ならん中を救けて頂きとうございます。」 と願うと、教祖は、重ねて、

「伊三郎さん、気の毒やけれども、救からん。」

と、仰せになった。教祖に、こう仰せ頂くと、伊三郎は、「ああやむをえない。」と、その時は得心した。が、家にもどって、苦しみ悩んでいる母親の姿を見た時、子供としてジッとしていられなくなった。

又、トボトボと五十町の道のりを歩いて、お屋敷へ着いた時には、もう、夜になっていた。教祖は、もう、お寝みになった、と聞いたのに、更にお願いした。「ならん中でございましょうが、何んとか、お救け頂きとうございます。」と。すると、教祖は、

「救からんものを、なんでもと言うて、子供が、親のために運ぶ心、これ真実やがな。真実なら神が受け取る。」

と、仰せ下された。
この有難いお言葉を頂戴して、キクは、救からん命を救けて頂き、八十八才まで長命させて頂いた。

天然自然

教祖は、

「この道は、人間心でいける道やない。天然自然に成り立つ道や。」

と、慶応二、三年頃、いつもお話しになっていた。

理の歌

十二下りのお歌が出来た時に、教祖は、
 「これが、つとめの歌や。どんな節を付けたらよいか、皆めいめいに、思うように歌うてみよ。」
と、仰せられた。そこで、皆の者が、めいめいに歌うたところ、それを聞いておられた教祖は、
 「皆、歌うてくれたが、そういうふうに歌うのではない。こういうふうに歌うのや。」
と、みずから声を張り上げて、お歌い下された。次に、
 「この歌は、理の歌やから、理に合わして踊るのや。どういうふうに踊ったらよいか、皆めいめいに、よいと思うように踊ってみよ。」
と、仰せられた。そこで、皆の者が、それぞれに工夫して踊ったところ、教祖は、それをごらんになっていたが、
 「皆、踊ってくれたが、誰も理に合うように踊った者はない。こういうふうに踊るのや。ただ踊るのではない。理を振るのや。」
と、仰せられ、みずから立って手振りをして、皆の者に見せてお教え下された。
 こうして、節も手振りも、一応皆の者にやらせてみた上、御みずから手本を示してお教え下されたのである。
 これは、松尾市兵衞の妻ハルが、語り伝えた話である。
註 松尾ハルは、天保六年九月十五日生まれ。入信は慶応二年。慶応三年から明治二年には三十三才から三十五才。大正十二年五月一日、八十九才で出直した。

子供が羽根を

「みかぐらうたのうち、てをどりの歌は、慶応三年正月にはじまり、同八月に到る八ヵ月の間に、神様が刻限々々に、お教え下されたものです。これが、世界へ一番最初はじめ出したのであります。お手振りは、満三年かかりました。教祖は、三度まで教えて下さるので、六人のうち三人立つ、三人は見てる。教祖は、お手振りして教えて下されました。そうして、こちらが違うても、言うて下さりません。
 『恥かかすようなものや。』
と、仰っしゃったそうです。そうして、三度ずつお教え下されまして、三年かかりました。教祖は、
 『正月、一つや、二つやと、子供が羽根をつくようなものや。』
と、言うて、お教え下されました。」
 これは、梅谷四郎兵衞が、先輩者に聞かせてもらった話である。

女児出産

 慶応四年三月初旬、山中忠七がお屋敷で泊めて頂いて、その翌朝、 教祖に朝の御挨拶を申し上げに出ると、教祖は、
 「忠七さん、昨晩あんたの宅で女の児が出産て、皆、あんたのかえ りを待っているから、早よう去んでおやり。」
と、仰せになった。
 忠七は、未だそんなに早く生まれるとは思っていなかったので、昨 夜もお屋敷で泊めてもらった程であったが、このお言葉を頂いて、「さ ようでございますか。」 と、申し上げたものの、半信半疑でいた。が、 出産の知らせに来た息子の彦七に会うて、初めてその真実なることを 知ると共に、尚その産児が女子であったので、今更の如く教祖のお言 葉に恐れ入った。

結構や、結構や

慶応四年五月の中旬のこと。それは、山中忠七が入信して五年後のことであるが、毎日々々大雨が降り続いて、あちらでもこちらでも川が氾濫して、田が流れる家が流れるという大洪水となった。忠七の家でも、持山が崩れて、大木が一時に埋没してしまう、田地が一町歩程も土砂に埋まってしまう、という大きな被害を受けた。
 この時、かねてから忠七の信心を嘲笑っていた村人達は、「あのざまを見よ。阿呆な奴や。」 と、思い切り罵った。それを聞いて忠七は、残念に思い、早速お屋敷へ帰って、教祖に伺うと、教祖は、
 「さあ/\、結構や、結構や。海のドン底まで流れて届いたから、後は結構やで。信心していて何故、田も山も流れるやろ、と思うやろうが、たんのうせよ、たんのうせよ。後々は結構なことやで。」
と、お聞かせ下された。忠七は、大難を小難にして頂いたことを、心から親神様にお礼申し上げた。

おふでさき御執筆

教祖は、おふでさきについて、
 「ふでさきというものありましょうがな。あんた、どないに見ている。あのふでさきも、一号から十七号まで直きに出来たのやない。神様は、『書いたものは、豆腐屋の通い見てもいかんで。』 と、仰っしゃって、耳へ聞かして下されましたのや。何んでやなあ、と思いましたら、神様は、『筆、筆、筆を執れ。』 と、仰っしゃりました。七十二才の正月に、初めて筆執りました。そして、筆持つと手がひとり動きました。天から、神様がしましたのや。書くだけ書いたら手がしびれて、動かんようになりました。 『心鎮めて、これを読んでみて、分からんこと尋ねよ。』 と、仰っしゃった。自分でに分からんとこは、入れ筆しましたのや。それがふでさきである。」
と、仰せられた。
 これは、後年、梅谷四郎兵衞にお聞かせ下されたお言葉である。

たちやまいのおたすけ

松村さくは、「たちやまい」にかかったので、生家の小東家で養生の上、明治四年正月十日、おぢばへお願いに帰って来た。
 教祖は、いろいろと有難いお話をお聞かせ下され、長患いと熱のためにさくの頭髪にわいた虱を、一匹ずつ取りながら、髪を梳いておやりになった。そして、更に、風呂を沸かして、垢付いたさくの身体を、御手ずから綺麗にお洗い下された。
 この手厚い御看護により、さくの病気は、三日目には、嘘のように全快した。

よう帰って来たなあ

大和国仁興村の的場彦太郎は、声よしで、音頭取りが得意であった。盆踊りの頃ともなれば、長滝、苣原、笠などと、近在の村々までも出かけて行って、音頭櫓の上に立った。
 明治四年、十九才の時、声の壁を破らなければ本当の声は出ない、と聞き、夜、横川の滝で「コーリャ コーリャ コーリャ」と、大声を張り上げた。
 昼は田で働いた上のことであったので、マムシの黒焼と黒豆と胡麻を、すって練ったものをなめて、精をつけながら頑張った。すると、三晩目のこと、突然目が見えなくなってしまった。ソコヒになったのである。
 長谷の観音へも跣足詣りの願をかけたが、一向利やくはなかった。
それで、付添いの母親しかが、「足許へ来た白い鶏さえ見えぬのか。」と、歎き悲しんだ。こうして三ヵ月余も経った時、にをいがかかった。「庄屋敷に、どんな病気でも救けて下さる神さんが出来たそうな。そんなぐらい直ぐに救けて下さるわ。」という事である。
 それで、早速おぢばへ帰って、教祖にお目通りさせて頂いたところ、教祖は、ハッタイ粉の御供を三服下され、
 「よう帰って来たなあ。あんた、目が見えなんだら、この世暗がり同様や。神さんの仰っしゃる通りにさしてもろたら、きっと救けて下さるで。」
と、仰せになった。彦太郎は、「このままで越すことかないません。治して下さるのでしたら、どんな事でもさしてもらいます。」とお答えした。すると。教祖は、
 「それやったら、一生、世界へ働かんと、神さんのお伴さしてもろうて、人救けに歩きなされ。」
と、仰せられた。「そんなら、そうさしてもらいます。」と彦太郎の答が、口から出るか出ないかのうちに、目が開き、日ならずして全快した。その喜びに、彦太郎は、日夜熱心に、にをいがけ・おたすけに励んだ。それから八十七才の晩年に到るまで、眼鏡なしで細かい字が読めるよう、お救け頂いたのである。

七十五日の断食

明治五年、教祖七十五才の時、七十五日の断食の最中に、竜田の北にある東若井村の松尾市兵衞の宅へ、おたすけに赴かれた時のこと。教祖はお屋敷を御出発の時に、小さい盃に三杯の味醂と、生の茄子の輪切り三箇を、召し上がってから、
 「参りましょう。」
と、仰せられた。その時、「駕篭でお越し願います。」 と、申し上げると、
 「ためしやで。」
と、仰せられ、いとも足取り軽く歩まれた。かくて、松尾の家へ到着されると、涙を流さんばかりに喜んだ市兵衞夫婦は、断食中四里の道のりを歩いてお越し下された教祖のお疲れを思い、心からなる御馳走を拵えて、教祖の御前に差し出した。すると、教祖は、
 「えらい御馳走やな。おおきに。その心だけ食べて置くで。もう、これで満腹や。さあ、早ようこれをお下げ下され。その代わり、水と塩を持って来て置いて下され。」
と、仰せになった。市兵衞の妻ハルが、御馳走が気に入らないので仰せになるのか、と思って、お尋ねすると、
 「どれもこれも、わしの好きなものばかりや。とても、おいしそうに出来ている。」
と、仰せになった。それで、ハルは、「何一つ、手も付けて頂けず、水と塩とだけ出せ、と仰せられても、出来ません。」と申し上げると、
 「わしは、今、神様の思召しによって、食を断っているのや。お腹は、いつも一杯や。お気持は、よう分かる。そしたら、どうや。あんたが箸を持って、わしに食べさしてくれんか。」
と、仰せられた。
 それで、ハルは、喜んでお膳を前に進め、お茶碗に御飯を入れ、「それでは、お上がり下さいませ。」 と、申し上げてから、箸に御飯を載せて、待っておられる教祖の方へ差し出そうとしたところ、どうした事か、膝がガクガクと揺れて、箸の上の御飯と茶碗を、一の膳の上に落としてしまった。ハルは、平身低頭お詫び申し上げて、ニコニコと微笑をたたえて見ておられる教祖の御前から、膳部を引き下げ、再び調えて、教祖の御前に差し出した。すると、教祖は、
 「御苦労さんな事や。また食べさせてくれはるのかいな。」
と、仰せになって、口をお開けになった。そこで、ハルが、再び茶碗を持ち、箸に御飯を載せて、お口の方へ持って行こうとしたところ、右手の、親指と人差指が、痛いような痙攣を起こして、箸と御飯を、教祖のお膝の上に落としてしまった。ハルは、全く身の縮む思いで、重ねての粗相をお詫び申し上げると、教祖は、
 「あんたのお心は有難いが、何遍しても同じ事や。神様が、お止めになったのや。さあ/\早く、膳部を皆お下げ下され。」
と、いたわりのお言葉を下された。
 こうして御滞在がつづいたが、この様子が伝わって、五日目頃、お屋敷から、こかん、飯降、櫟枝の与平の三人が迎えに来た。その時さらに、こかんから、食事を召し上がるようすすめると、教祖は、
 「おまえら、わしが勝手に食べぬように思うけれど、そうやないで。食べられぬのやで。そんなら、おまえ食べさせて見なされ。」
と、仰せられたので、こかんが、食べて頂こうとすると、箸が、跳んで行くように上へつり上がってしまったので、皆々成る程と感じ入った。こうして、断食は、ついにお帰りの日までつづいた。
お帰りの時には、秀司が迎えに来て、市兵衞もお伴して、平等寺村の小東の家から、駕篭を借りて来て竜田までお召し願うたが、その時、
 「目眩いがする。」
と、仰せられたので、それからは、仰せのままにお歩き頂いた。
 「親神様が『駕篭に乗るのやないで。歩け。』と、仰せになった。」
と、お聞かせ下された。

麻と絹と木綿の話

明治五年、教祖が、松尾の家に御滞在中のことである。お居間へ朝の御挨拶に伺うた市兵衞、ハルの夫婦に、教祖は、
 「あんた達二人とも、わしの前へ来る時は、いつも羽織を着ているが、今日からは、普段着のままにしなされ。その方が、あんた達も気楽でええやろ。」
と、仰せになり、二人が恐縮して頭を下げると、
 「今日は、麻と絹と木綿の話をしよう。」
と、仰せになって、
 「麻はなあ、夏に着たら風通しがようて、肌につかんし、これ程涼しゅうてええものはないやろ。が、冬は寒うて着られん。夏だけのものや。三年も着ると色が来る。色が来てしもたら、値打ちはそれまでや。濃い色に染め直しても、色むらが出る。そうなったら、反故と一しょや。
 絹は、羽織にしても着物にしても、上品でええなあ。買う時は高いけど、誰でも皆、ほしいもんや。でも、絹のような人になったら、あかんで。新しい間はええけど、一寸古うなったら、どうにもならん。
 そこへいくと、木綿は、どんな人でも使うている、ありきたりのものやが、これ程重宝で、使い道の広いものはない。冬は暖かいし、夏は、汗をかいても、よう吸い取る。よごれたら、何遍でも洗濯が出来る。色があせたり、古うなって着られんようになったら、おしめにでも、雑巾にでも、わらじにでもなる。形がのうなるところまで使えるのが、木綿や。木綿のような心の人を、神様は、お望みになっているのやで。」
と、お仕込み下された。以後、市兵衞夫婦は、心に木綿の二字を刻み込み、生涯、木綿以外のものは身につけなかった、という。

目出度い日

明治五年七月、教祖が、松尾市兵衞の家へお出かけ下されて、御滞在中の十日目の朝、お部屋へ、市兵衞夫婦が御挨拶に伺うと、
 「神様をお祀りする気はないかえ。」
と、お言葉があった。それで、市兵衞が、「祀らせて頂きますが、どこへ祀らせて頂けば宜しうございましょうか。」 と、伺うと、
 「あそこがええ。」
と、仰せになって、指さされたのが、仏壇のある場所であった。余りに突然のことではあり、そこが、先祖代々の仏間である事を思う時、市兵衞夫婦は、全く青天に霹靂を聞く思いがした。が、互いに顔を見合わせて、肯き合うと、市兵衞は、「では、この仏壇は、どこへ動かせば、宜しいのでございましょうか。」 と、伺うた。すると教祖は、
 「先祖は、おこりも反対もしやせん。そちらの部屋の、同じような場所へ移させてもらいや。」
との仰せである。
 そちらの部屋とは、旧客間のことである。早速と、大工を呼んで、教祖の仰せのまにまに、神床を設計し、仏壇の移転場所も用意して、僧侶の大反対は受けたが、無理矢理、念仏を上げてもらって、その夜、仏壇の移転を無事完了した。そして、次の日から、大工四名で神床の工事に取りかかった。教祖に、
 「早ようせんと、間に合わんがな。」
と、お急ぎ頂いて、出来上がったのは、十二日目の夕方であった。翌朝、夫婦が、教祖のお部屋へ御挨拶に上がると、教祖はおいでにならず、神床の部屋へ行ってみると、教祖は、新しく出来た神床の前に、ジッとお坐りになっていた。そして、
 「ようしたな。これでよい、これでよい。」
と、仰せ下された。それから、長男楢蔵の病室へお越しになり、身動きも出来ない楢蔵の枕もとに、お坐りになり、
 「頭が痒いやろな。」
と、仰せになって、御自分の櫛をとって、楢蔵の髪をゆっくりお梳き下された。そして、御自分の部屋へおかえりになった時、
 「今日は、吉い日やな。目出度い日や。神様を祀る日やからな。」
と、言って、ニッコリとお笑いになった。夫婦が、「どうしてお祀りするのかしら。」 と思っていると、玄関で人の声がした。ハルが出てみると、秀司が、そこに立っていた。早速、座敷へ案内すると、教祖は、
 「神様を祀る段取りをされたから、御幣を造らせてもらい。」
と、お命じになり、やがて、御幣が出来上がると、御みずからの手で、神床へ運んで、御祈念下された。
 「今日から、ここにも神様がおいでになるのやで。目出度いな、ほんとに目出度 い。」
と、心からお喜び下され、
 「直ぐ帰る。」
と、仰せになって、お屋敷へお帰りになった。
 仏壇は、後日、すっきりと取り片付けた。

道は下から

山中忠七が、道を思う上から、ある時、教祖に、「道も高山につけば、一段と結構になりましょう。」 と、申し上げた。すると、教祖は、
 「上から道をつけては、下の者が寄りつけるか。下から道をつけたら、上の者も下の者も皆つきよいやろう。」
と、お説き聞かせになった。

三つの宝

ある時、教祖は、飯降伊蔵に向かって、

 「伊蔵さん、掌を拡げてごらん。」

と、仰せられた。

 伊蔵が、仰せ通りに掌を拡げると、教祖は、籾を三粒持って、

 「これは朝起き、これは正直、これは働きやで。」

と、仰せられて、一粒ずつ、伊蔵の掌の上にお載せ下されて、

 「この三つを、しっかり握って、失わんようにせにゃいかんで。」

と、仰せられた。

 伊蔵は、生涯この教えを守って通ったのである。

一粒万倍

教祖は、ある時一粒の籾種を持って、飯降伊蔵に向かい、
 「人間は、これやで。一粒の真実の種を蒔いたら、一年経てば二百粒から三百粒になる。二年目には、何万という数になる。これを、一粒万倍と言うのやで。三年目には、大和一国に蒔く程になるで。」
と、仰せられた。

天の定規

教祖は、ある日飯降伊蔵に、

「伊蔵さん、山から木を一本切って来て、真っ直ぐな柱を作ってみて下され。」

と、仰せになった。伊蔵は、早速、山から一本の木を切って来て、真っ直ぐな柱を一本作った。すると、教祖は、

「伊蔵さん、一度定規にあててみて下され。」

と、仰せられ、更に続いて、

「隙がありませんか。」

と、仰せられた。伊蔵が定規にあててみると、果たして隙がある。そこで、「少し隙がございます。」 とお答えすると、教祖は、

「その通り、世界の人が皆、真っ直ぐやと思うている事でも、天の定規にあてたら、皆、狂いがありますのやで。」

と、お教え下された。

女房の口一つ

大和国小阪村の松田利平の娘やすは、十代の頃から数年間、教祖の炊事のお手伝いをさせて頂いた。教祖は、
「おまえの炊いたものを、持って来てくれると、胸が開くような気がする。」
と、言うて、喜んで下された。お食事は、粥で、その中へ大豆を少し入れることになっていた。ひまな時には、教祖と二人だけという時もあった。そんな時、いろいろとお話を聞かせて下されたが、ある時、
「やすさんえ、どんな男でも、女房の口次第やで。人から、阿呆やと、言われるような男でも、家にかえって、女房が、貴方おかえりなさい。と、丁寧に扱えば、世間の人も、わし等は、阿呆と言うけれども、女房が、ああやって、丁寧に扱っているところを見ると、あら偉いのやなあ、と言うやろう。亭主の偉くなるのも、阿呆になるのも、女房の口一つやで。」
と、お教え下された。
やすは、二十三才の時、教祖のお世話で、庄屋敷村の乾家へ嫁いだ。見合いは、教祖のお居間でさせて頂いた。その時、
「神様は、これとあれと、と言われる。それで、こう治まった。治まってから、切ってはいかん。切ったら、切った方から切られますで。」
と、仰せられ、手を三度振って、
「結構や、結構や、結構や。」
と、お言葉を下された。

国の掛け橋

河内国柏原村の山本利三郎は、明治三年秋二十一才の時、村相撲を取って胸を打ち、三年間病の床に臥していた。医者にも見せ、あちらこちらで拝んでももらったが、少しもよくならない。それどころか、命旦夕に迫って来た。明治六年夏のことである。その時、同じ柏原村の「トウ」という木挽屋へ、大和の布留から働きに来ていた熊さんという木挽きが、にをいをかけてくれた。それで、父の利八が代参で、早速おぢばへ帰ると、教祖から、
 「この屋敷は、人間はじめ出した屋敷やで。生まれ故郷や。どんな病でも救からんことはない。早速に息子を連れておいで。おまえの来るのを、今日か明日かと待ってたのやで。」
と、結構なお言葉を頂いた。もどって来て、これを伝えると、利三郎は、「大和の神様へお詣りしたい。」 と言い出した。家族の者は、「とても、大和へ着くまで持たぬだろう。」 と止めたが、利三郎は、「それでもよいから、その神様の側へ行きたい。」 と、せがんだ。あまりの切望に、戸板を用意して、夜になってから、ひそかに門を出た。けれども、途中、竜田川の大橋まで来た時、利三郎の息が絶えてしまったので、一旦は引き返した。しかし、家に着くと、不思議と息を吹き返して、「死んでもよいから。」 と言うので、水盃の上、夜遅く、提灯をつけて、又戸板をかついで大和へと向かった。その夜は、暗い夜だった。
 一行は、翌日の夕方遅く、ようやくおぢばへ着いた。既にお屋敷の門も閉まっていたので、付近の家で泊めてもらい、翌朝、死に瀕している利三郎を、教祖の御前へ運んだ。すると、教祖は、
 「案じる事はない。この屋敷に生涯伏せ込むなら、必ず救かるのや。」
と、仰せ下され、つづいて、
 「国の掛け橋、丸太橋、橋がなければ渡られん。差し上げるか、差し上げんか。荒木棟梁 々々々々。」
と、お言葉を下された。それから、風呂をお命じになり、
 「早く、風呂へお入り。」
と、仰せ下され、風呂を出て来ると、
 「これで清々したやろ。」
と、仰せ下された。そんな事の出来る容態ではなかったのに、利三郎は、少しも苦しまず、かえって、苦しみは去り、痛みは遠ざかって、教祖から頂いたお粥を三杯、おいしく頂戴した。こうして、教祖の温かい親心により、利三郎は、六日目にお救け頂き、一ヵ月滞在の後、柏原へもどって来た。その元気な姿に、村人達は驚歎した、という。

月日許した

明治六年春、加見兵四郎は妻つねを娶った。その後、つねが懐妊した時、兵四郎は、をびや許しを頂きにおぢばへ帰って来た。教祖は、
 「このお洗米を、自分の思う程持っておかえり。」
と、仰せになり、つづいて、直き直きお諭し下された。
 「さあ/\それはなあ、そのお洗米を三つに分けて、うちへかえりたら、その一つ分を家内に頂かし、産気ついたら、又その一つ分を頂かし、産み下ろしたら、残りの一つ分を頂かすのやで。
  そうしたなら、これまでのようにもたれ物要らず、毒いみ要らず、腹帯要らず、低い枕で、常の通りでよいのやで。すこしも心配するやないで。心配したらいかんで。疑うてはならんで。ここはなあ、人間はじめた屋敷やで。親里やで。必ず、疑うやないで。月日許したと言うたら、許したのやで。」
と。

赤衣

教祖が、初めて赤衣をお召しになったのは、明治七年十二月二十六日(陰暦十一月十八日)であった。教祖が、急に、
 「赤衣を着る。」
と、仰せ出されたので、その日の朝から、まつゑとこかんが、奈良へ布地を買いに出かけて、昼頃に帰って来た。それで、ちょうどその時、お屋敷へ手伝いに来ていた、西尾ナラギク(註、後の桝井おさめ)、桝井マス(註、後の村田すま)、仲田かじなどの女達も手伝うて、教祖が、
 「出来上がり次第に着る。」
と、仰せになっているので、大急ぎで仕立てたから、その日の夕方には出来上がり、その夜は、早速、赤衣の着初めをなされた。赤衣を召された教祖が、壇の上にお坐りになり、その日詰めていた人々が、お祝いの味醂を頂戴した、という。

定めた心

明治七年十二月四日(陰暦十月二十六日)朝、増井りんは、起き上がろうとすると、不思議や両眼が腫れ上がって、非常な痛みを感じた。日に日に悪化し、医者に診てもらうと、ソコヒとのことである。そこで、驚いて、医薬の手を尽したが、とうとう失明してしまった。夫になくなられてから二年後のことである。
 こうして、一家の者が非歎の涙にくれている時、年末年始の頃、(陰暦十一月下旬)当時十二才の長男幾太郎が、竜田へ行って、道連れになった人から、「大和庄屋敷の天竜さんは、何んでもよく救けて下さる。三日三夜の祈祷で救かる。」 という話を聞いてもどった。それで早速、親子が、大和の方を向いて、三日三夜お願いしたが、一向に効能はあらわれない。そこで、男衆の為八を庄屋敷へ代参させることになった。朝暗いうちに大県を出発して、昼前にお屋敷へ着いた為八は、赤衣を召された教祖を拝み、取次の方々から教の理を承り、その上、角目角目を書いてもらって、もどって来た。
 これを幾太郎が読み、りんが聞き、「こうして、教の理を聞かせて頂いた上からは、自分の身上はどうなっても結構でございます。我が家のいんねん果たしのためには、暑さ寒さをいとわず、二本の杖にすがってでも、たすけ一条のため通らせて頂きます。今後、親子三人は、たとい火の中水の中でも、道ならば喜んで通らせて頂きます。」 と、家族一同、堅い心定めをした。
 りんは言うに及ばず、幾太郎と八才のとみゑも水行して、一家揃うて三日三夜のお願いに取りかかった。おぢばの方を向いて、
 なむてんりわうのみこと
と、繰り返し繰り返して、お願いしたのである。
 やがて、まる三日目の夜明けが来た。火鉢の前で、お願い中端座しつづけていたりんの横にいたとみゑが、戸の隙間から差して来る光を見て、思わず、「あ、お母さん、夜が明けました。」 と、言った。
 その声に、りんが、表玄関の方を見ると、戸の隙間から、一条の光がもれている。夢かと思いながら、つと立って玄関まで走り、雨戸をくると、外は、昔と変わらぬ朝の光を受けて輝いていた。不思議な全快の御守護を頂いたのである。
 りんは、早速、おぢばへお礼詣りをした。取次の仲田儀三郎を通してお礼を申し上げると、お言葉があった。
 「さあ/\一夜の間に目が潰れたのやな。さあ/\いんねん、いんねん。神が引き寄せたのやで。よう来た、よう来た。佐右衞門さん、よくよく聞かしてやってくれまするよう、聞かしてやってくれまするよう。」
と、仰せ下された。その晩は泊めて頂いて、翌日は、仲田から教の理を聞かせてもらい、朝夕のお勤めの手振りを習いなどしていると、又、教祖からお言葉があった。
  「さあ/\いんねんの魂、神が用に使おうと思召す者は、どうしてなりと引き寄せるから、結構と思うて、これからどんな道もあるから、楽しんで通るよう。用に使わねばならんという道具は、痛めてでも引き寄せる。悩めてでも引き寄せねばならんのであるから、する事なす事違う。違うはずや。あったから、どうしてもようならん。ようならんはずや。違う事しているもの。ようならなかったなあ。さあ/\いんねん、いんねん。佐右衞門さん、よくよく聞かしてやってくれまするよう。目の見えんのは、神様が目の向こうへ手を出してござるようなものにて、さあ、向こうは見えんと言うている。さあ、手をのけたら、直ぐ見える。見えるであろう。さあ/\勇め、勇め。難儀しようと言うても、難儀するのやない程に。めんめんの心次第やで。」
と、仰せ下された。
 その日もまた泊めて頂き、その翌朝、河内へもどらせて頂こうと、仲田を通して申し上げてもらうと、教祖は、
 「遠い所から、ほのか理を聞いて、山坂越えて谷越えて来たのやなあ。さあ/\その定めた心を受け取るで。楽しめ、楽しめ。
 さあ/\着物、食い物、小遣い与えてやるのやで。長あいこと勤めるのやで。さあ/\楽しめ、楽しめ、楽しめ。」
と、お言葉を下された。りんは、ものも言えず、ただ感激の涙にくれた。時に、増井りん、三十二才であった。
註 仲田儀三郎、前名は佐右衞門。明治六年頃、亮・助・衞門廃止の時に、儀三郎と改名した。

神妙に働いて下されますなあ

明治七年のこと。ある日、西尾ナラギクがお屋敷へ帰って来て、他の人々と一しょに教祖の御前に集まっていたが、やがて、人々が挨拶してかえろうとすると、教祖は、我が子こかんの名を呼んで、
 「これおまえ、何か用事がないかいな。この衆等はな、皆、用事出して上げたら、かいると言うてない。何か用事あるかえ。」
と、仰っしゃった。すると、こかんは、「沢山用事はございますなれど、遠慮して出しませなんだのや。」 と答えた。その時、教祖は、
 「そんなら、出してお上げ。」
と、仰っしゃったので、こかんは、糸紡ぎの用事を出した。人々は、一生懸命紡いで紡錘に巻いていたが、やがて、ナラギクのところで一つ分出来上がった。すると、教祖がお越しになって、ナラギクの肩をポンとおたたきになり、その出来上がったのを、三度お頂きになり、
 「ナラギクさん(註、当時十八才)、こんな時分には物のほしがる最中であるのに、あんたはまあ、若いのに、神妙に働いて下されますなあ。この屋敷は、用事さえする心なら、何んぼでも用事がありますで。用事さえしていれば、去のと思ても去なれぬ屋敷。せいだい働いて置きなされや。先になったら、難儀しようと思たとて難儀出来んのやで。今、しっかり働いて置きなされや。」
と、仰せになった。
註 西尾ナラギクは、明治九年結婚の時、教祖のお言葉を頂いて、おさめと改名、桝井おさめとなる。

東山から

明治七年頃、教祖は、よく、次のような歌を口ずさんでおられた、という。
「東山からお出やる月は
さんさ小車おすがよに
いよさの水車でドン、ドン、ドン」
節は、「高い山から」の節であった。

もっと結構

明治七年のこと。西浦弥平の長男楢蔵(註、当時二才)が、ジフテリアにかかり、医者も匙を投げて、もう駄目だ、と言うている時に、同村の村田幸四郎の母こよから、にをいがかかった。

お屋敷へお願いしたところ、早速、お屋敷から仲田儀三郎が、おたすけに来てくれ、ふしぎなたすけを頂いた。

弥平は、早速、楢蔵をつれてお礼詣りをし、その後、熱心に信心をつづけていた。

ある日のこと、お屋敷からもどって、夜遅く就寝したところ、夜中に、床下でコトコトと音がする。「これは怪しい。」 と思って、そっと起きてのぞいてみると、一人の男が、「アッ」と言って、闇の中へ逃げてしまった。後には、大切な品々を包んだ大風呂敷が残っていた。

弥平は、大層喜んで、その翌朝早速、お詣りして、「お蔭で、結講でございました。」 と、教祖に心からお礼申し上げた。すると、教祖は、

「ほしい人にもろてもろたら、もっと結構やないか。」

と、仰せになった。弥平は、そのお言葉に深い感銘を覚えた、という。

ここに居いや

明治七年、岡田与之助十八才の時、腕の疼きが激しく、あちこちと医者を替えたが、一向に快方へ向かわず、昼も夜も夜具にもたれて苦しんでいた。それを見て、三輪へ嫁いでいた姉のワサが、「一遍、庄屋敷へやらしてもろうたら、どうや。」と、にをいをかけてくれた。
当人も、かねてから、庄屋敷の生神様のことは聞いていたが、この時初めて、お屋敷へ帰らせて頂いた。そして、教祖にお目通りすると、
「与之助さん、よう帰って来たなあ。」
と、お言葉を下された。そのお言葉を頂くと共に、腕の疼きは、ピタッと治まった。その日一日はお屋敷で過ごし、夜になって桧垣村へもどった。
ところが、家へもどると、又、腕が疼き出したので、夜の明けるのを待ちかねて、お屋敷へ帰らせて頂いた。すると、不思議にも、腕の疼きは治まった。
こんな事が繰り返されて、三年間というものは、ほとんど毎日のようにお屋敷へ通った。そのうち、教祖が、
「与之助さん、ここに居いや。」
と、仰せ下されたので、仰せ通り、お屋敷に寝泊まりさせて頂いて、用事を手伝わせてもらった。そうしないと、腕の疼きが止まらなかったからである。
こうして、与之助は、お屋敷の御用を勤めさせて頂くようになった。

末代にかけて

ある時、教祖は、豊田村の仲田儀三郎の宅へお越しになり、家のまわりをお歩きになり、

「しっかり踏み込め、しっかり踏み込め。末代にかけて、しっかり踏み込め。」

と、口ずさみながらお歩きになって後、仲田に対して、

「この屋敷は、神が入り込み、地固めしたのや。どんなに貧乏しても、手放してはならんで。信心は、末代にかけて続けるのやで。」

と、仰せになった。

後日、儀三郎の孫吉蔵の代に、村からの話で、土地の一部を交換せねばならぬこととなり、話も進んで来た時、急に吉蔵の顔に面疔が出来て、顔が腫れ上がってしまった。それで、家中の者が驚いていろいろと思案し、額を寄せて相談したところ、年寄り達の口から、教祖が地固めをして下された土地であることが語られ、早速、親神様にお詫び申し上げ、村へは断りを言うたところ、身上の患いは、鮮やかにすっきりとお救け頂いた。

註 年寄り達とは、中田しほと、その末妹上島かつの二人である。しほは、儀三郎の長男の嫁。

人を救けたら

明治八年四月上旬、福井県山東村菅浜の榎本栄治郎は、娘きよの気違いを救けてもらいたいと西国巡礼をして、第八番長谷観音に詣ったところ、茶店の老婆から、「庄屋敷村には生神様がござる。」 と聞き、早速、三輪を経て庄屋敷に到り、お屋敷を訪れ、取次に頼んで、教祖にお目通りした。すると、教祖は、

「心配は要らん要らん。家に災難が出ているから、早ようおかえり。かえったら、村の中、戸毎に入り込んで、四十二人の人を救けるのやで。なむてんりわうのみこと、と唱えて、手を合わせて神さんをしっかり拝んで廻わるのやで。人を救けたら我が身が救かるのや。」

と、お言葉を下された。

栄治郎は、心もはればれとして、庄屋敷を立ち、木津、京都、塩津を経て、菅浜に着いたのは、四月二十三日であった。

娘は、ひどく狂うていた。しかし、両手を合わせて、

なむてんりわうのみこと

と、繰り返し願うているうちに、不思議にも、娘はだんだんと静かになって来た。それで、教祖のお言葉通り、村中ににをいがけをして廻わり、病人の居る家は重ねて何度も廻わって、四十二人の平癒を拝み続けた。

すると、不思議にも、娘はすっかり全快の御守護を頂いた。方々の家からもお礼に来た。全快した娘には養子をもろうた。
栄治郎と娘夫婦の三人は、救けて頂いたお礼に、おぢばへ帰らせて頂き、教祖にお目通りさせて頂いた。
教祖は、真っ赤な赤衣をお召しになり、白髪で茶せんに結うておられ、綺麗な上品なお姿であられた、という。

それでよかろう

明治八年九月二十七日(陰暦八月二十八日)、この日は、こかんの出直した日である。庄屋敷村の人々は、病中には見舞い、容態が変わったと言うては駆け付け、葬式の日は、朝早くから手伝いに馳せ参じた。
 その翌日、後仕舞の膳についた一同は、こかん生前の思い出を語り、教祖のお言葉を思い、話し合ううちに、「ほんまに、わし等は、今まで、神様を疑うていて申し訳なかった。」 と、中には涙を流す者さえあった。
 その時、列席していたお屋敷に勤める先輩が、「あなた方も、一つ、講を結んで下さったら、どうですか。」 と、言った。そこで、村人達は、「わし等も、村方で講を結ばして頂こうやないか。」 と、相談がまとまった。
 その由を、教祖に申し上げると、教祖は、大層お喜びくだされた。
 そこで、講名を、何んと付けたらよかろう、という事になったが、農家の人々ばかりで、よい考えもない。そのうち、誰言うともなく、「天の神様の地元だから、天の元、天元講としては、どうだろう。」とのことに、一同、「それがよい。」 という事になり、この旨を教祖に伺うと、
 「それでよかろう。」
と、仰せられ、御自分の召しておられた赤衣の羽織を脱いで、
 「これを、信心のめどにして、お祀りしなされ。」
と、お下げ下された。こうして、天元講が出来、その後は、誰が講元ということもなく、毎月、日を定めて、赤衣を持ち廻わって講勤めを始めたのである。

雪の日

明治八、九年頃、増井りんが信心しはじめて、熱心にお屋敷帰りの最中のことであった。
 正月十日、その日は朝から大雪であったが、りんは河内からお屋敷へ帰らせて頂くため、大和路まで来た時、雪はいよいよ降りつのり、途中から風さえ加わる中を、ちょうど額田部の高橋の上まで出た。この橋は、当時は幅三尺程の欄干のない橋であったので、これは危ないと思い、雪の降り積もっている橋の上を、跣足になって這うて進んだ。そして、ようやくにして、橋の中程まで進んだ時、吹雪が一時にドッと来たので、身体が揺れて、川の中へ落ちそうになった。こんなことが何回もあったが、その度に、蟻のようにペタリと雪の上に這いつくばって、
 なむてんりわうのみこと なむてんりわうのみこと
と、一生懸命にお願いしつつ、やっとの思いで高橋を渡り切って宮堂に入り、二階堂を経て、午後四時頃お屋敷へたどりついた、そして、つとめ場所の、障子を開けて、中へ入ると、村田イヱが、「ああ、今、教祖が、窓から外をお眺めになって、
 『まあまあ、こんな日にも人が来る。なんと誠の人やなあ。ああ、難儀やろうな。』
と、仰せられていたところでした。」 と、言った。
 りんは、お屋敷へ無事帰らせて頂けた事を、「ああ、結構やなあ。」と、ただただ喜ばせて頂くばかりであった。しかし、河内からお屋敷まで七里半の道を、吹雪に吹きまくられながら帰らせて頂いたので、手も足も凍えてしまって自由を失っていた。それで、そこに居合わせた人々が、紐を解き、手を取って、種々と世話をし、火鉢の三つも寄せて温めてくれ、身体もようやく温まって来たので、早速と教祖へ御挨拶に上がると、教祖は、
 「ようこそ帰って来たなあ。親神が手を引いて連れて帰ったのやで。あちらにてもこちらにても滑って、難儀やったなあ、その中にて喜んでいたなあ。さあ/\親神が十分々々受け取るで。どんな事も皆受け取る。守護するで。楽しめ、楽しめ、楽しめ。」
と、仰せられて、りんの冷え切った手を、両方のお手で、しっかりとお握り下された。
 それは、ちょうど火鉢の上に手をあてたと言うか、何んとも言いあらわしようのない温かみを感じて、勿体ないやら有難いやらで、りんは胸が一杯になった。

心の皺を

教祖は、一枚の紙も、反故やからとて粗末になさらず、おひねりの紙なども、丁寧に皺を伸ばして、座布団の下に敷いて、御用にお使いなされた。お話に、
 「皺だらけになった紙を、そのまま置けば、落とし紙か鼻紙にするより仕様ないで。これを丁寧に皺を伸ばして置いたなら、何んなりとも使われる。落とし紙や鼻紙になったら、もう一度引き上げることは出来ぬやろ。
 人のたすけもこの理やで。心の皺を、話の理で伸ばしてやるのやで。心も、皺だらけになったら、落とし紙のようなものやろ。そこを、落とさずに救けるが、この道の理やで。」
と、お聞かせ下された。
 ある時、増井りんが、お側に来て、「お手許のおふでさきを写さして頂きたい。」 とお願いすると、
 「紙があるかえ。」
と、お尋ね下されたので、「丹波市へ行て買うて参ります。」 と申し上げたところ、
 「そんな事していては遅うなるから、わしが括ってあげよう。」
と、仰せられ、座布団の下から紙を出し、大きい小さいを構わず、墨のつかぬ紙をよりぬき、御自身でお綴じ下されて、
 「さあ、わしが読んでやるから、これへお書きよ。」
とて、お読み下された。りんは、筆を執って書かせて頂いたが、これは、おふでさき第五号で、今も大小不揃いの紙でお綴じ下されたまま保存させて頂いている、という。

何から何まで

ある日、信者が大きな魚をお供えした。お供えがすんでから、秀司が、増井りんに、「それを料理するように。」と、言い付けた。りんは、出刃をさがしたが、どうしても見付からない。すると、秀司は、「おりんさん、出刃かいな。台所に大きな菜刀があるやろ。あれで料理しておくれ。」 と言った。出刃はなかったのである。
 りんは、余りのことと思ったので、ある日お暇を願うて、河内へもどった。ちょうど、その日は、八尾のお逮夜であったので、早速、八尾へ出かけて、出刃包丁と薄い刺身包丁と鋏など、一揃い買うて来て、お屋敷へ帰り、お土産に差し上げた。秀司もまつゑも大層喜んで、秀司は、「こんな結構なもの、お祖母様に見せる。一しょにおいで。」 と促した。教祖にお目にかかって、留守にしたお礼を、申し上げると、教祖は、それをお頂きになって、
 「おりんさん、何から何まで、気を付けてくれたのやなあ。有難いなあ。」
と、仰せになって、お喜び下された。りんは、余りの勿体なさに、畳に額をすり付けて、むせび泣いた、という。
註 八尾のお逮夜 毎月二回、十一日と二十七日に、八尾の寺と久宝寺の寺との間に出た昼店。

先を楽しめ

明治九年六月十八日の夜、仲田儀三郎が、「教祖が、よくお話の中に、
 『松は枯れても、案じなし。』
と、仰せ下されますので、どこの松であろうかと、話し合うているのですが。」 と言ったので、増井りんは、「お祓いさんの降った松は枯れる。増井の屋敷の松に、お祓いさんが降ったから、あの松は枯れてしまう。そして、あすこの家は、もうあかん。潰れてしまうで。と、人人が申します。」 と、人の噂を、そのままに話した。そこで、仲田が、早速このことを、教祖にお伺いすると、教祖は、

 「さあ/\分かったか、分かったか。今日の日、何か見えるやなけれども、先を楽しめ、楽しめ。松は枯れても案じなよ。人が何んと言うても、言おうとも、人の言う事、心にかけるやない程に。」

と、仰せ下され、しばらくしてから、

 「屋敷松、松は枯れても案じなよ。末はたのもし、打ち分け場所。」
と、重ねてお言葉を下された。

待ってた、待ってた

明治九年十一月九日(陰暦九月二十四日)午後二時頃、上田嘉治郎が、萱生の天神祭に出かけようとした時、機を織っていた娘のナライトが、突然、「布留の石上さんが、総髪のような髪をして、降りて来はる。怖い。」 と言うて泣き出した。いろいろと手当てを尽したが、何んの効能もなかったので、隣りの西浦弥平のにをいがけで信心するうち、次第によくなり、翌月、おぢばへ帰って、教祖にお目にかからせて頂いたところ、
 「待ってた、待ってた。五代前に命のすたるところを救けてくれた叔母やで。」
と、有難いお言葉を頂き、三日の間に、すっきりお救け頂いた。時に、ナライト十四才であった。

素直な心

明治九年か十年頃、林芳松が五、六才頃のことである。右手を脱臼したので、祖母に連れられてお屋敷へ帰って来た。すると、教祖は、

「ぼんぼん、よう来やはったなあ。」

と、仰っしゃって、入口のところに置いてあった湯呑み茶碗を指差し、

「その茶碗を持って来ておくれ。」

と、仰せられた。
芳松は、右手が痛いから左手で持とうとすると、教祖は、

「ぼん、こちらこちら。」

と、御自身の右手をお上げになった。
威厳のある教祖のお声に、子供心の素直さから、痛む右手で茶碗を持とうとしたら、持てた。茶碗を持った右手は、いつしか御守護を頂いて、治っていたのである。

幸助とすま

明治十年三月のこと。桝井キクは、娘のマス(註、後の村田すま)を連れて、三日間生家のレンドに招かれ、二十日の日に帰宅したが、翌朝、マスは、激しい頭痛でなかなか起きられない。が、厳しくしつけねば、と思って叱ると、やっと起きた。が、翌二十二日になっても、未だ身体がすっきりしない。それで、マスは、お屋敷へ詣らせて頂こう、と思って、許しを得て、朝八時伊豆七条村の家を出て、十時頃お屋敷へ到着した。すると、教祖は、マスに、

 「村田、前栽へ嫁付きなはるかえ。」

と、仰せになった。マスは、突然の事ではあったが、教祖のお言葉に、「はい、有難うございます。」 と、お答えした。すると、教祖は、

 「おまはんだけではいかん。兄さん(註、桝井伊三郎)にも来てもらい。」

と、仰せられたので、その日は、そのまま伊豆七条村へもどって、兄の伊三郎にこの話をした。その頃には、頭痛は、もう、すっきり治っていた。

 それで、伊三郎は、神様が仰せ下さるのやから、明早朝伺わせて頂こう、ということになり、翌二十三日朝、お屋敷へ帰って、教祖にお目にかからせて頂くと、教祖は、

 「オマスはんを、村田へやんなはるか。やんなはるなら、二十六日の日に、あんたの方から、オマスはんを連れて、ここへ来なはれ。」

と、仰せになったので、伊三郎は、「有難うございます。」 と、お礼申し上げて、伊豆七条村へもどった。

 翌二十四日、前栽の村田イヱが、お屋敷へ帰らせて頂くと、教祖は、

 「オイヱはん、おまはんの来るのを、せんど待ちかねてるね。おまはんの方へ嫁はんあげるが、要らんかえ。」

と、仰せになったので、イヱは、「有難うございます。」 と、お答えした。すると、教祖は、

 「二十六日の日に、桝井の方から連れて来てやさかいに、おまはんの方へ連れてかえり。」

と、仰せ下された。

 二十六日の朝、桝井の家からは、いろいろと御馳走を作って重箱に入れ、母のキクと兄夫婦とマスの四人が、お屋敷へ帰って来た。

 前栽からは、味醂をはじめ、いろいろの御馳走を入れた重箱を持って、親の幸右衞門、イヱ夫婦と亀松(註、当時二十六才)が、お屋敷へ帰って来た。
 そこで、教祖のお部屋、即ち中南の間で、まず教祖にお盃を召し上がって頂き、そのお流れを、亀松とマスが頂戴した。教祖は、

 「今一寸前栽へ行くだけで、直きここへ帰って来るねで。」

と、お言葉を下された。

 この時、マスは、教祖からすまと名前を頂いて、改名し、亀松は、後、明治十二年、教祖から幸助と名前を頂いて、改名した。

註 レンド レンドは、又レンゾとも言い、百姓の春休みの日。日は、村によって同日ではないが、田植、草取りなどの激しい農作業を目の前にして、餅をつき団子を作りなどして、休養する日。(近畿民俗学会「大和の民俗」、民俗学研究所「綜合日本民俗語彙)

家の宝

明治十年六、七月頃(陰暦五月)のある日のこと。村田イヱが、いつものように教祖のお側でお仕えしていると、俄かに、教祖が、
 「オイヱはん、これ縫うて仕立てておくれ。」
と、仰せられ、甚平に裁った赤い布をお出しになった。イヱは、「妙やなあ。神様、縫うて、と仰っしゃる。」 と思いながら、直ぐ縫い上げたら、教祖は、早速それをお召しになった。
 ちょうどその日の夕方、亀松は、腕が痛んで痛んで困るので、お屋敷へ詣って来ようと思って、帰って来た。教祖は、それをお聞きになって、
 「そうかや。」
と、仰せられ、早速寝床へお入りになり、しばらくして、寝床の上にジッとお坐りになり、
 「亀松が、腕痛いと言うているのやったら、ここへ連れておいで。」
と、仰せになった。それで、亀松を、御前へ連れて行くと、
 「さあ/\これは使い切れにするのやないで。家の宝やで。いつでも、さあという時は、これを着て願うねで。」
と、仰せになり、お召しになっていた赤衣をお脱ぎになって、直き直き、亀松にお着せ下され、
 「これを着て、早くかんろだいへ行て、
 あしきはらひたすけたまへ いちれつすますかんろだい
 のおつとめをしておいで。」
と、仰せられた。

琴を習いや

 明治十年のこと。教祖が、当時八才の辻とめぎくに、
 「琴を習いや。」
と、仰せになったが、父の忠作は、「我々の家は百姓であるし、そんな、琴なんか習わせても。」 と言って、そのままにして、日を過ごしていた。
 すると、忠作の右腕に、大きな腫物が出来た。それで、この身上から、「娘に琴の稽古をさせねばならぬ。」 と気付き、決心して、郡山の町へ琴を買いに行った。
 そうして、琴屋で、話しているうちに、その腫物が潰れて、痛みもすっきり治まった。それで、「いよいよこれは、神様の思わくやったのや。」 と、心も勇んで、大きな琴を、今先まで痛んでいた手で肩にかついで、帰路についた、という。

この屋敷から

明治十年、飯降よしゑ十二才の時、ある日、指先が痛んで仕方がないので、教祖にお伺いに上がったところ、

 「三味線を持て。」

と、仰せになった。それで、早速その心を定めたが、当時櫟本の高品には、三味線を教えてくれる所はない。 「郡山へでも、習いに行きましょうか。」 と、お伺いすると、教祖は、

 「習いにやるのでもなければ、教えに来てもらうのでもないで。この屋敷から教え出すものばかりや。世界から教えてもらうものは、何もない。この屋敷から教え出すので、理があるのや。」

と、仰せられ、御自身で手を取って、直き直きお教え下されたのが、おつとめの三味線である。

註 飯降よしゑは、明治二十一年結婚して、永尾よしゑとなる。

心で弾け

飯降よしゑは、明治十年十二才の時から三年間、教祖から直き直き三味線をお教え頂いたが、その間いろいろと心がけをお仕込み頂いた。教祖は、

 「どうでも、道具は揃えにゃあかんで。」
 「稽古出来てなければ、道具の前に坐って、心で弾け。その心を受け取る。」
 「よっしゃんえ、三味線の糸、三、二と弾いてみ。一ッと鳴るやろが。そうして、稽古するのや。」

と。

胡弓々々

明治十年のこと。当時十五才の上田ナライトは、ある日、たまたま園原村の生家へかえっていたが、何かのはずみで、身体が何度も揺れ動いて止まらない。父親や兄がいくら押えても、止まらず、一しょになって動くので、父親がナライトを連れて、教祖の御許へお伺いに行くと、
 「胡弓々々。」
と、仰せになった。それで「はい。」 とお受けすると、身体の揺れるのが治まった。
 こうして、胡弓をお教え頂くことになり、おつとめに出させて頂くようになった。

ゆうべは御苦労やった

本部神殿で、当番を勤めながら井筒貞彦が、板倉槌三郎に尋ねた。「先生は、何遍も警察などに御苦労なされて、その中、ようまあ、信仰をお続けになりましたね。」 と、言うと、板倉槌三郎は、「わしは、お屋敷へ三遍目に帰って来た時、三人の巡査が来よって、丹波市分署の豚箱へ入れられた。あの時、他の人と一晩中、お道を離れようか、と相談したが、しかし、もう一回教祖にお会いしてからにしようと思って、お屋敷へもどって来た。すると、教祖が、
 『ゆうべは、御苦労やったなあ。』
と、しみじみと、且つニコヤカに仰せ下された。わしは、その御一言で、これからはもう、かえって、何遍でも苦労しよう、という気になってしもうた。」 と、答えた。
 これは、神殿が、未だ北礼拝場だけだった昭和六、七年頃、井筒が、板倉槌三郎から聞いた話である。
註 板倉槌三郎は、明治九年に信仰始。よって、教祖のお言葉をお聞かせ頂いたのは、明治九年、又は十年頃と推定される。

男の子は、父親付きで

明治十年夏、大和国伊豆七条村の、矢追楢蔵(註、当時九才)は、近所の子供二、三名と、村の西側を流れる佐保川へ川遊びに行ったところ、一の道具を蛭にかまれた。その時は、さほど痛みも感じなかったが、二、三日経つと、大層腫れて来た。別に痛みはしなかったが、場所が場所だけに、両親も心配して、医者にもかかり、加持祈祷もするなど、種種と手を尽したが、一向効しは見えなかった。

 その頃、同村の喜多治郎吉の伯母矢追こうと、桝井伊三郎の母キクとは、既に熱心に信心していたので、楢蔵の祖母ことに、信心をすすめてくれた。ことは、元来信心家であったので、直ぐ、その気になったが、楢蔵の父惣五郎は、百姓一点張りで、むしろ信心する者を笑っていたぐらいであった。そこで、ことが、「わたしの還暦祝をやめるか、信心するか。どちらかにしてもらいたい。」 とまで言ったので、惣五郎はやっとその気になった。十一年一月(陰暦 前年十二月)のことである。

 そこで、祖母のことが楢蔵を連れて、おぢばへ帰り、教祖にお目にかかり、楢蔵の患っているところを、ごらん頂くと、教祖は、

 「家のしん、しんのところに悩み。心次第で結構になるで。」

と、お言葉を下された。それからというものは、祖母のことと母のなかが、三日目毎に交替で、一里半の道を、楢蔵を連れてお詣りしたが、はかばかしく御守護を頂けない。

 明治十一年三月中旬(陰暦二月中旬)、 ことが楢蔵を連れてお詣りしていると、辻忠作が、
「『男の子は、父親付きで。』 と、お聞かせ下さる。一度、惣五郎さんが連れて詣りなされ。」 と、言ってくれた。それで、家へもどってから、ことは、このことを惣五郎に話して、「ぜひお詣りしておくれ。」と、言った。

 それで、惣五郎が、三月二十五日(陰暦二月二十二日)、楢蔵を連れておぢばへ詣り、夕方帰宅した。ところが、不思議なことに、翌朝は、最初の病みはじめのように腫れ上がったが、二十八日(陰暦二月二十五日)の朝には、すっきり全快の御守護を頂いた。家族一同の喜びは譬えるにものもなかった。当時十才の楢蔵も、心に沁みて親神様の御守護に感激し、これが、一生変わらぬ堅い信仰のもととなった。

今日は、河内から

 明治十年頃のこと。当時二十才の河内国の山田長造は、長患いのため数年間病床に呻吟していた。
 ところが、ある日、綿を買い集めに来た商人から、大和の庄屋敷には、不思議な神様が居られると聞き、病床の中で、一心に念じておすがりしていると、不思議にも気分がよくなって来た。湯呑みで水を頂くにも、祈念して頂くと、気分が一段とよくなり、数日のうちに起きられるようになった。
 この不思議な御守護に感激した長造は、ぜひ一度、庄屋敷へお詣りして、生神様にお礼申し上げたいと思い立った。家族は、時期尚早と反対したが、当人のたっての思いから、弟与三吉を同行させて、二本の松葉杖にすがって出発した。ところが、自宅のある刑部村から一里程の、南柏原へ来ると、杖は一本で歩けるようになった。更に、大和へ入って竜田まで来ると、残りの一本も要らないようになった。そこで、弟を家へかえして、一人でお屋敷へたどりついた。
 そして、取次から、「あんたは、河内から来られたのやろう。神様は、朝から、
 『今日は、河内から訪ねて来る人があるで。』
と、仰せになっていたが、あんたの事やなあ。神様は、待っていられるで。」と聞かされて、大層驚き、「本当に、生神様のおいでになる所やなあ。」 と、感じ入った。
 かくて、教祖にお目通りして、数々のやさしいお言葉を頂き、約一週間滞在の上、すっきり御守護頂いたので、お暇に上がると、
 「又、直ぐ帰って来るのやで。」
と、お言葉を下さった。
 こうして、かえりは信貴山越えで、陽気に伊勢音頭を歌いながら、元気にかえらせて頂いた、という。

まつり

明治十一年正月、山中こいそ(註、後の山田いゑ)は、二十八才で教祖の御許にお引き寄せ頂き、お側にお仕えすることになったが、教祖は二十六日の理について、
 「まつりというのは、待つ理であるから、二十六日の日は、朝から他の用は、何もするのやないで。この日は、結構や、結構や、と、をや様の御恩を喜ばして頂いておればよいのやで。」
と、お聞かせ下されていた。
 こいそは、赤衣を縫う事と、教祖のお髪を上げる事とを、日課としていたが、赤衣は、教祖が、必ずみずからお裁ちになり、それをこいそにお渡し下さる事になっていた。
 教祖の御許にお仕えして間もない明治十一年四月二十八日、陰暦三月二十六日の朝、お掃除もすませ、まだ時間も早かったので、こいそは、教祖に向かって、「教祖、朝早くから何もせずにいるのは余り勿体のう存じますから、赤衣を縫わして頂きとうございます。」 とお願いした。すると教祖は、しばらくお考えなされてから、
 「さようかな。」
と、仰せられ、すうすうと赤衣をお裁ちになって、こいそにお渡し下された。
 こいそは、御用が出来たので、喜んで、早速縫いにかかったが、一針二針縫うたかと思うと、俄かにあたりが真暗になって、白昼の事であるのに、黒白も分からぬ真の闇になってしまった。愕然としてこいそは、「教祖」と叫びながら、「勿体ないと思うたのは、かえって理に添わなかったのです。赤衣を縫わして頂くのは、明日の事にさして頂きます。」と、心に定めると、忽ち元の白昼に還って、何の異状もなくなった。
 後で、この旨を教祖に申し上げると、教祖は、
 「こいそさんが、朝から何もせずにいるのは、あまり勿体ない、と言いなはるから、裁ちましたが、やはり二十六日の日は、掃き掃除と拭き掃除だけすれば、おつとめの他は何もする事要らんのやで。してはならんのやで。」
と、仰せ下さった。

金米糖の御供

教祖は、金米糖の御供をお渡し下さる時、

「ここは、人間の元々の親里や。そうやから砂糖の御供を渡すのやで。」

と、お説き聞かせ下された。又、

「一ぷくは、一寸の理。中に三粒あるのは、一寸身に付く理。二ふくは、六くに守る理。三ふくは、身に付いて苦がなくなる理。五ふくは、理を吹く理。三、五、十五となるから、十分理を吹く理。七ふくは、何んにも言うことない理。三、七、二十一となるから、たっぷり治まる理。九ふくは、苦がなくなる理。三、九、二十七となるから、たっぷり何んにも言うことない理。」

と、お聞かせ下された。

廊下の下を

明治十一年、上田民蔵十八才の時、母いそと共に、お屋敷へ帰らせて頂いた時のこと。教祖が、
 「民蔵さん、私とおまはんと、どちらの力強いか、力比べしよう。」
と、仰せになり、教祖は、北の上段にお上がりになり、民蔵は、その下から、一、二、三のかけ声で、お手を握って、引っ張り合いをした。力一杯引っ張ったが、教祖は、ビクともなさらない。民蔵は、そのお力の強いのに、全く驚歎した。

 又、ある時、民蔵がお側へ伺うと、教祖が、
 「民蔵さん、あんた、今は大西から帰って来るが、先になったら、おなかはんも一しょに、この屋敷へ来ることになるのやで。」
と、お言葉を下された。民蔵は、「わしは百姓をしているし、子供もあるし、そんな事出来そうにもない。」 と思うたが、その後子供の身上から、家族揃うてお屋敷へお引き寄せ頂いた。
 又、ある時、母いそと共にお屋敷へ帰らせて頂いた時、教祖は、
 「民蔵はん、この屋敷は、先になったらなあ、廊下の下を人が往き来するようになるのやで。」
と、仰せられた。
 後年、お言葉が、次々と実現して来るのに、民蔵は、心から感じ入った、という。

これより東

明治十一年十二月、大和国笠村の山本藤四郎は、父藤五郎が重い眼病にかかり、容態次第に悪化し、医者の手余りとなり、加持祈祷もその効なく、万策尽きて、絶望の淵に沈んでいたところ、知人から「庄屋敷には、病たすけの神様がござる。」 と聞き、どうでも父の病を救けて頂きたいとの一心から、長患いで衰弱し、且つ、眼病で足許の定まらぬ父を背負い、三里の山坂を歩いて、初めておぢばへ帰って来た。教祖にお目にかかったところ、

 「よう帰って来たなあ。直ぐに救けて下さるで。あんたのなあ、親孝行に免じて救けて下さるで。」

と、お言葉を頂き、庄屋敷村の稲田という家に宿泊して、一カ月余滞在して日夜参拝し、取次からお仕込み頂くうちに、さしもの重症も、日に日に薄紙をはぐ如く御守護を頂き、遂に全快した。

 明治十三年夏には、妻しゆの腹痛を、その後、次男耕三郎の痙攣をお救け頂いて、一層熱心に信心をつづけた。

 又、ある年の秋、にをいのかかった病人のおたすけを願うて参拝したところ、
 「笠の山本さん、いつも変わらずお詣りなさるなあ。身上のところ、案じることは要らんで。」

と、教祖のお言葉を頂き、かえってみると、病人は、もうお救け頂いていた、ということもあった。

 こうして信心するうち、鴻田忠三郎と親しくなった。山本の信心堅固なのに感銘した鴻田が、そのことを教祖に申し上げると、教祖からお言葉があった。

 「これより東、笠村の水なき里に、四方より詣り人をつける。直ぐ運べ。」
と。そこで、鴻田は、辻忠作と同道して笠村に到り、このお言葉を山本に伝えた。
 かくて、山本は、一層熱心ににをいがけ・おたすけに奔走させて頂くようになった。

目に見えん徳

教祖が、ある時、山中こいそに、

「目に見える徳ほしいか、目に見えん徳ほしいか。どちらやな。」

と、仰せになった。

こいそは、「形のある物は、失うたり盗られたりしますので、目に見えん徳頂きとうございます。」 と、お答え申し上げた。

やんわり伸ばしたら

ある日、泉田藤吉(註、通称熊吉)が、おぢば恋しくなって、帰らせて頂いたところ、教祖は、膝の上で小さな皺紙を伸ばしておられた。そして、お聞かせ下されたのには、
 「こんな皺紙でも、やんわり伸ばしたら、綺麗になって、又使えるのや。何一つ要らんというものはない。」
と。お諭し頂いた泉田は、喜び勇んで大阪へかえり、又一層熱心におたすけに廻わった。しかし、道は容易につかない。心が倒れかかると、泉田は、我と我が心を励ますために水ごりを取った。厳寒の深夜、淀川に出て一っ刻程も水に浸かり、堤に上がって身体を乾かすのに、手拭を使っては功能がないと、身体が自然に乾くまで風に吹かれていた。水に浸かっている間は左程でもないが、水から出て寒い北風に吹かれて身体を乾かす時は、身を切られるように痛かった。が、我慢して三十日間程これを続けた。
 又、なんでも、苦しまねばならん、ということを聞いていたので、天神橋の橋杭につかまって、一晩川の水に浸かってから、おたすけに廻わらせて頂いた。
 こういう頃のある日、おぢばへ帰って、教祖にお目にかからせて頂くと、教祖は、
 「熊吉さん、この道は、身体を苦しめて通るのやないで。」
と、お言葉を下された。親心溢れるお言葉に、泉田は、かりものの身上の貴さを、身に沁みて納得させて頂いた。
註 一っ刻は、約二時間。

用に使うとて

明治十二年六月頃のこと。教祖が、毎晩のお話の中で、

 「守りが要る、守りが要る。」

と、仰せになるので、取次の仲田儀三郎、辻忠作、山本利八等が相談の上、秀司に願うたところ、「おりんさんが宜かろう。」という事になった。

 そこで、早速、翌日の午前十時頃、秀司、仲田の後に、増井りんがついて、教祖のところへお伺いに行った。秀司から、事の由を申し上げると、教祖は、直ぐに、

 「直ぐ、直ぐ、直ぐ、直ぐ。用に使うとて引き寄せた。直ぐ、直ぐ、直ぐ。早く、早く。遅れた、遅れた。さあ/\楽しめ、楽しめ。どんな事するのも、何するも、皆、神様の御用と思うてするのやで。する事、なす事、皆、一粒万倍に受け取るのやで。さあ/\早く、早く、早く。直ぐ、直ぐ、直ぐ。」
と、お言葉を下された。

 かくて、りんは、その夜から、明治二十年、教祖が御身をかくされるまで、お側近く、お守役を勤めさせて頂いたのである。

安産

前川喜三郎の妻たけが、長女きみを妊娠した時、をびや許しを頂きに、お屋敷へ帰らせて頂いたところ、教祖は、
 「よう帰って来た。」
と、仰せられ、更に、
 「出産の時は、人の世話になること要らぬ。」
と、お言葉を下された。
 たけは、産気づいた時、家には誰も居なかったので、教祖の仰せ通り、自分で湯を沸かし、盥も用意し、自分で臍の緒を切り、後産の始末もし、赤児には産湯をつかわせ、着物も着せ、全く人の世話にならずに、親神様の自由自在の御守護によって、安産させて頂いた。
註 前川きみの出生は、明治十三年一月二十五日である。よってをびや許しを頂いたのは、その前年明治十二年と推定される。

かわいそうに

抽冬鶴松は、幼少から身体が弱く、持病の胃病が昂じて、明治十二年、十六才の時に、危篤状態となり、医者も匙を投げてしまった。
 この時、遠縁にあたる東尾の伝手で、浅野喜市が、にをいをかけてくれた。そのすすめで、入信を決意した鶴松は、両親に付き添われ、戸板に乗せてもらって、十二里の山坂を越えて、初めておぢば帰りをさせて頂き、一泊の上、中山重吉の取次ぎで、特に戸板のお許しを頂いて、翌朝、教祖にお目通りさせて頂いた。すると、教祖は、
 「かわいそうに。」
と、仰せになって、御自身召しておられた赤の肌襦袢を脱いで、鶴松の頭からお着せ下された。
 この時、教祖の御肌着の温みを身に感じると同時に、鶴松は夜の明けたような心地がして、さしもの難病も、それ以来薄紙をはぐように快方に向かい、一週間の滞在で、ふしぎなたすけを頂き、やがて全快させて頂いた。
 鶴松は、その時のことを思い出しては、「今も尚、その温みが忘れられない。」 と一生口癖のように言っていた、という。

先は永いで

堺の平野辰次郎は、明治七年、十九才の頃から病弱となり、六年間、麩を常食として暮らしていた。ところが、明治十二年、二十四才の時、山本多三郎からにをいがかかり、神様のお話を聞かして頂いたその日から、麩の常食をやめて、一時に鰯を三十匹も食べられる、という不思議な御守護を頂いた。
 その喜びにおぢばへ帰り、蒸風呂にも入れて頂き、取次からお話を聞かせて頂き、家にかえってからは、早速、神様を祀らせて頂いて、熱心ににをいがけ・おたすけに励むようになった。こうして、度々おぢばへ帰らせて頂いているうちに、ある日、教祖にお目通りさせて頂くと、教祖が、
 「堺の平野辰次郎というのは、おまえかえ。」
と、仰せになって、自分の手を差し出して、
 「私の手を握ってみなされ。」
と、仰せになるので、恐る恐る御手を握ると、
 「それだけの力かえ。もっと力を入れてみなされ。」
と、仰せになった。それで、力一杯握ったが、教祖が、それ以上の力で握り返されるので、全く恐れ入って、教祖の偉大さをしみじみと感銘した。その時、教祖は、
 「年はいくつか。ようついて来たなあ。先は永いで。どんな事があっても、愛想つかさず信心しなされ。先は結構やで。」
と、お言葉を下された。

弟さんは、尚もほしい

明治十二、三年頃の話。宮森与三郎が、お屋敷へお引き寄せ頂いた頃、教祖は、
 「心の澄んだ余計人が入用。」
と、お言葉を下された。
 余計人と仰せられたのは、与三郎は、九人兄弟の三男で、家に居ても居なくても、別段差し支えのない、家にとっては余計な人という意味であり、心の澄んだというのは、生来、素直で正直で、別段欲もなく、殊にたんのうがよかったと言われているから、そういう点を仰せになったものと思われる。

 又、明治十四年頃、山沢為造が、教祖のお側へ寄せてもらっていたら、
 「為造さん、あんたは弟さんですな。神様はなあ、『弟さんは、尚もほしい。』と仰っしゃりますねで。」
と、お聞かせ下された。

麦かち

お屋敷で、春や秋に農作物の収穫で忙しくしていると、教祖がお出ましになって、
 「私も手伝いましょう。」
と、仰せになって、よくお手伝い下された。
 麦かちの時に使う麦の穂を打つ柄棹には、大小二種類の道具があり、大きい方は「柄ガチ」と言って、打つ方と柄の長さがほぼ同じで、これは大きくて重いので、余程力がないと使えない。が、教祖は、高齢になられても、この「柄ガチ」を持って、若い者と同じように、達者にお仕事をして下された。
 明治十二、三年頃の初夏のこと。ある日、カンカンと照りつけるお日様の下で、高井や宮森などが、汗ばみながら麦かちをしていると、教祖も出て来られて、手拭を姉さん冠りにして、皆と一しょに麦かちをなされた。
 ところが、どうしても八十を越えられたとは思えぬ元気さで仕事をなさるので、皆の者は、若い者と少しも変わらぬお仕事振りに、感歎の思いをこめて拝見した、という。

あの雨の中を

明治十三年四月十四日(陰暦三月五日)、井筒梅治郎夫婦は娘のたねを伴って、初めておぢばへ帰らせて頂いた。大阪を出発したのは、その前日の朝で、豪雨の中を出発したが、おひる頃カラリと晴れ、途中一泊して、到着したのは、その日の午後四時頃であった。早速、教祖にお目通りさせて頂くと、教祖は、
 「あの雨の中を、よう来なさった。」
と、仰せられ、たねの頭を撫でて下さった。更に、教祖は、
 「おまえさん方は、大阪から来なさったか。珍しい神様のお引き寄せで、大阪へ大木の根を下ろして下されるのや。子供の身上は案じることはない。」
と、仰せになって、たねの身体の少し癒え残っていたところに、お紙を貼って下さった。たねが、間もなく全快の御守護を頂いたのは、言うまでもない。
 梅治郎の信仰は、この、教祖にお目にかかった感激とふしぎなたすけから、激しく燃え上がり、ただ一条に、にをいがけ・おたすけへと進んで行った。

救かる身やもの

明治十三年四月頃から、和泉国の村上幸三郎は、男盛りのさ中というのに、坐骨神経痛のために手足の自由を失い、激しい痛みにおそわれ、食事も進まない状態となった。医者にもかかり様々治療の限りを尽したが、その効果なく、本人はもとより家族の者も、奈落の底へ落とされた思いで、明け暮れしていた。
 何んとかしてと思う一念から、竜田の近くの神南村にお灸の名医が居ると聞いて、行ったところ、不在のためガッカリしたが、この時、平素、奉公人や出入りの商人から聞いていた庄屋敷の生神様を思い出し、ここまで来たのだからとて、庄屋敷村めざして帰って来た。
 そして、教祖に親しくお目にかからせて頂いた。教祖は、
 「救かるで、救かるで。救かる身やもの。」
と、お声をおかけ下され、いろいろ珍しいお話をお聞かせ下された。そして、かえり際には、紙の上に載せた饅頭三つと、お水を下された。幸三郎は、身も心も洗われたような、清々しい気持になって帰途についた。
 家に着くと、遠距離を人力車に乗って来たのに、少しも疲れを感ぜず、むしろ快適な心地であった。そして、教祖から頂いたお水を、
  なむてんりわうのみこと なむてんりわうのみこと
と、唱えながら、痛む腰につけていると、三日目には痛みは夢の如くとれた。
 そして半年。おぢば帰りのたびに身上は回復へ向かい、次第に達者にして頂き、明けて明治十四年の正月には、本復祝いを行った。幸三郎四十二才の春であった。感謝の気持は、自然と足をおぢばへ向かわしめた。
 おぢばへ帰った幸三郎は、教祖に早速御恩返しの方法をお伺いした。教祖は、
 「金や物でないで。救けてもらい嬉しいと思うなら、その喜びで、救けてほしいと願う人を救けに行く事が、一番の御恩返しやから、しっかりおたすけするように。」
と、仰せられた。
 幸三郎は、そのお言葉通り、たすけ一条の道への邁進を堅く誓ったのであった。

大護摩

明治十三年九月二十二日(陰暦八月十八日)転輪王講社の開筵式の時、門前で大護摩を焚いていると、教祖は、北の上段の間の東の六畳の間へ、赤衣をお召しになったままお出ましなされ、お坐りになって、一寸の間、ニコニコとごらん下されていたが、直ぐお居間へお引き取りになった。
 かねてから、地福寺への願い出については、
 「そんな事すれば、親神は退く。」
とまで、仰せになっていたのであるが、そのお言葉と、「たとい我が身はどうなっても。」 と、一命を賭した秀司の真実とを思い合わせる時、教祖の御様子に、限りない親心の程がしのばれて、無量の感慨に打たれずにはいられない。

神の理を立てる

明治十三年秋の頃、教祖は、つとめをすることを、大層厳しくお急き込み下された。警察の見張、干渉の激しい時であったから、人々が躊躇していると、教祖は、

 「人間の義理を病んで神の道を潰すは、道であろうまい。人間の理を立ていでも、神の理を立てるは道であろう。さあ、神の理を潰して人間の理を立てるか、人間の理を立てず神の理を立てるか。これ、二つ一つの返答をせよ。」

と、刻限を以て、厳しくお急き込み下された。
 そこで、皆々相談の上、「心を定めておつとめをさしてもらおう。」
ということになった。
 ところが、おつとめの手は、めいめいに稽古も出来ていたが、かぐらづとめの人衆は、未だ誰彼と言うて定まってはいなかったので、これもお決め頂いて、勤めさせて頂くことになった。
 又、女鳴物は、三味線は飯降よしゑ、胡弓は上田ナライト、琴は辻とめぎくの三人が、教祖からお定め頂いていたが、男鳴物の方は、未だ手合わせも稽古も出来ていないし、俄かのことであるから、どうしたら宜しきやと、種々相談もしたが、人間の心で勝手には出来ないという上から、教祖に、この旨をお伺い申し上げた。すると、教祖は、

 「さあ/\鳴物々々という。今のところは、一が二になり、二が三になっても、神がゆるす。皆、勤める者の心の調子を神が受け取るねで。これよう聞き分け。」

という意味のお言葉を下されたので、皆、安心して、勇んで勤めた。山沢為造は、十二下りのてをどりに出させて頂いた。場所は、つとめ場所の北の上段の間の、南につづく八畳の間であった。

これが天理や

明治十二年秋、大阪の本田に住む中川文吉が、突然眼病にかかり、失明せんばかりの重態となった。隣家に住む井筒梅治郎は、早速おたすけにかかり、三日三夜のうちに、鮮やかな御守護を頂いた。翌十三年のある日、中川文吉は、お礼詣りにお屋敷へ帰らせて頂いた。
 教祖は、中川にお会いになって、
 「よう親里を尋ねて帰って来なされた。一つ、わしと腕の握り比べをしましょう。」
と、仰せになった。
 日頃力自慢で、素人相撲の一つもやっていた中川は、このお言葉に一寸苦笑を禁じ得なかったが、拒む訳にもいかず、逞ましい両腕を差し伸べた。すると、教祖は、静かに中川の左手首をお握りになり、中川の右手で、御自身の左手首を力限り握り締めるように、と仰せられた。
 そこで、中川は、仰せ通り、力一杯に教祖のお手首を握った。と、不思議な事には、反対に、自分の左手首が折れるかと思うばかりの痛さを感じたので、思わず、「堪忍して下さい。」 と、叫んだ。この時、教祖は、
 「何もビックリすることはないで。子供の方から力を入れて来たら、親も力を入れてやらにゃならん。これが天理や。分かりましたか。」
と、仰せられた。

牡丹の花盛り

井筒たねが父から聞いた話。井筒梅治郎は、教祖が、いつも台の上に、ジッとお坐りになっているので、御退屈ではあろうまいか、とお察し申し、どこかへ御案内しようと思って、「さぞ御退屈でございましょう。」 と、申し上げると、教祖は、
 「ここへ、一寸顔をつけてごらん。」
と、仰せになって、御自分の片袖を差し出された。それで、梅治郎がその袖に顔をつけると、見渡す限り一面の綺麗な牡丹の花盛りであった。ちょうど、それは牡丹の花の季節であったので、梅治郎は、教祖は、どこのことでも、自由自在にごらんになれるのだなあ、と思って、恐れ入った。

栗の節句

教祖は、ある時、増井りんに、
 「九月九日は、栗の節句と言うているが、栗の節句とは、苦がなくなるということである。栗はイガの剛いものである。そのイガをとれば、中に皮があり、又、渋がある。その皮なり渋をとれば、まことに味のよい実が出て来るで。人間も、理を聞いて、イガや渋をとったら、心にうまい味わいを持つようになるのやで。」
と、お聞かせ下された。

長者屋敷

教祖が、桝井キクにお聞かせ下されたお話に、
 「お屋敷に居る者は、よいもの食べたい、よいもの着たい、よい家に住みたい、と思うたら、居られん屋敷やで。
 よいもの食べたい、よいもの着たい、よい家に住みたい、とさえ思わなかったら、何不自由ない屋敷やで。これが、世界の長者屋敷やで。」
と。

帰って来る子供

教祖が、ある時、喜多治郎吉に、
 「多く寄り来る、帰って来る子供のその中に、荷作りして車に積んで持って行くような者もあるで。又、風呂敷包みにして背負って行く人もあるで。又、破れ風呂敷に一杯入れて提げて行く人もある。うちへかえるまでには、何んにもなくなってしまう輩もあるで。」
と、お聞かせ下された。

あんた方二人で

明治十三、四年、山沢為造が二十四、五才の頃。兄の良蔵と二人で、お屋敷へ帰って来ると、当時、つとめ場所の上段の間にお坐りになっていた教祖は、
 「わしは下へ落ちてもよいから、あんた方二人で、わしを引っ張り下ろしてごらん。」
と、仰せになって、両手を差し出された。
 そこで、二人は、畏れ多く思いながらも、仰せのまにまに、右と左から片方ずつ教祖のお手を引っ張った。しかし、教祖は、キチンとお坐りになったまま、ビクともなさらない。
 それどころか、強く引っ張れば引っ張る程、二人の手が、教祖の方へ引き寄せられた。二人は、今更のように、「人間業ではないなあ。成る程、教祖は神のやしろに坐します。」 と、心に深く感銘した。

さあお上がり

上原佐助は、伯父佐吉夫婦、妹イシと共に、明治十四年五月十四日(陰暦四月十七日)おぢば帰りをして、幸いにも教祖にお目通りさせて頂いた。教祖は、大層お喜び下され、筍と小芋と牛蒡のお煮しめを、御手ずから小皿に盛り分けて下され、更に、月日に雲を描いたお盃に、お神酒を注いで下され、
 「さあ、お上がり。」
と、おすすめ下された。この時、佐助は、三十代の血気盛りであった。
 教祖は、いろいろとお話し下されて後、スッとお手を差し伸べられ、佐助の両手首をお握りになって、
 「振りほどくように。」
 と、仰せられたが、佐助は、全身がしびれるような思いがして、ただ、「恐れ入りました。」 と、平伏するばかりであった。
 妹のイシ(註、後に辻川イシ)が、後年の思い出話に、「その厳かな有様は、とても口には言えません。ハッとして、思わず頭が下がりました。」 と、語っている。
 この時、教祖の温かい親心とお力を、ありありとお見せ頂いて、佐助は、いよいよたすけ一条に進ませて頂こうとの、確固たる信仰を抱くようになった。

ヨイショ

明治十四年、おぢばの東、滝本の村から、かんろだいの石出しが行われた。この石出しは、山から山の麓までは、真明組の井筒梅治郎、山の麓からお屋敷までは、明心組の梅谷四郎兵衞が、御命を頂いていたというが、その時、ちょうど、お屋敷に滞在中の兵庫真明組の上田藤吉以下十数名の一行は、布留からお屋敷までの石引きに参加させて頂いた。
 その石は、九つの車に載せられていたが、その一つが、お屋敷の門まで来た時に、動かなくなってしまった。が、ちょうどその時、教祖が、お居間からお出ましになって、
 「ヨイショ」
と、お声をおかけ下さると、皆も一気に押して、ツーッと入ってしまった。
 一同は、その時の教祖の神々しくも勇ましいお姿に、心から感激した、という。

長々の間

宮森与三郎が、お屋敷の田圃で農作業の最中、教祖から急にお呼び出しがあった。急の事であったので、「何事かしら、」 と、思いながら、野良着のまま、急いで教祖の御前に参上すると、その場で、おさづけの理をお渡し下された。その上、
 「長々の間、御苦労であった。」
と、結構なねぎらいのお言葉を下された。
註 宮森与三郎がおさづけを頂いたのは、明治十四年五月のことである。

南半国

山中こいそが、倉橋村出屋鋪の、山田伊八郎へ嫁入りする時、父の忠七が、この件を教祖にお伺いすると、
「嫁入りさすのやない。南は、とんと道がついてないで、南半国道弘めに出す 。なれども、本人の心次第や。」
と、お言葉があった。親は、あそこは山中だからと懸念したが、こいそは、「神様がああ仰せ下さるのやから、嫁にやらして頂きまする。」と言うて、明治十四年五月三十日(陰暦五月三日)に嫁入った。
すると、この山田家の分家に山本いさという人があって、五年余りも足腰が立たず寝たままであった。こいそは、神様を拝んでは、お水を頂かせる、というふうにしておたすけさせて頂いていたところ、翌年、山中忠七が来た時に、ふしぎなたすけを頂き、足腰がブキブキと音を立てて立ち上がり、一人歩きが出来るようになった。又、同村に、田中ならぎくという娘があって、目が潰れて、七年余り盲目であった。これも、こいそが、神様を拝んでは、神様のお水で目を洗うていたところ、間もなく御守護を頂いた。それで、近村では、いざりの足が立った、盲も目が開いた、と言って、大層な評判になって、こいそを尋ねて来る者が、次から次へと出て来た。

子供には重荷

明治十四年晩春のこと。ここ数年来、歯の根に蜂の巣のように穴があき、骨にとどいて、日夜泣き暮らしていた松井けい(註。当時三十一才)は、たまたま家の前を通りかかった鋳掛屋夫婦のにをいがけで、教えられた通り、茶碗に水を汲んで、
 なむてんりわうのみこと
と唱えて、これを頂くと、忽ち痛みは鎮まり、二、三日のうちに、年来の悩みがすっかり全快する、というふしぎなたすけを頂いた。
 そのお礼詣りに、磯城郡耳成村木原から、三里の道のりを歩いて、おぢばへ帰り、教祖にお目通りした。教祖は、三升の鏡餅を背負うて来た、当時八才の長男忠作に、お目をとめられて、
 「よう、帰って来たなあ。子供には重荷やなあ。」
と、お言葉を下された。
 忠作は、このお言葉を胸に刻んで、生涯忘れず、いかなる中も通り切って、たすけ一条に進ませて頂いた。

大きなたすけ

大和国永原村の岡本重治郎の長男善六と、その妻シナとの間には、七人の子供を授かったが、無事成人させて頂いたのは、長男の栄太郎と、末女のカン(註、後の加見ゆき)の二人で、その間の五人は、あるいは夭折したり流産したりであった。
 明治十二年に、長男栄太郎の熱病をお救け頂いて、善六夫婦の信心は、大きく成人したのであったが、同十四年八月の頃になって、シナにとって一つの難問が出て来た。それは、永原村から約一里ある小路村で六町歩の田地を持つ農家、今田太郎兵衞の家から使いが来て、「長男が生まれましたが、乳が少しも出ないので困っています。何んとか、預かって世話してもらえますまいか。無理な願いではございますが、まげて承知して頂きたい。」 との口上である。
 その頃、あいにくシナの乳は出なくなっていたので、早速引き受けるわけにもゆかず、「お気の毒ですが、引き受けるわけには参りません。」 と、断った。しかし、「そこをどうしても」と言うので、思案に余ったシナは、「それなら、教祖にお伺いしてから。」 と返事して、直ぐ様お屋敷へ向かった。そして、教祖にお目にかかって、お伺いすると、
 「金が何んぼあっても、又、米倉に米を何んぼ積み上げていても、直ぐには子供に与えられん。人の子を預かって育ててやる程の大きなたすけはない。」
と、仰せになった。この時、シナは、「よく分かりました。けれども、私は、もう乳が出ないようになっておりますが、それでもお世話出来ましょうか。」 と、押して伺うと、教祖は、
  「世話さしてもらうという真実の心さえ持っていたら、与えは神の自由で、どんなにでも神が働く。案じることは要らんで。」
とのお言葉である。これを承って、シナは、神様におもたれする心を定め、「お世話さして頂く。」と先方へ返事した。
 すると早速、小路村から子供を連れて来たが、その子を見て驚いた。
八ヵ月の月足らずで生まれて、それまで、重湯や砂糖水でようやく育てられていたためか、生まれて百日余りにもなるというのに、やせ衰えて泣く力もなく、かすかにヒイヒイと声を出していた。
 シナが抱き取って、乳を飲まそうとするが、乳は急に出るものではない。子供は癇を立てて乳首をかむというような事で、この先どうなる事か、と、一時は心配した。
 が、そうしているうちに、二、三日経つと、不思議と乳が出るようになって来た。そのお蔭で、預かり児は、見る見るうちに元気になり、ひきつづいて順調に育った。その後、シナが、丸々と太った預かり児を連れて、お屋敷へ帰らせて頂くと、教祖は、その児をお抱き上げ下されて、
 「シナはん、善い事をしなはったなあ。」
と、おねぎらい下された。シナは、教祖のお言葉にしたがって通るところに、親神様の自由自在をお見せ頂けるのだ、ということを、身に沁みて体験した。シナ二十六才の時のことである。

人が好くから

教祖は、かねてから飯降伊蔵に、早くお屋敷へ帰るよう仰せ下されていたが、当時子供が三人ある上、将来の事を思うと、いろいろ案じられるので、なかなか踏み切れずにいた。
 ところが、やがて二女のマサヱは眼病、一人息子の政甚は俄かに口がきけなくなるというお障りを頂いたので、母親のおさとが教祖にお目にかからせて頂き、「一日も早く帰らせて頂きたいのでございますが、何分櫟本の人達が親切にして下さいますので、それを振り切るわけにもいかず、お言葉を心にかけながらも、一日送りに日を過しているような始末でございます。」 と、申し上げると、教祖は、
 「人が好くから神も好くのやで。人が惜しがる間は神も惜しがる。人の好く間は神も楽しみや。」
と、仰せ下された。おさとは重ねて、「何分子供も小そうございますから、大きくなるまでお待ち下さいませ。」 と、申し上げると、教祖は、
 「子供があるので楽しみや。親ばっかりでは楽しみがない。早よう帰って来いや。」
と、仰せ下されたので、おさとは、「きっと帰らせていただきます。」 とお誓いして帰宅すると、二人の子供は、鮮やかに御守護を頂いていた。かくて、おさとは、夫の伊蔵に先立ち、お救け頂いた二人の子供を連れて、明治十四年九月からお屋敷に住まわせて頂く事となった。

危ないところを

明治十四年晩秋のこと。土佐卯之助は、北海道奥尻島での海難を救けて頂いたお礼に、船が大阪の港に錨を下ろしたその日、おぢばへ帰って来た。そして、かんろだいの前に参拝して、親神様にお礼申し上げると共に、今後の決心をお誓いした。
 嬉しさの余り、お屋敷で先輩の人々に、その時の様子を詳しく話していると、その話に耳を傾けていたある先輩が、話をさえ切って、おい、それは何月何日の何時頃のことではないか。 と言った。日を数えてみると、全く遭難の当日を言いあてられたのであった。その先輩の話によると、
 「その日、教祖は、お居間の北向きの障子を開けられ、おつとめの扇を開いてお立ちになり、北の方に向かって、しばらく、
 『オーイ、オーイ。』
と、誰かをお招きになっていた。それで、不思議なこともあるものだ、と思っていたが、今の話を聞くと、成る程と合点が行った。」 とのことである。 これを聞いて、土佐は、深く感激し、たまらなくなって、教祖の御前に参上して、「ない命をお救け下さいまして、有難うございました。」 と、畳に額をすり付けて、お礼申し上げた。その声は、打ちふるえ、目は涙にかすんで、教祖のお顔もよくは拝めないくらいであった。その時、教祖は、
 「危ないところを、連れて帰ったで。」
と、やさしい声でねぎらいのお言葉を下された。この時、土佐は、長年の船乗り稼業と手を切って、いよいよたすけ一条に進ませて頂こうと、心を定めたのである。

食べ残しの甘酒

教祖にお食事を差し上げる前に、誰かがコッソリと摘まみ喰いでもして置こうものなら、いくら教祖が召し上がろうとなされても、どうしても、箸をお持ちになったお手が上がらないのであった。
 明治十四年のこと。ある日、お屋敷の前へ甘酒屋がやって来た。この甘酒屋は、丹波市から、いつも昼寝起き時分にやって来るのであったが、その日、当時未だ五才のたまへが、それを見て、付添いの村田イヱに、「あの甘酒を買うて、お祖母さんに上げよう。」 と、言ったので、イヱは、早速、それを買い求めて、教祖におすすめした。
 教祖は、孫娘のやさしい心をお喜びになって、甘酒の茶碗をお取り上げになった。
 ところが、教祖が、茶碗を口の方へ持って行かれると、教祖のお手は、そのまま茶碗と共に上の方へ差し上げられて、どうしても、お飲みになる事は出来なかった。
 イヱは、それを見て、「いと、これは、教祖にお上げしてはいけません。」 と言って、茶碗をお返し願った。
 考えてみると、その甘酒は、あちこちで商売して、お屋敷の前へ来た時は、食べ残し同然であったのである。

一代より二代

明治十四年頃、山沢為造が、教祖のお側へ寄せて頂いた時のお話に、
「神様はなあ、『親にいんねんつけて、子の出て来るのを、神が待ち受けている。』 と、仰っしゃりますねで。それで、一代より二代、二代より三代と理が深くなるねで。理が深くなって、末代の理になるのやで。人々の心の理によって、一代の者もあれば、二代三代の者もある。又、末代の者もある。理が続いて、悪いんねんの者でも白いんねんになるねで。」
と、かようなお言葉ぶりで、お聞かせ下さいました。

踊って去ぬのやで

 明治十四年頃、岡本シナが、お屋敷へ帰らせて頂いていると、教祖が、
「シナさん、一しょに風呂へ入ろうかえ。」と、仰せられて、一しょにお風呂へ入れて頂いた。勿体ないやら、有難いやら、それは、忘れられない感激であった。
 その後、幾日か経って、お屋敷へ帰らせて頂くと、教祖が、
「よう、お詣りなされたなあ。さあさあ帯を解いて、着物をお脱ぎ。」と、仰せになるので、何事かと心配しながら、恐る恐る着物を脱ぐと、教祖も同じようにお召物を脱がれ、一番下に召しておられた赤衣のお襦袢を、教祖の温みそのまま、背後からサッと着せて下された。
 その時の勿体なさ、嬉しさ、有難さ、それは、口や筆であらわす事の出来ない感激であった。シナが、そのお襦袢を脱いで丁寧にたたみ、教祖の御前に置くと、教祖は、
「着て去にや。去ぬ時、道々、丹波市の町ん中、着物の上からそれ着て、踊って去ぬのやで。」と、仰せられた。
 シナは、一瞬、驚いた。そして、嬉しさは遠のいて心配が先に立った。「そんなことをすれば、町の人のよい笑いものになる。」また、おぢばに参拝したと言うては警察へ引っ張られた当時の事とて、「今日は、家へは去ぬことが出来ぬかも知れん。」と、思った。ようやく、覚悟を決めて、「先はどうなってもよし。今日は、たとい家へ去ぬことが出来なくてもよい。」と、教祖から頂いた赤衣の襦袢を着物の上から羽織って、夢中で丹波市の町中をてをどりをしながらかえった。
 気がついてみると、町外れへ出ていたが、思いの外、何事も起こらなかった。シナはホッと安心した。そして、赤衣を頂戴した嬉しさと、御命を果たした喜びが一つとなって、二重の強い感激に打たれ、シナは心から御礼申し上げながら、赤衣を押し頂いたのであった。

夫婦揃うて

 梅谷四郎兵衞が、入信して間のない頃、教祖にお目にかかると、
「夫婦揃うて信心しなされや。」と、仰せ下された。早速、妻のタネに、「この道というものは、一人だけではいかぬのだそうであるから、おまえも、ともども信心してくれねばならぬ。」と話したところ、タネも、素直にしたごうた。そこで、先輩に教えられた通り、茶碗に水を入れ、おぢばに向かって、
 なむてんりわうのみこと
と、三遍唱えて、その水を二人で分けて飲み、お誓いのしるしとした。

八町四方

 ある時、教祖は、中南の門屋にあったお居間の南の窓から、竹藪や田圃ばかりの続く外の景色を眺めておられたが、ふと、側の人々に向かい、
「今に、ここら辺り一面に、家が建て詰むのやで。奈良、初瀬七里の間は家が建て続き、一里四方は宿屋で詰まる程に。屋敷の中は、八町四方と成るのやで。」と、仰せ下された。

ちゃんとお茶が

 ある日、立花善吉は、その頃の誰もがそうであったように、大阪から歩いておぢばへ帰って来た。こうして、野を越え山を越え又、野を越えて、十里の道のりを歩いて、ようやく二階堂村まで来た。そこで、もう一辛抱だと思うと、おのずと元気が出て、歩きながら得意の浄瑠璃の一節を、いかにも自分で得心の行くように上手に語った。が、お屋敷に近づくと、それもやめて、間もなく到着した。こうして、教祖にお目にかかると、教祖は、立花を見るなり、
「善吉さん、良い声やったな。おまえさんが帰って来るので、ちゃんとお茶が沸かしてあるで。」と、仰せになった。このお言葉を聞いて、立花は、肌えに粟する程の驚きと、有難い嬉しいという感激に、言葉も出なかった、という。

道の二百里も

 明治十四年の暮、当時、新潟県の農事試験場に勤めていた大和国川東村の鴻田忠三郎が、休暇をもらって帰国してみると、二、三年前から眼病を患っていた二女のりきが、いよいよ悪くなり、医薬の力を尽したが、失明は時間の問題であるという程になっていた。
 家族一同心配しているうちに、年が明けて明治十五年となった。年の初めから、この上は、世に名高い大和国音羽山観世音に願をかけようと、相談していると、その話を聞いた同村の宮森与三郎が、訪ねて来てくれた。宮森は、既に数年前から入信していたのである。早速お願いしてもらったところ、翌朝は、手の指や菓子がウッスラと見えるようになった。
 そこで、音羽山詣りはやめにして、三月五日に、夫婦とりきの三人連れでおぢばへ帰らせて頂き、七日間滞在させて頂いた。その三日目に、妻のさきは、「私の片目を差し上げますから、どうか娘の儀も、片方だけなりとお救け下され。」と、願をかけたところ、その晩から、さきの片目は次第に見えなくなり、その代わりに、娘のりきの片目は、次第によくなって、すっきりお救け頂いた。この不思議なたすけに感泣した忠三郎は、ここに初めて、信心の決心を堅めた。
 そして、お屋敷で勤めさせて頂きたいとの思いと、新潟は当時歩いて十六日かかった上から、県へ辞職願を出したところ、許可はなく、「どうしても帰任せよ。」との厳命である。困り果てた忠三郎が、「如何いたしましょうか。」と、教祖に伺うと、
「道の二百里も橋かけてある。その方一人より渡る者なし。」との仰せであった。
 このお言葉に感激した鴻田は、心の底深くにをいがけ・おたすけを決意して、三月十七日新潟に向かって勇んで出発した。こうして、新潟布教の第一歩は踏み出されたのである。

心の合うたもの

明治十四、五年頃、教祖が、山沢為造にお聞かせ下されたお言葉に、
「神様は、いんねんの者寄せて守護して下さるねで。『寄り合うている者の、心の合うた者同志一しょになって、この屋敷で暮らすねで。』と仰っしゃりますねで。」と。

煙草畑

ある時、教祖は、和泉国の村上幸三郎に、
「幻を見せてやろう。」と、仰せになり、お召しになっている赤衣の袖の内側が、見えるようになされた。幸三郎が、仰せ通り、袖の内側をのぞくと、そこには、我が家の煙草畑に、煙草の葉が、緑の色も濃く生き生きと茂っている姿が見えた。それで幸三郎は、お屋敷から自分の村へもどると、早速煙草畑へ行ってみた。すると、煙草の葉は、教祖の袖の内側で見たのと全く同じように、生き生きと茂っていた。それを見て、幸三郎は、安堵の思いと感謝の喜びに、思わずもひれ伏した。
 というのは、おたすけに専念する余り、田畑の仕事は、作男にまかせきりだった。まかされた作男は、精一杯煙草作りに励み、その、よく茂った様子を一度見てほしい、と言っていたが、おたすけに精進する余り、一度も見に行く暇とてはなかった。が、気にかからない筈はなく、いつも心の片隅に、煙草畑が気がかりになっていた。そういう中からおぢばへ帰らせて頂いた時のことだったのである。幸三郎は、親神様の自由自在の御働きと、子供をおいたわり下さる親心に、今更のように深く感激した。

万劫末代

明治十五年三月二十六日(陰暦二月八日)、飯降伊蔵が、すっかり櫟本を引き払うて、教祖の御許へ帰らせて頂いた時、教祖は、
「これから、一つの世帯、一つの家内と定めて、伏せ込んだ。万劫末代動いてはいかん、動かしてはならん。」と、お言葉を下された。

大阪で婚礼が

明治十五年三月のある日、土佐卯之助は、たすけ一条の信仰に対する養父母の猛烈な反対に苦しみ抜いた揚句、親神様のお鎮まり下さるお社を背負うて、他に何一つ持たず、妻にも知らせず、忽然として、撫養の地から姿を消し、大阪の三軒屋で布教をはじめた。
 家に残して来た妻まさのことを思い出すと、堪らない寂しさを感じることもあったが、おぢばに近くなったのが嬉しく、おぢばへ帰って教祖にお目にかかるのを、何よりの楽しみにしていた。教祖のお膝許に少しでも長く置いて頂くことが、この上もない喜びであったので、思わずも滞在を続けて、その日も暖かい春の日射しを背に受けて、お屋敷で草引きをしていた。
 すると、いつの間にか教祖が背後にお立ちになって、ニッコリほほえみながら、
「早よう大阪へおかえり。大阪では、婚礼があるから。」と、仰せられた。土佐は、「はい。」とお受けしたが、一向に思い当る人はない。謎のような教祖のお言葉を、頭の中で繰り返しながら大阪の下宿へ帰った。すると、新しい女下駄が一足脱いである。妻のまさが来ていたのである。まさは、夫の胸に狂気のようにすがり付き、何も言わずに顔を埋めて泣き入るのであった。やがて、顔を上げたまさは、「私と、もう一度撫養へかえって下さい。お道のために、どんな苦労でもいといません。今までは、私が余りに弱すぎました。今は覚悟が出来ております。両親へは私からよく頼んで、必ずあなたが信心出来るよう、道を開きます。」と、泣いて頼んだ。
 今、国へかえればどうなるか、よく分かっていたので、「情に流れてはならぬ。」と、土佐は、一言も返事をしなかった。
 その時、土佐の脳裡にひらめいたのは、おぢばで聞いた教祖のお言葉である。土佐家への復縁などは、思うてもみなかったが、よく考えてみると、大阪で嫁をもらう花婿とは、この自分であったかと、初めて教祖のお言葉の真意を悟らせて頂くことが出来た。「自分が、国を出て反対攻撃を避けようとした考え方は、根本から間違っていた。もう一度、国へかえって、死ぬ程の苦労も喜んでさせてもらおう。誠真実を尽し切って、それで倒れても本望である。」と、ようやく決心が定まった。

人を救けるのやで

 大和国神戸村の小西定吉は、人の倍も仕事をする程の働き者であったが、ふとした事から胸を病み、医者にも不治と宣告され、世をはかなみながら日を過ごしていた。又、妻イヱも、お産の重い方であったが、その頃二人目の子を妊娠中であった。
 そこへ同村の森本治良平からにをいがかかった。明治十五年三月頃のことである。それで、病身を押して、夫婦揃うておぢばへ帰らせて頂き、妻のイヱがをびや許しを頂いた時、定吉が、「この神様は、をびやだけの神様でございますか。」と、教祖にお伺いした。
 すると、教祖は、
「そうやない。万病救ける神やで。」と、仰せられた。それで、定吉は、「実は、私は胸を病んでいる者でございますが、救けて頂けますか。」と、お尋ねした。すると、教祖は、
「心配要らんで。どんな病も皆御守護頂けるのやで。欲を離れなさいよ。」と、親心溢れるお言葉を頂いた。このお言葉が強く胸に喰い込んで、定吉は、心の中で堅く決意した。家にもどると早速、手許にある限りの現金をまとめて、全部を妻に渡し、自分は離れの一室に閉じこもって、紙に「天理王尊」と書いて床の間に張り、
 なむてんりわうのみこと なむてんりわうのみこと
と、一心に神名を唱えてお願いした。部屋の外へ出るのは、便所へ行く時だけで、朝夕の食事もその部屋へ運ばせて、連日お願いした。すると不思議にも、日ならずして顔色もよくなり、咳も止まり、長い間苦しんでいた病苦から、すっかりお救け頂いた。
 又、妻のイヱも、楽々と男児を安産させて頂いた。早速おぢばへお礼詣りに帰らせて頂き、教祖に心からお礼申し上げると、教祖は、
「心一条に成ったので、救かったのや。」と、仰せられ、大層喜んで下さった。定吉は、「このような嬉しいことはございません。この御恩は、どうして返させて頂けましょうか。」と、伺うと、教祖は、
「人を救けるのやで。」と、仰せられた。それで、「どうしたら、人さんが救かりますか。」と、お尋ねすると、教祖は、
「あんたの救かったことを、人さんに真剣に話さして頂くのやで。」と、仰せられ、コバシ(註、ハッタイ粉に同じ)を二、三合下された。そして、
「これは御供やから、これを、供えたお水で人に飲ますのや。」と、仰せられた。
 そこで、これを頂いて、喜んで家へもどってみると、あちらもこちらも病人だらけである。そこへ、教祖にお教え頂いた通り、御供を持っておたすけに行くと、次から次へと皆救かって、信心する人がふえて来た。

道寄りせずに

 明治十五年春のこと。出産も近い山田こいそが、おぢばへ帰って来た時、教祖は、
「今度はためしやから、お産しておぢばへ帰る時は、大豆越(註、こいその生家山中宅のこと)へもどこへも、道寄りせずに、ここへ直ぐ来るのや。ここがほんとの親里やで。」と、お聞かせ下された。
 それから程なく、五月十日(陰暦三月二十三日)午前八時、家の人達が田圃に出た留守中、山田こいそは、急に産気づいて、どうする暇もなく、自分の前掛けを取り外して畳の上に敷いて、お産をした。ところが、丸々とした女の子と、胎盤、俗にえなというもののみで、何一つよごれものはなく、不思議と綺麗な安産で、昼食に家人が帰宅した時には、綺麗な産着を着せて寝かせてあった。
 お言葉通り、山田夫婦は、出産の翌々日真っ直ぐおぢばへ帰らせて頂いた。
 この日は、前日に大雨が降って、道はぬかるんでいたので、子供は伊八郎が抱き、こいそは高下駄をはいて、大豆越の近くを通ったが、山中宅へも寄らず、三里余りを歩かして頂いたが、下りもの一つなく、身体には障らず、常のままの不思議なおぢば帰りだった。
 教祖は、
「もう、こいそはん来る時分やなあ。」と、お待ち下されていて、大層お喜びになり、赤児をみずからお抱きになった。そして、
「名をつけてあげよ。」と、仰せられ、
「この子の成人するにつれて、道も結構になるばかりや。栄えるばかりやで。それで、いくすえ栄えるというので、いくゑと名付けておくで。」と、御命名下された。

私が見舞いに

 明治十五年六月十八日(陰暦五月三日)教祖は、まつゑの姉にあたる河内国教興寺村の松村さくが、痛風症で悩んでいると聞かれて、
「姉さんの障りなら、私が見舞いに行こう。」と、仰せになり、飯降伊蔵外一名を連れ、赤衣を召し人力車に乗って、国分街道を出かけられた。そして、三日間、松村栄治郎宅に滞在なされたが、その間、さくをみずから手厚くお世話下された。
 ところが、教祖のおいでになっている事を伝え聞いた信者達が、大勢寄り集まって来たので、柏原警察分署から巡査が出張して来て、門の閉鎖を命じ、立番までする有様であった。それでも、多くの信者が寄って来て、門を閉めて置いても、入って来て投銭をした。教祖は、
「出て来る者を、何んぼ止めても止まらぬ。ここは、詣り場所になる。打ち分け場所になるのやで。」と、仰せられた。さくは、教祖にお教え頂いて、三日目におぢばへ帰り、半月余りで、すっきり全快の御守護を頂いた。

間違いのないように

 明治十五年七月、大阪在住の小松駒吉は、導いてもらった泉田籐吉に連れられて、お礼詣りに、初めておぢばへ帰らせて頂いた。コレラの身上をお救け頂いて入信してから、間もない頃である。
 教祖にお目通りさせて頂くと、教祖は、お手ずからお守りを下され、つづいて、次の如く有難いお言葉を下された。
「大阪のような繁華な所から、よう、このような草深い所へ来られた。年は十八、未だ若い。間違いのないように通りなさい。間違いさえなければ、末は何程結構になるや知れないで。」と。駒吉は、このお言葉を自分の一生の守り言葉として、しっかり守って通ったのである。

信心はな

 明治十五年九月中旬(陰暦八月上旬)冨田伝次郎(註、当時四十三才)は、当時十五才の長男米太郎が、胃病再発して、命も危ないということになった時、和田崎町の先輩達によって、親神様にお願いしてもらい、三日の間にふしぎなたすけを頂いた。そのお礼に、生母の藤村じゅん(註、当時七十六才)を伴って、初めておぢば帰りをさせて頂いた。
 やがて、取次に導かれて、教祖にお目通りしたところ、教祖は、
「あんた、どこから詣りなはった。」と、仰せられた。それで、「私は、兵庫から詣りました。」と、申し上げると、教祖は、
「さよか。兵庫なら遠い所、よう詣りなはったなあ。」と、仰せ下され、次いで、
「あんた、家業は何をなさる。」と、お尋ねになった。それで、「はい、私は蒟蒻屋をしております。」と、お答えした。すると、教祖は、
「蒟蒻屋さんなら、商売人やな。商売人なら、高う買うて安う売りなはれや。」と、仰せになった。そして、尚つづいて、
「神さんの信心はな、神さんを、産んでくれた親と同んなじように思いなはれや。そしたら、ほんまの信心が出来ますで。」と、お教え下された。
 ところが、どう考えても、「高う買うて、安う売る。」という意味が分からない。そんな事をすると、損をして、商売が出来ないように思われる。それで、当時お屋敷に居られた先輩に尋ねたところ、先輩から、「問屋から品物を仕入れる時には、問屋を倒さんよう、泣かさんよう、比較的高う買うてやるのや。それを、今度お客さんに売る時には、利を低うして、比較的安う売って上げるのや。そうすると、問屋も立ち、お客も喜ぶ。その理で、自分の店も立つ。これは、決して戻りを喰うて損する事のない、共に栄える理である。」と、諭されて、初めて、「成る程」と、得心がいった。
 この時、お息紙とハッタイ粉の御供を頂いてもどったが、それを生母藤村じゅんに頂かせて、じゅんは、それを三木町の生家へ持ちかえったところ、それによって、ふしぎなたすけが相次いであらわれ、道は、播州一帯に一層広く伸びて行った。

ここは喜ぶ所

 明治十五年秋なかば、宇野善助は、妻と子供と信者親子と七人連れで、おぢばへ帰らせて頂いた。妻美紗が、産後の患いで、もう命がないというところを救けて頂いた、お礼詣りである。
 夜明けの四時に家を出て、歩いたり、巨掠池では舟に乗ったり、次には人力車に乗ったり、歩いたりして、夜の八時頃おぢばへ着いた。翌日、山本利三郎の世話取りで、一同、教祖にお目通りした。一同の感激は、譬えるにものもない程であったが、殊に、長らくの病み患いを救けて頂いた美紗の喜びは一入で、嬉しさの余り、すすり泣きが止まらなかった。すると、教祖は、
「何故、泣くのや。」と、仰せになった。美紗は、尚も泣きじゃくりながら、「生神様にお目にかかれまして、有難うて有難うて、嬉し涙がこぼれました。」と、申し上げた。すると、教祖は、
「おぢばは、泣く所やないで。ここは喜ぶ所や。」と、仰せられた。
 次に、教祖は、善助に向かって、
「三代目は、清水やで。」と、お言葉を下された。善助は、「有難うございます。」とお礼申し上げたが、過分のお言葉に、身の置き所もない程恐縮した。そして、心の奥底深く、「有難いことや。末永うお道のために働かせて頂こう。」と、堅く決心したのである。

蔭膳

 明治十五年十月二十九日(陰暦九月十八日)から十二日間、教祖は奈良監獄署に御苦労下された。
 教祖が、奈良監獄署に御苦労下されている間、梅谷四郎兵衞は、お屋敷に滞在させて頂き、初代真柱をはじめ、先輩の人々と、朝暗いうちから起きて、三里の道を差入れのために奈良へ通っていた。奈良に着く頃に、ようやく空が白みはじめ、九時頃には差入物をお届けして、お屋敷に帰らせてもらう毎日であった。ある時は、監獄署の門内へ黙って入ろうとすると、「挨拶せずに通ったから、かえる事ならん。」と言うて威かされ、同行の三人は、泥の中へ手をついて詫びて、ようやく帰らせてもらった事もあった。お屋敷の入り口では、張番の警官から咎められ、一晩に三遍も警官が替わって取り調べ、毎晩二時間ぐらいより寝る間がない、という有様であった。
 十一月九日(陰暦九月二十九日)、大勢の人々に迎えられ、お元気でお屋敷へお帰りになった教祖は、梅谷をお呼びになり、
「四郎兵衞さん、御苦労やったなあ。お蔭で、ちっともひもじゅうなかったで。」と、仰せられた。
監獄署では、差入物をお届けするだけで、直き直き教祖には一度もお目にかかれなかった。又、誰も自分のことを申し上げているはずはないのに、と、不思議に思えた。
 あたかもその頃、大阪で留守をしていた妻のタネは、教祖の御苦労をしのび、毎日蔭膳を据えて、お給仕させて頂いていたのであった。
 そして、その翌十日から、教祖直き直きにお伺いをしてもよい、というお許しを頂いた。

クサはむさいもの

明治十五年、梅谷タネが、おぢばへ帰らせて頂いた時のこと。当時、赤ん坊であった長女タカ(註、後の春野タカ)を抱いて、教祖にお目通りさせて頂いた。この赤ん坊の頭には、膿を持ったクサが、一面に出来ていた。
教祖は、早速、
「どれ、どれ。」と、仰せになりながら、その赤ん坊を、みずからの手にお抱き下され、そのクサをごらんになって、
「かわいそうに。」と、仰せ下され、自分のお坐りになっている座布団の下から、皺を伸ばすために敷いておられた紙切れを取り出して、少しずつ指でちぎっては唾をつけて、一つ一つベタベタと頭にお貼り下された。そして、
「オタネさん、クサは、むさいものやなあ。」と、仰せられた。タネは、ハッとして、「むさくるしい心を使ってはいけない。いつも綺麗な心で、人様に喜んで頂くようにさせて頂こう。」と、深く悟るところがあった。
それで、教祖に厚く御礼申し上げて、大阪へもどり、二、三日経った朝のこと、ふと気が付くと、綿帽子をかぶったような頭に、クサが、すっきりと、浮き上がっている。あれ程、ジクジクしていたクサも、教祖に貼って頂いた紙に付いて浮き上がり、ちょうど帽子を脱ぐようにして、見事に御守護頂き、頭の地肌には既に薄皮が出来ていた。

登る道は幾筋も

今川清次郎は、長年胃を病んでいた。法華を熱心に信仰し、家に僧侶を請じ、自分もまたいつも祈祷していた。が、それによって、人の病気は救かることはあっても、自分の胃病は少しも治らなかった。そんなある日、近所の竹屋のお内儀から、「お宅は法華に凝っているから、話は聞かれないやろうけれども、結構な神様がありますのや。」と、言われたので、「どういうお話か、一度聞かしてもらおう。」ということになり、お願いしたところ、お道の話を聞かして頂き、三日三夜のお願いで、三十年来の胃病をすっきり御守護頂いた。明治十五年頃のことである。
それで、寺はすっきり断って、一条にこの道を信心させて頂こうと、心を定め、名前も聖次郎と改めた。こうして、おぢばへ帰らせて頂き、教祖にお目通りさせて頂いた時、教祖は、
「あんた、富士山を知っていますか。頂上は一つやけれども、登る道は幾筋もありますで。どの道通って来るのも同じやで。」と、結構なお言葉を頂き、温かい親心に感激した。
 次に、教祖は、
「あんた方、大阪から来なはったか。」と、仰せになり、
「大阪というところは、火事のよくいくところだすなあ。しかし、何んぼ火が燃えて来ても、ここまで来ても、ここで止まるということがありますで。何んで止まるかと言うたら、風が変わりますのや。風が変わるから、火が止まりますのや。」と、御自分の指で線を引いて、お話し下された。
後に、明治二十三年九月五日(陰暦七月二十一日)新町大火の時、立売堀の真明組講社事務所にも猛火が迫って来たが、井筒講元以下一同が、熱誠こめてお願い勤めをしていたところ、裏の板塀が焼け落ちるのをさかいに、突然風向きが変わり、真明組事務所だけが完全に焼け残った。聖次郎は、この時、教祖からお聞かせ頂いたお言葉を、感銘深く思い出したのであった。

ようし、ようし

 ある時、飯降よしゑ(註、後の永尾よしゑ)が、「ちよとはなし、と、よろづよの終りに、何んで、ようし、ようしと言うのですか。」と、伺うと、教祖は、
「ちよとはなし、と、よろづよの仕舞に、ようし、ようしと言うが、これは、どうでも言わなならん。ようし、ようしに、悪い事はないやろ。」と、お聞かせ下された。

魂は生き通し

教祖は、参拝人のない時は、お居間に一人でおいでになるのが常であった。そんな時は、よく、反故の紙の皺を伸ばしたり、御供を入れる袋を折ったりなされていた。
 お側の者が、「お一人で、お寂しゅうございましょう。」と、申し上げると、教祖は、
「こかんや秀司が来てくれるから、少しも寂しいことはないで。」と、仰せられるのであった。
 又、教祖がお居間に一人でおいでになるのに、時々、誰かとお話になっているようなお声が、聞こえることもあった。
 又、ある夜遅く、お側に仕える梶本ひさに、
「秀司やこかんが、遠方から帰って来たので、こんなに足がねまった。一つ、揉んでんか。」と、仰せになったこともある。
 又、ある時、味醂を召し上がっていたが、三杯お口にされて、
「正善、玉姫も、一しょに飲んでいるのや。」と、仰せられたこともあった。

朝、起こされるのと

教祖が、飯降よしゑにお聞かせ下されたお話に、
「朝起き、正直、働き。朝、起こされるのと、人を起こすのとでは、大きく徳、不徳に分かれるで。蔭でよく働き、人を褒めるは正直。聞いて行わないのはその身が嘘になるで。もう少し、もう少しと、働いた上に働くのは、欲ではなく、真実の働きやで。」と。

一に愛想

教祖が、ある日、飯降よしゑにお聞かせ下された。
「よっしゃんえ、女はな、一に愛想と言うてな、何事にも、はいと言うて、明るい返事をするのが、第一やで。」又、
「人間の反故を、作らんようにしておくれ。」「菜の葉一枚でも、粗末にせぬように。」「すたりもの身につくで。いやしいのと違う。」と。

子守歌

 教祖は、時々次のような子守歌をお歌いになっていた、という。
一、弁慶は、有馬の国で育てられ、三つの上は四つ五つ、七つ道具を背に負い、五条の橋にと急がれる。二、甚二郎兵衞は、手盥持って、釣瓶で水を汲んで、手水使うて、神さん拝んで、シャンシャン。 梶本宗太郎が、二十代の時に、山沢ひさから聞いたものである。

よう苦労して来た

泉田籐吉は、ある時、十三峠で、三人の追剥に出遭うた。その時、頭にひらめいたのは、かねてからお仕込み頂いているかしもの・かりものの理であった。それで、言われるままに、羽織も着物も皆脱いで、財布までその上に載せて、大地に正座して、「どうぞ、お持ちかえり下さい。」と言って、頭を上げると、三人の追剥は、影も形もない。
 余りの素直さに、薄気味悪くなって、一物も取らずに行き過ぎてしもうたのであった。そこで、泉田は、又、着物を着て、おぢばへ到着し、教祖にお目通りすると、教祖は、
「よう苦労して来た。内々折り合うたから、あしきはらひのさづけを渡す。受け取れ。」と、仰せになって、結構なさづけの理をお渡し下された。

おたすけを一条に

真明組周旋方の立花善吉は、明治十三年四、五月頃(陰暦三月)自分のソコヒを、つづいて、父の疝気をお救け頂いて入信。以来数年間、熱心に東奔西走しておたすけに精を出していたが、不思議なことに、おたすけにさえ出ていれば、自分の身体も至って健康であるが、出ないでいると、何んとなく気分がすぐれない。ある時、このことを教祖に申し上げて、「何故でございましょうか。」と、伺うと、教祖は、
「あんたは、これからおたすけを一条に勤めるのやで。世界の事は何も心にかけず、世界の事は何知らいでもよい。道は、辛抱と苦労やで。」と、お聞かせ下された。善吉は、このお言葉を自分の生命として寸時も忘れず、一層たすけ一条に奔走させて頂いたのである。

自分一人で

教祖のお話を聞かせてもらうのに、「一つ、お話を聞かしてもらいに行こうやないか。」などと、居合せた人々が、二、三人連れを誘うて行くと、教祖は、決して快くお話し下さらないのが、常であった。
「真実に聞かしてもらう気なら、人を相手にせずに、自分一人で、本心から聞かしてもらいにおいで。」と、仰せられ、一人で伺うと、諄々とお話をお聞かせ下され、尚その上に、
「何んでも、分からんところがあれば、お尋ね。」と、仰せ下され、いともねんごろにお仕込み下された。

父母に連れられて

明治十五、六年頃のこと。梅谷四郎兵衞が、当時五、六才の梅次郎を連れて、お屋敷へ帰らせて頂いたところ、梅次郎は、赤衣を召された教祖にお目にかかって、当時煙草屋の看板に描いていた姫達磨を思い出したものか、「達摩はん、達摩はん。」と言った。
 それに恐縮した四郎兵衞は、次にお屋敷へ帰らせて頂く時、梅次郎を同伴しなかったところ、教祖は、
「梅次郎さんは、どうしました。道切れるで。」と、仰せられた。
 このお言葉を頂いてから、梅次郎は、毎度、父母に連れられて、心楽しくお屋敷へ帰らせて頂いた、という。

神の方には

 明治十六年二月十日(陰暦正月三日)、諸井国三郎が、初めておぢばへ帰って、教祖にお目通りさせて頂くと、
「こうして、手を出してごらん。」と、仰せになって、掌を畳に付けてお見せになる。それで、その通りにすると、中指と薬指とを中へ曲げ、人差指と小指とで、諸井の手の甲の皮を挾んで、お上げになる。そして、
「引っ張って、取りなされ。」と、仰せになるから、引っ張ってみるが、自分の手の皮が痛いばかりで、離れない。そこで、「恐れ入りました。」と、申し上げると、今度は、
「私の手を持ってごらん。」と、仰せになって、御自分の手首をお握らせになる。そうして、教祖もまた諸井の手をお握りになって、両方の手と手を掴み合わせると、
「しっかり力を入れて握りや。」と、仰せになる。そして、
「しかし、私が痛いと言うたら、やめてくれるのやで。」と、仰せられた。それで、一生懸命に力を入れて握ると、力を入れれば入れる程、自分の手が痛くなる。教祖は、
「もっと力はないのかえ。」と、仰っしゃるが、力を出せば出す程、自分の手が痛くなるので、「恐れ入りました。」と、申し上げると、教祖は、手の力をおゆるめになって、
「それきり、力は出ないのかえ。神の方には倍の力や。」と、仰せられた。

遠方から子供が

 明治十六年四、五月頃(陰暦三月)のある日、一人の信者が餅を供えに来た。それで、お側の者が、これを教祖のお目にかけると、教祖は、
「今日は、遠方から帰って来る子供があるから、それに分けてやっておくれ。」と、仰せられた。お側の人々は、一体誰が帰って来るのだろうか、と思いながら、お言葉通りに、その餅を残して置いた。
 すると、その日の夕方になって、遠州へ布教に行っていた高井、宮森、井筒、立花の四人が帰って来た。
 しかも、話を聞くと、この四人は、その日の昼頃、伊賀上野へ着いたので、中食にしようか、とも思ったが、少しでも早くおぢばへ帰らせて頂こうと、辛抱して来たので、足の疲れもさる事ながら、お腹は、たまらなく空いていた。
 この四人が、教祖の親心こもるお餅を頂いて、有難涙にむせんだのは言うまでもない。

千に一つも

 明治十六年の春頃、山沢為造の左の耳が、大層腫れた時に、教祖から、
「伏せ込み、伏せ込みという。伏せ込みが、いつの事のように思うている。つい見えて来るで。これを、よう聞き分け。」との言葉を聞かせて頂いた。又、
「神が、一度言うて置いた事は、千に一つも違わんで。言うて置いた通りの道になって来るねで。」と、聞かせて頂いた。それで、先に父の身上からお聞かせ頂いたお言葉を思い起こし、父の信仰を受けつがねばならぬと、堅く心に決めていたところ、母なり兄から、「早く身の決まりをつけよ。」とすすめられ、この旨を申し上げてお伺いすると、教祖は、
「これより向こう満三年の間、内の兄を神と思うて働きなされ。然らば、こちらへ来て働いた理に受け取る。」と、お聞かせ下された。

いとに着物を

 明治十六年六月初(陰暦四月末)、山田伊八郎、とその妻こいそは、長女いくゑを連れて、いくゑ誕生満一年のお礼詣りに、お屋敷へ帰らせて頂いた。すると、教祖は、大層お喜び下され、この時、
「いとに着物をして上げておくれ。」と、仰せられ、赤衣を一着賜わった。
 これを頂いてかえって、こいそは、六月の末(陰暦五月下旬)に、その赤衣の両袖を外して、いくゑの着物の肩布と、袖と、紐にして仕立て、その着初めに、又、お屋敷へお礼詣りをさせて頂いた。
 その日は、村田長平が、藁葺きの家を建てて、豆腐屋をはじめてから、三日目であった。教祖は、
「一度、豆腐屋の井戸を見に行こうと思うておれど、一人で行くわけにも行かず、倉橋のいとでも来てくれたらと思うていましたが、ちょうど思う通り来て下されて。」と、仰せられ、いくゑを背負うて、井戸を見においでになった。
 教祖は、大人だけでなく、いつ、どこの子供にでも、このように丁寧に仰せになったのである。そして、帰って来られると、
「お陰で、見せてもろうて来ました。」と、仰せられた。
 この赤衣の胴は、おめどとしてお社にお祀りさせて頂いたのである。

理さえあるならば

 明治十六年夏、大和一帯は大旱魃であった。桝井伊三郎は、未だ伊豆七条村で農家をしていたが、連日お屋敷へ詰めて、農作業のお手伝いをしていた。すると、家から使いが来て、「村では、田の水かいで忙しいことや。村中一人残らず出ているのに、伊三郎さんは、一寸も見えん、と言うて喧しいことや。一寸かえって来て、顔を見せてもらいたい。」と言うて、呼びに来た。伊三郎は、かねてから、「我が田は、どうなっても構わん。」と覚悟していたので、「せっかくやが、かえられん。」と、アッサリ返事して、使いの者をかえした。が、その後で、思案した。「この大旱魃に、お屋敷へたとい一杯の水でも入れさせてもらえば、こんな結構なことはない、と、自分は満足している。しかし、そのために、隣近所の者に不足さしていては、申し訳ない。」と。そこで、「ああ言うて返事はしたが、一度顔を見せて来よう。」と思い定め、教祖の御前へ御挨拶のために参上した。すると、教祖は、
「上から雨が降らいでも、理さえあるならば、下からでも水気を上げてやろう。」と、お言葉を下された。
 こうして、村へもどってみると、村中は、野井戸の水かいで、昼夜兼行の大騒動である。伊三郎は、女房のおさめと共に田へ出て、夜おそくまで水かいをした。しかし、その水は、一滴も我が田へは入れず、人様の田ばかりへ入れた。
 そしておさめは、かんろだいの近くの水溜まりから、水を頂いて、それに我が家の水をまぜて、朝夕一度ずつ、日に二度、藁しべで我が田の周囲へ置いて廻わった。
 こうして数日後、夜の明けきらぬうちに、おさめが、我が田は、どうなっているかと、見廻わりに行くと、不思議なことには、水一杯入れた覚えのない我が田一面に、地中から水気が浮き上がっていた。おさめは、改めて、教祖のお言葉を思い出し、成る程仰せ通り間違いはない、と、深く心に感銘した。
 その年の秋は、村中は不作であったのに、桝井の家では、段に一石六斗という収穫をお与え頂いたのである。

人がめどか

 教祖は、入信後間もない梅谷四郎兵衞に、
「やさしい心になりなされや。人を救けなされや。癖、性分を取りなされや。」と、お諭し下された。生来、四郎兵衞は気の短い方であった。
 明治十六年、折から普請中の御休息所の壁塗りひのきしんをさせて頂いていたが、「大阪の食い詰め左官が、大和三界まで仕事に来て。」との陰口を聞いて、激しい憤りから、深夜、ひそかに荷物を取りまとめて、大阪へもどろうとした。
 足音をしのばせて、中南の門屋を出ようとした時、教祖の咳払いが聞えた。「あ、教祖が。」と思ったとたんに足は止まり、腹立ちも消え去ってしまった。
 翌朝、お屋敷の人々と共に、御飯を頂戴しているところへ、教祖がお出ましになり、
「四郎兵衞さん、人がめどか、神がめどか。神さんめどやで。」と、仰せ下された。

鉋屑の紐

 明治十六年、御休息所普請中のこと。梶本ひさは、夜々に教祖から裁縫を教えて頂いていた。
 ある夜、一寸角程の小布を縫い合わせて、袋を作ることをお教え頂いて、袋が出来たが、さて、この袋に通す紐がない。「どうしようか。」と思っていると、教祖は、
「おひさや、あの鉋屑を取っておいで。」と、仰せられたので、その鉋屑を拾うて来ると、教祖は、早速、器用に、それを三つ組の紐に編んで、袋の口にお通し下された。
 教祖は、こういう巾着を持って、櫟本の梶本の家へ、チョイチョイお越しになった。その度に、家の子にも、近所の子にもやるように、お菓子を袋に入れて持って来て下さる。その巾着の端布には、赤いのも、黄色いのもあった。
 そして、その紐は鉋屑で、それも、三つ組もあり、スーッと紙のように薄く削った鉋屑を、コヨリにして紐にしたものもあった。

先が見えんのや

 中山コヨシが、夫重吉のお人好しを頼りなく思い、生家へかえろうと決心した途端、目が見えなくなった。
 それで、飯降おさとを通して伺うてもらうと、教祖は、
「コヨシはなあ、先が見えんのや。そこを、よう諭してやっておくれ。」と、お言葉を下された。
 これを承って、コヨシは、申し訳なさに、泣けるだけ泣いてお詫びした途端に、目が、又元通りハッキリ見えるようになった。

講社のめどに

 明治十六年十一月(陰暦十月)御休息所が落成し、教祖は、十一月二十五日(陰暦十月二十六日)の真夜中にお移り下されたので、梅谷四郎兵衞は、道具も方付け、明日は大阪へかえろうと思って、二十六日夜、小二階で床についた。すると、仲田儀三郎が、緋縮緬の半襦袢を三方に載せて、「この間中は御苦労であった。教祖は、『これを、明心組の講社のめどに』下さる、とのお言葉であるから、有難く頂戴するように。」とのことである。すると間もなく、山本利三郎が、赤衣を恭々しく捧げて、「『これは着古しやけれど、子供等の着物にでも、仕立て直してやってくれ。』との教祖のお言葉である。」と、唐縮緬の単衣を差し出した。重ね重ねの面目に、「結構なことじゃ、ああ忝ない。」と、手を出して頂戴しようとしたところで、目が覚めた。それは夢であった。
 こうなると目が冴えて、再び眠ることが出来ない。とかくするうちに夜も明けた。身支度をし、朝食も頂いて休憩していると、仲田が赤衣を捧げてやって来た。
 「『これは、明心組の講社のめどに』下さる、との教祖のお言葉である。」
と、昨夜の夢をそのままに告げた。はて、不思議な事じゃと思いながら、有難く頂戴した。すると、今度は、山本が入って来た。そして、これも昨夜の夢と符節を合わす如く、
 「『着古しじゃけれど、子供にやってくれ。』と、教祖が仰せ下された。」
と、赤地唐縮緬の単衣を眼前に置いた。それで、有難く頂戴すると、次は、梶本ひさが、上が赤で下が白の五升の重ね餅を持って来て、
 「教祖が、『子供達に上げてくれ。』と、仰せられます。」
と、伝えた。四郎兵衞は、教祖の重ね重ねの親心を、心の奥底深く感銘すると共に、昨夜の夢と思い合わせて、全く不思議な親神様のお働きに、いつまでも忘れられない強い感激を覚えた。

東京々々、長崎

 明治十六年秋、上原佐助は、おぢばへ帰って、教祖にお目通りさせて頂いた。この時はからずも、教祖から、
「東京々々、長崎。」というお言葉を頂き、赤衣を頂戴した。
 この感激から、深く決意するところがあって、後日、佐助は家をたたんで、単身、赤衣を奉戴して、東京布教に出発したのである。

教祖のお居間

 教祖は、明治十六年までは、中南の門屋の西側、即ち向かって左の十畳のお部屋に、御起居なさっていた。そのお部屋には、窓の所に、三畳程の台が置いてあって、その上に坐っておられたのである。その台は、二尺五寸程の高さで、その下は物入れになっていた。子供連れでお伺いすると、よく、そこからお菓子などを出して、子供に下された。
 明治十六年以後は、御休息所にお住まい下された。それは、四畳と八畳の二間になっていて、四畳の方が一段と高くなっており、教祖は、この四畳にお住まいになっていた。御休息所の建った当時、人々は、大きなお居間が出来て嬉しい、と語り合った、という。

花疥癬のおたすけ

 明治十六年、今川聖次郎の長女ヤス九才の時、疥癬にかかり、しかも花疥癬と言うて膿を持つものであった。親に連れられておぢばへ帰り、教祖の御前に出さして頂いたら、
「こっちへおいで。」と、仰っしゃった。恐る恐る御前に進むと、
「もっとこっち、もっとこっち。」と、仰っしゃるので、とうとうお膝元まで進まして頂いたら、お口で御自分のお手をお湿しになり、そのお手で全身を、
なむてんりわうのみこと なむてんりわうのみことなむてんりわうのみことと、三回お撫で下され、つづいて、又、三度、又、三度とお撫で下された。ヤスは、子供心にも、勿体なくて勿体なくて、胴身に沁みた。
 翌日、起きて見たら、これは不思議、さしもの疥癬も、後跡もなく治ってしまっていた。ヤスは、子供心にも、「本当に不思議な神様や。」と思った。
 ヤスの、こんな汚いものを、少しもおいといなさらない大きなお慈悲に対する感激は、成長するに従い、ますます強まり、よふぼくとして御用を勤めさして頂く上に、いつも心に思い浮かべて、なんでも教祖のお慈悲にお応えさして頂けるようにと思って、勤めさして頂いた、という。

小さな埃は

 明治十六年頃のこと。教祖から御命を頂いて、当時二十代の高井直吉は、お屋敷から南三里程の所へ、おたすけに出させて頂いた。身上患いについてお諭しをしていると、先方は、「わしはな、未だかつて悪い事をした覚えはないのや。」と、剣もホロロに喰ってかかって来た。高井は「私は、未だ、その事について、教祖に何も聞かせて頂いておりませんので、今直ぐ帰って、教祖にお伺いして参ります。」と言って、三里の道を走って帰って、教祖にお伺いした。すると、教祖は、
「それはな、どんな新建ちの家でもな、しかも、中に入らんように隙間に目張りしてあってもな、十日も二十日も掃除せなんだら、畳の上に字が書ける程の埃が積もるのやで。鏡にシミあるやろ。大きな埃やったら目につくよってに、掃除するやろ。小さな埃は、目につかんよってに、放って置くやろ。その小さな埃が沁み込んで、鏡にシミが出来るのやで。その話をしておやり。」と、仰せ下された。高井は、「有難うございました。」とお礼申し上げ、直ぐと三里の道のりを取って返して、先方の人に、「ただ今、こういうように聞かせて頂きました。」と、お取次ぎした。すると、先方は、「よく分かりました。悪い事言って済まなんだ。」と、詫びを入れて、それから信心するようになり、身上の患いは、すっきりと御守護頂いた。

神の方には

 教祖は、お屋敷に勤めている高井直吉や宮森与三郎などの若い者に、
「力試しをしよう。」と、仰せられ、御自分の腕を、
「力限り押さえてみよ。」と、仰せられた。けれども、どうしても押さえ切ることは出来ないばかりか、教祖が、すこし力を入れて、こちらの腕をお握りになると、腕がしびれて、力が抜けてしまう。すると、
「神の方には倍の力や。」と、仰せになった。又、
「こんな事出来るかえ。」と、仰せになって、人差指と小指とで、こちらの手の甲の皮を、お摘まみ上げになると、非常に痛くて、その跡は、色が青く変わるくらい力が入っていた。
 又、背中の真ん中で、胸で手を合わすように、正しく合掌なされたこともあった。
 これは、宮森の思い出話である。

おいしいと言うて

 仲田、山本、高井など、お屋敷で勤めている人々が、時々、近所の小川へ行って雑魚取りをする。そして、泥鰌、モロコ、エビなどをとって来る。そして、それを甘煮にして教祖のお目にかけると、教祖は、その中の一番大きそうなのをお取り出しになって、子供にでも言うて聞かせるように、
「皆んなに、おいしいと言うて食べてもろうて、今度は出世しておいでや。」と、仰せられ、それから、お側に居る人々に、
「こうして、一番大きなものに得心さしたなら、後は皆、得心する道理やろ。」と、仰せになり、更に又、
「皆んなも、食べる時には、おいしい、おいしいと言うてやっておくれ。人間に、おいしいと言うて食べてもろうたら、喜ばれた理で、今度は出世して、生まれ替わる度毎に、人間の方へ近うなって来るのやで。」と、お教え下された。
 各地の講社から、兎、雉子、山鳥などが供えられて来た時も、これと同じように仰せられた、という。

先を永く

 明治十六年頃、山沢為造にお聞かせ下されたお話に、
「先を短こう思うたら、急がんならん。けれども、先を永く思えば、急ぐ事要らん。」「早いが早いにならん。遅いが遅いにならん。」「たんのうは誠。」と。

思い出

 明治十六、七年頃のこと。孫のたまへと、二つ年下の曽孫のモトの二人で、「お祖母ちゃん、およつおくれ。」と言うて、せがみに行くと、教祖は、お手を眉のあたりにかざして、こちらをごらんになりながら、
「ああ、たまさんとオモトか、一寸待ちや。」と、仰っしゃって、お坐りになっている背後の袋戸棚から出して、二人の掌に載せて下さるのが、いつも金米糖であった。
 又、ある日のこと、例によって二人で遊びに行くと、教祖は、
「たまさんとオモトと、二人おいで。さあ負うたろ。」と、仰せになって、二人一しょに、教祖の背中におんぶして下さった。二人は、子供心に、「お祖母ちゃん、力あるなあ。」と感心した、という。

皆丸い心で

 明治十六、七年頃の話。久保小三郎が、子供の楢治郎の眼病を救けて頂いて、お礼詣りに、妻子を連れておぢばへ帰らせて頂いた時のことである。
 教祖は、赤衣を召してお居間に端座して居られた。取次に導かれて御前へ出た小三郎夫婦は、畏れ多さに、頭も上げられない程恐縮していた。
 しかし、楢治郎は、当時七、八才の子供のこととて、気がねもなくあたりを見廻していると、教祖の側らに置いてあった葡萄が目に付いた。それで、その葡萄をジッと見詰めていると、教祖は、静かにその一房をお手になされて、
「よう帰って来なはったなあ。これを上げましょう。世界は、この葡萄のようになあ、皆、丸い心で、つながり合うて行くのやで。この道は、先永う楽しんで通る道や程に。」と、仰せになって、それを楢治郎に下された。

さあ、これを持って

 教祖が、監獄署からお帰りになった時、お伴をして帰って来た仲田儀三郎に、監獄署でお召しになっていた、赤い襦袢を脱いでお与えになって、
「さあ、これを持っておたすけに行きなされ。どんな病人も救かるで。」と、お言葉を下された。
 儀三郎は、大層喜び、この赤衣を風呂敷に包んで、身体にしっかりと巻き付け、おたすけに東奔西走させて頂いた。そして、
なむてんりわうのみこと なむてんりわうのみことと、唱えながら、その赤衣で病人の患うているところを擦すると、どんな重病人も、忽ちにして御守護を頂いた。

言葉一つ

 教祖が、桝井伊三郎にお聞かせ下されたのに、
「内で良くて外で悪い人もあり、内で悪く外で良い人もあるが、腹を立てる、気儘癇癪は悪い。言葉一つが肝心。吐く息引く息一つの加減で内々治まる。」と。又、
「伊三郎さん、あんたは、外ではなかなかやさしい人付き合いの良い人であるが、我が家にかえって、女房の顔を見てガミガミ腹を立てて叱ることは、これは一番いかんことやで。それだけは、今後決してせんように。」と、仰せになった。
 桝井は、女房が告口をしたのかしら、と思ったが、いやいや神様は見抜き見通しであらせられる、と思い返して、今後は一切腹を立てません、と心を定めた。すると不思議にも、家へかえって女房に何を言われても、一寸も腹が立たぬようになった。

物は大切に

 教祖は、十数度も御苦労下されたが、仲田儀三郎も、数度お伴させて頂いた。
 そのうちのある時、教祖は、反故になった罫紙を差し入れてもらってコヨリを作り、それで、一升瓶を入れる網袋をお作りになった。それは、実に丈夫な上手に作られた袋であった。教祖は、それを、監獄署を出てお帰りの際、仲田にお与えになった。そして、
「物は大切にしなされや。生かして使いなされや。すべてが、神様からのお与えものやで。さあ、家の宝にしときなされ。」と、お言葉を下された。

フラフを立てて

 明治十七年一月二十一日(陰暦 前年十二月二十四日)諸井国三郎は、第三回目のおぢば帰りを志し、同行十名と共に出発し、二十二日に豊橋へ着いた。船の出るのが夕方であったので、町中を歩いていると、一軒の提灯屋が目についた。そこで、思い付いて、大幅の天竺木綿を四尺程買い求め、提灯屋に頼んで旗を作らせた。
 その旗は、白地の中央に日の丸を描き、その中に、天輪王講社、と大きく墨書し、その左下に小さく遠江真明組と書いたものであった。一行は、この旗を先頭に立てて、伊勢湾を渡り、泊まりを重ねて、二十六日、丹波市の扇屋庄兵衞方に一泊した。
 翌二十七日朝、六台の人力車を連らね、その先頭の一人乗りにはこの旗を立てて諸井が、つづく五台は、いずれも二人乗りで二人ずつ乗っていた。
 お屋敷の表門通りへ来ると、一人の巡査が、見張りに立っていて、いろいろと訊問したが、返答が明瞭であったため、住所姓名を控えられただけですんだ。
 お屋敷へ到着してみると、教祖が、数日前から、
「ああ、だるいだるい。遠方から子供が来るで。ああ、見える、見える。フラフを立てて来るで。」と、仰せになっていたので、お側の人々は、何んの事かと思っていたが、この旗を見るに及んで、成る程、教祖には、ごらんになる前から、この旗が見えていたのであるなあ、と感じ入った、という。

おおきに

 紺谷久平は、失明をお救け頂いて、そのお礼詣りに、初めておぢばへ帰らせて頂き、明治十七年二月十六日(陰暦正月二十日)朝、村田幸右衞門に連れられて、妻のたけと共に、初めて、教祖にお目通りさせて頂いた。その時、たけが、お供を紙ひねりにして、教祖に差し上げると、教祖は、
「播州のおたけさんかえ。」と、仰せになり、そのお供を頂くようになされて、
「おおきに。」と、礼を言うて下された。後年、たけが人に語ったのに、「その時、あんなに喜んで下されるのなら、もっと沢山包ませて頂いて置けばよかったのに、と思った。」という。

ふしから芽が切る

 明治十七年三月上旬、明誠社を退社した深谷源次郎は、宇野善助と共に、斯道会講結びのお許しを頂くために、おぢばへ帰った。夕刻に京都を出発、奈良へ着いたのは午前二時頃。未明お屋敷へ到着、山本利三郎の取扱いで、教祖にお目通りしてお許しを願った。すると、
「さあさあ尋ね出る、尋ね出る。さあさあよく聞き分けにゃならん。さあさあこのぢばとても、四十八年がこの間、膿んだり潰れたり、膿んだりという事は。潰れたりという事は。又、潰しに来る。又、ふしあって芽、ふしから芽が切る。この理を、よう聞き分けてくれ。だんだんだんだんこれまで苦労艱難してきた道や。よう聞き分けよ、という。」とのお言葉であった。未だ、はっきりしたお許しとは言えない。そこで、深谷と宇野は、「我々五名の者は、どうなりましても、あくまで神様のお伴を致しますから、」と申し上げて、重ねてお許しを願った。すると、
「さあさあさあ真実受け取った、受け取った。斯道会の種は、さあさあ今日よりさあさあ埋んだ。さあさあこれからどれだけ大きなるとも分からん。さあさあ講社の者にも一度聞かしてやるがよい。それで聞かねば、神が見ている。放うとけ、という。」と、お許し下され、深谷、宇野、沢田、安良、中西、以上五名の真実は、親神様にお受け取り頂いたのである。

狭いのが楽しみ

 深谷源次郎が、なんでもどうでもこの結構な教を弘めさせて頂かねば、と、ますます勇んであちらこちらとにをいがけにおたすけにと歩かせて頂いていた頃の話。当時、源次郎は、もう着物はない、炭はない、親神様のお働きを見せて頂かねば、その日食べるものもない、という中を、心を倒しもせずに運ばして頂いていると、教祖はいつも、
「狭いのが楽しみやで。小さいからというて不足にしてはいかん。小さいものから理が積もって大きいなるのや。松の木でも、小さい時があるのやで。小さいのを楽しんでくれ。末で大きい芽が吹くで。」と、仰せ下された。

子供可愛い

 深谷源次郎は、一寸でも分からない事があると、直ぐ教祖にお伺いした。ある時、取次を通して伺うてもろうたところ、
「一年経ったら一年の理、二年経ったら二年の理、三年経てば親となる。親となれば、子供が可愛い。なんでもどうでも子供を可愛がってやってくれ。子供を憎むようではいかん。」と、お諭し下された。
 源次郎は、このお言葉を頂いて、一層心から信者を大事にして通った。お祭日に信者がかえって来ると、すしを拵えたり餅を搗いたり、そのような事は何んでもない事であるが、真心を尽して、ボツボツと信者を育て上げたのである。

天に届く理

 教祖は、明治十七年三月二十四日(陰暦二月二十七日)から四月五日(陰暦三月十日)まで奈良監獄署へ御苦労下された。鴻田忠三郎も十日間入牢拘禁された。その間、忠三郎は、獄吏から便所掃除を命ぜられた。忠三郎が掃除を終えて、教祖の御前にもどると、教祖は、
「鴻田はん、こんな所へ連れて来て、便所のようなむさい所の掃除をさされて、あんたは、どう思うたかえ。」と、お尋ね下されたので、「何をさせて頂いても、神様の御用向きを勤めさせて頂くと思えば、実に結構でございます。」と申し上げると、教祖の仰せ下さるには、
「そうそう、どんな辛い事や嫌なことでも、結構と思うてすれば、天に届く理、神様受け取り下さる理は、結構に変えて下さる。なれども、えらい仕事、しんどい仕事を何んぼしても、ああ辛いなあ、ああ嫌やなあ、と、不足々々でしては、天に届く理は不足になるのやで。」と、お諭し下された。

いつも住みよい所へ

 明治十七年二月のこと。増野正兵衞の妻いとは、親しい間柄の神戸三宮の小山弥左衞門の娘お蝶を訪ねたところ、お蝶から、「天理王命様は、まことに霊験のあらたかな神様である。」と聞いた。
 当時いとは、三年越しのソコヒを患うており、何人もの名医にかかったが、如何とも為すすべはなく、今はただ失明を待つばかり、という状態であった。又、正兵衞自身も、ここ十数年来脚気などの病に悩まされ、医薬の手を尽しながら、尚全快せず、曇天のような日々を送っていた。
 それで、それなら一つ、話を聞いてみよう。ということになった。そこで、早速使いを走らせ、二月十五日、初めて、小山弥左衞門から、お話を聞かせてもらうこととなった。
 急いで神床を設け神様をお祀りして、夫婦揃うてお話を聞かせて頂いた。その時の話に、「身上の患いは、八つのほこりのあらわれである。これをさんげすれば、身上は必ずお救け下さるに違いない。真実誠の心になって、神様にもたれなさい。」又、「食物は皆、親神様のお与えであるから、毒になるものは一つもない。」と。そこで、病気のためここ数年来やめていた好きな酒であるが、その日のお神酒を頂いて試してみた。ところが、翌朝は、頗る爽快である。一方、いとの目も、一夜のうちに白黒が分かるようになった。
 それで、夫婦揃うて、神様にお礼申し上げ、小山宅へも行ってこの喜びを告げ、帰宅してみると、こは如何に、日暮も待たず、又、盲目同様になった。
 その時、夫婦が相談したのに、「一夜の間に、神様の自由をお見せ頂いたのであるから、生涯道の上に夫婦が心を揃えて働かせて頂く、と心を定めたなら、必ずお救け頂けるに違いない。」と語り合い、夫婦心を合わせて、熱心に朝夕神前にお勤めして、心をこめてお願いした。すると、正兵衞は十五日間、いとは三十日間で、すっきり御守護頂いた。ソコヒの目は、元通りよく見えるようになったのである。
 その喜びに、四月六日(陰暦三月十一日)、初めておぢばへお詣りした。しかも、その日は、教祖が奈良監獄署からお帰りの日であったので、奈良までお迎えしてお伴して帰り、九日まで滞在させて頂いた。教祖は、
「正兵衞さん、よう訪ねてくれた。いずれはこの屋敷へ来んならんで。」と、やさしくお言葉を下された。このお言葉に強く感激した正兵衞は、商売も放って置かんばかりにして、おぢばと神戸の間を往復して、にをいがけ・おたすけに奔走した。が、おぢばを離れると、どういうものか、身体の調子が良くない。そこで伺うと、教祖は、
「いつも住みよい所へ住むが宜かろう。」と、お言葉を下された。この時、正兵衞は、どうでもお屋敷へ寄せて頂こうと、堅く決心したのである。

御苦労さん

 明治十七年春、佐治登喜治良は、当時二十三才であったが、大阪鎮台の歩兵第九聯隊第一大隊第三中隊に入隊中、大和地方へ行軍して、奈良市今御門町の桝屋という旅館に宿営した。
 この時、宿の離れに人の出入りがあり、宿の亭主から、「あのお方が、庄屋敷の生神様や。」とて、赤衣を召された教祖を指し示して教えられ、お道の話を聞かされた。
 やがて教祖が、登喜治良の立っている直ぐ傍をお通りになった時、佐治は言い知れぬ感動に打たれて、丁重に頭を下げて御辞儀したところ、教祖は、静かに会釈を返され、
「御苦労さん。」と、お声をかけて下された。
 佐治は、教祖を拝した瞬間、得も言われぬ崇高な念に打たれ、お声を聞いた一瞬、神々しい中にも慕わしく懐かしく、ついて行きたいような気がした。
 後年、佐治が、いつも人々に語っていた話に、「私は、その時、このお道を通る心を定めた。事情の悩みも身上の患いもないのに、入信したのは、全くその時の深い感銘からである。」と。

本当のたすかり

 大和国倉橋村の山本与平妻いさ(註、当時四十才)は、明治十五年、ふしぎなたすけを頂いて、足腰がブキブキと音を立てて立ち上がり、年来の足の悩みをすっきり御守護頂いた。
 が、そのあと手が少しふるえて、なかなかよくならない。少しのことではあったが、当人はこれを苦にしていた。それで、明治十七年夏、おぢばへ帰り、教祖にお目にかかって、そのふるえる手を出して、「お息をかけて頂きとうございます。」と、願った。すると、教祖は、
「息をかけるは、いと易い事やが、あんたは、足を救けて頂いたのやから、手の少しふるえるぐらいは、何も差し支えはしない。すっきり救けてもらうよりは、少しぐらい残っている方が、前生のいんねんもよく悟れるし、いつまでも忘れなくて、それが本当のたすかりやで。人、皆、すっきり救かる事ばかり願うが、真実救かる理が大事やで。息をかける代わりに、この本を貸してやろ。これを写してもろて、たえず読むのやで。」と、お諭し下されて、おふでさき十七号全冊をお貸し下された。この時以来、手のふるえは、一寸も苦にならないようになった。そして生家の父に写してもらったおふでさきを、生涯、いつも読ませて頂いていた。そして、誰を見ても、熱心ににをいをかけさせて頂き、八十九才まで長生きさせて頂いた。

清らかな所へ

 斯道会が発足して、明誠社へ入っていた人々も、次々と退社して、斯道会へ入る人が続出して来たので、明誠社では、深谷源次郎さえ引き戻せば、後の者はついて来ると考えて、人を派して説得しようとした。が、その者が、これから出掛けようとして、二階から下りようとしてぶっ倒れ、七転八倒の苦しみをはじめた。直ちに、医者を呼んで診断してもらうと、コレラという診立てであった。そこで、早速医院へ運んだが、行き着く前に出直してしもうた。それで、講中の藤田某が、おぢばへ帰って、教祖に伺うと、
「前生のさんげもせず、泥水の中より清らかな所へ引き出した者を、又、泥水の中へ引き入れようとするから、神が切り払うた。」と、お言葉があった。

卯の刻を合図に

 明治十七年秋、おぢば帰りをした土佐卯之助は、門前にあった福井鶴吉の宿で泊っていた。すると、夜明け前に、誰か激しく雨戸をたたいて怒鳴っている者がある。耳を澄ますと、「阿波の土佐はんは居らぬか。居るなら早よう出て来い。」と。それは山本利三郎であった。出て行くと、「土佐はん、大変な事になったで。神様が、今朝の卯の刻を合図に、なんと、月日のやしろにかかっているものを、全部残らずおまえにお下げ下さる、と言うておられるのや。おまえは日本一の仕合わせ者やなあ。」と言うて、お屋敷目指して歩き出した。後を追うて歩いて行く卯之助は、夢ではなかろうかと、胸を躍らせながらついて行った。
 やがて、山本について、教祖のお部屋の次の間に入って行くと、そこには、真新しい真紅の着物、羽織は言うまでもなく、襦袢から足袋まで、教祖が、昨夜まで身につけておられたお召物一切取り揃えて、丁寧に折りたたんで、畳の上に重ねられていた。卯之助は、呆然となり、夢に夢見る心地で、ただ自分の目を疑うように坐っていた。すると、先輩の人々が、「何をグズグズしている。神様からおまえに下さるのや。」と注意してくれたので、初めて、上段の襖近くに平伏した。涙はとめどもなく頬をつたうが、上段からは何んのお声もない。ただ静かに時が経った。卯之助は、「私如き者に、それは余りに勿体のうございます。」と辞退したが、お側の人々の親切なすすめに、「では、お肌についたお襦袢だけを、頂戴さして頂きます。」と、ようやく返事して、その赤衣のお襦袢だけを、胸に抱いて、飛ぶように宿へ持ってかえり、嬉し泣きに声をあげて泣いた、という。

 明治十七年十月、その頃、毎月のようにおぢば帰りをさせて頂いていた土佐卯之助は、三十三名の団参を作って、二十三日に出発、二十七日におぢばへ到着した。
 一同が、教祖にお目通りさせて頂いて退出しようとした時、教祖は、
「一寸お待ち。」と、土佐をお呼び止めになった。そして、
「おひさ、柿持っておいで。」と、孫娘の梶本ひさにお言い付けになった。それで、ひさは、大きな籠に、赤々と熟した柿を、沢山運んで来た。すると、教祖は、その一つを取って、みずから皮をおむきになり、二つに割って、
「さあ、お上がり。」と、その半分を土佐に下され、御自身は、もう一つの半分を、おいしそうに召し上がられた。やがて、土佐も、頂いた柿を食べはじめた。教祖は、満足げにその様子を見ておられたが、土佐が食べ終るより早く、次の柿をおむきになって、
「さあ、もう一つお上がり。私も頂くで。」と、仰せになって、又、半分を下され、もう一つの半分を御自分がお召し上がりになった。こうして、次々と柿を下されたが、土佐は、御自分もお上がり下さるのは、遠慮させまいとの親心から、と思うと、胸に迫るものがあった。教祖は、つづいて、
「遠慮なくお上がり。」と、仰せ下されたが、土佐は、「私は、十分に頂きました。宿では、信者が待っておりますから、これを頂いて行って、皆に分けてやります。」と言って、自分が最後に頂いた一切れを、押し頂いて、懐紙に包もうとすると、教祖は、ひさに目くばせなされたので、ひさは、土佐の両の掌に一杯、両の袂にも一杯、柿を入れた。こうして、重たい程の柿を頂戴したのであった。

をびや許し

 明治十七年秋の頃、諸井国三郎が、四人目の子供が生まれる時、をびや許しを頂きたいと、願うて出た。その時、教祖が、御手ずから御供を包んで下さろうとすると、側に居た高井直吉が、「それは、私が包ませて頂きましょう。」と言って、紙を切って折ったが、その紙は曲っていた。教祖は、高井の折るのをジッとごらんになっていたが、良いとも悪いとも仰せられず、静かに紙を出して、
「鋏を出しておくれ。」と、仰せになった。側の者が鋏を出すと、それを持って、キチンと紙を切って、その上へ四半斤ばかりの金米糖を出して、三粒ずつ三包み包んで、
「これが、をびや許しやで。これで、高枕もせず、腹帯もせんでよいで。それから、今は柿の時やでな、柿を食べてもだんないで。」と、仰せになり、残った袋の金米糖を、
「これは、常の御供やで。三つずつ包み、誰にやってもよいで。」と、仰せられて、お下げ下された。

倍の力

 明治十七年頃は、警察の圧迫が極めて厳しく、おぢばへ帰っても、教祖にお目にかからせて頂ける者は稀であった。そこへ土佐卯之助は、二十五、六名の信者を連れて帰らせて頂いた。取次が、「阿波から詣りました。」と申し上げると、教祖は、
「遠方はるばる帰って来てくれた。」と、おねぎらい下された。続いて、
「土佐はん、こうして遠方はるばる帰って来ても、真実の神の力というものを、よく心に治めて置かんと、多くの人を連れて帰るのに頼りないから、今日は一つ、神の力を試してごらん。」と、仰せになり、側の人に手拭を持って来させられ、その一方の片隅を、御自分の親指と人差指との間に挟んで、
「さあ、これを引いてごらん。」と、差し出された。土佐は、挨拶してから、力一杯引っ張ったが、どうしても離れない。すると、教祖は笑いながら、
「さあ、もっと引いてごらん。遠慮は要らんで。」と、仰せになった。土佐は、顔を真っ赤にして、満身の力をこめて引いた。けれども、どんなに力を入れて引いても、その手拭は取れない。土佐は、生来腕力が強く、その上船乗り稼業で鍛えた力自慢であったが、どうしても、その手拭が取れない。遂に、「恐れ入りました。」と、頭を下げた。すると、教祖は、今度は右の手をお出しになって、
「もう一度、試してごらん。さあ、今度は、この手首を握ってごらん。」と、仰せになるので、「では、御免下さい。」と言って、恐る恐る教祖のお手を握らせて頂いた。教祖は、
「さあ、もっと強く、もっと強く。」と、仰せ下さるのであるが、力を入れれば入れる程、土佐の手が痛くなるばかりであった。そこで、土佐は、遂に兜を脱いで、「恐れ入りました。」と、お手を放して平伏した。すると、教祖は、
「これが、神の、倍の力やで。」と、仰せになって、ニッコリなされた。

お出ましの日

 明治十七年頃の話。教祖が、監獄署からお出ましの日が分かって来ると、監獄署の門前には、早くから、人が一杯になって待っている。そして、「拝んだら、いかん。」と言うて、巡査が止めに廻わっても、一寸でも教祖のお姿が見えると、パチパチと柏手を打って拝んだ。警察は、「人を以て神とするは、警察の許さぬところである。」と言うて、抜剣して止めて歩くが、その後から、又手を打って拝む。人々は、「命のないところを救けてもろうたら、拝まんといられるかい。たとい、監獄署へ入れられても構わんから、拝むのや。」と言うて拝むのであるから、止めようがなかった。

神が連れて帰るのや

 教祖の仰せに、
「巡査の来るのは、神が連れて帰るのや。警察へ行くのも、神が連れて行くのや。」
「この所に喧しく止めに来るのは、結構なる宝を土中に埋めてあるのを、掘り出しに来るようなものである。」
「巡査が止めに来るのやない。神が連れて帰るのである。」と。

自分が救かって

 明治十七年頃のこと。大和国海知村の森口又四郎、せきの長男鶴松、三十才頃の話。背中にヨウが出来て痛みが激しく、膿んで来て、医者に診てもらうと、「この人の寿命は、これまでやから、好きなものでも食べさせてやりなされ。」と言われ、全く見離されてしまった。それで、かねてからお詣りしていた庄屋敷へ帰って、教祖に直き直きおたすけをして頂いた。
 それから二、三日後のこと。鶴松が、寝床から、「一寸見てくれんか。寝床が身体にひっ付いて布団が離れへんわよう。」と叫ぶので、家族の者が行って見ると、ヨウの口があいて、布団が、ベタベタになっていた。それから、教祖に頂いたお息紙を、貼り替え貼り替えしているうちに、すっかり御守護を頂いた。
 それで、お屋敷へお礼詣りに帰り、教祖にお目通りさせて頂くと、
「そうかえ。命のないとこ救けてもろうて、結構やったな。自分が救かって結構やったら、人さん救けさしてもらいや。」と、お言葉を下された。鶴松は、この御一言を胆に銘じて、以後にをいがけ・おたすけに奔走させて頂いた。

縁の切れ目が

 松田サキは、大和国五条野村の生まれで、先に一旦縁付いたが、そこを振り切って離婚し、やがて二十三才の時再婚した。
 明治十六年、三十才の時、癪持ちから入信したが、翌十七年頃のこと、右腕に腫物が出来て、ひどく腫れ上がったので、お屋敷へ帰っておたすけを願うた。
 教祖にお目通りさせて頂くと、
「縁の切れ目が、命の切れ目やで。抜け出したいと思うてたら、あかんで。」と、お言葉を下された。このお言葉を頂いて、サキは、「決して抜け出しません。」と、心が定まった。すると、教祖が、息を三遍おかけ下された。その途端、右腕の痛みは立ち所に治まり、腫れは退いて、ふしぎなたすけを頂いた。

ええ手やなあ

 教祖が、お疲れの時に、梶本ひさが、「按摩をさして頂きましょう。」と申し上げると、
「揉んでおくれ。」と、仰せられる。そこで、按摩させてもらうと、後で、ひさの手を取って、
「この手は、ええ手やなあ。」と、言うて、ひさの手を撫でて下された。
 又、教祖は、よく、
「親に孝行は、銭金要らん。とかく、按摩で堪能させ。」と、歌うように仰せられた、という。

月のものはな、花やで

 ある時、教祖の御前に、山本利八が侍っていると、
「利八さん、外の方を見ておいで。」と、仰せになった。その頃は、警察の取締まりの厳しい時であったから、それについての仰せと思い、気を付けて、辺りを見廻わったが、誰も居ない。それで、もどって来て、「神さん、何んにも変わりはありゃしません。向こうのあの畑には、南瓜がなっています。この畑には、茄子が沢山出けました。」と申し上げると、教祖は、膝を打って、
「それそれ、あの南瓜や茄子を見たかえ。大きい実がなっているが、あれは、花が咲くで実が出来るのやで。花が咲かずに実のなるものは、一つもありゃせんで。そこで、よう思案してみいや。女は不浄やと、世上で言うけれども、何も、不浄なことありゃせんで。男も女も、寸分違わぬ神の子や。女というものは、子を宿さにゃならん、一つの骨折りがあるで。女の月のものはな、花やで。花がのうて実がのろうか。よう、悟ってみいや。南瓜でも、大きな花が散れば、それぎりのものやで。むだ花というものは、何んにでもあるけれどな、花なしに実のるという事はないで。よう思案してみいや。何も不浄やないで。」と、お教え下された。

神一条の屋敷

 梅谷四郎兵衞が、ある時、教祖のお側でいろいろお話を承っていたが、ふと、「ただ今、道頓堀に大変よい芝居がかかっていますが、」と、世間話を申し上げかけると、教祖は、その話を皆まで言わさず、
「わしは、四十一の年から今日まで、世間の話は何もしませんのや。この屋敷はな、神一条の話より外には何も要らん、と、神様が仰せになりますで。」と、お誡めになった。

柿選び

 ちょうど、その時は、秋の柿の出盛りの旬であった。桝井おさめは、教祖の御前に出さして頂いていた。柿が盆に載って御前に出ていた。
 教祖が、その盆に載せてある柿をお取りになるのに、あちらから、又こちらから、いろいろに眺めておられる。その様子を見て、おさめは、「教祖も、柿をお取りになるのに、矢張りお選びになるのやなあ。」と思って見ていた。ところが、お取りになったその柿は、一番悪いと思われる柿をお取りになったのである。そして、後の残りの柿を載せた盆を、おさめの方へ押しやって、
「さあ、おまはんも一つお上がり。」と、仰せになって、柿を下された。この教祖の御様子を見て、おさめは、「ほんに成る程。教祖もお選びになるが、教祖のお選びになるのは、我々人間どもの選ぶのとは違って、一番悪いのをお選りになる。これが教祖の親心や。子供にはうまそうなのを後に残して、これを食べさしてやりたい、という、これが本当に教祖の親心や。」と感じ入った。そして、感じ入りながら、教祖の仰せのままに、柿を頂戴したのであった。教祖も、柿をお上がりになった。
 おさめは、この時の教祖の御様子を、深く肝に銘じ、生涯忘れられなかった、という。

子供の楽しむのを

 桝井キクは、毎日のようにお屋敷へ帰らせて頂いていたが、今日は、どうしても帰らせて頂けない、という日もあった。そんな時には、今日は一日中塩気断ち、今日は一日中煮物断ち、というような事をしていた。そういう日の翌日、お屋敷へ帰らせて頂くと、教祖が仰せになった。
「オキクさん、そんな事、する事要らんのやで。親は、何んにも小さい子供を苦しめたいことはないねで。この神様は、可愛い子供の苦しむのを見てお喜びになるのやないねで。もう、そんな事する事要らんのやで。子供が楽しむのを見てこそ、神は喜ぶのや。」と、やさしくお言葉を下された。何も彼も見抜き見通しであられたのである。

親が代わりに

 教祖は、平素あまり外へは、お出ましにならなかったから、足がお疲れになるような事はないはずであるのに、時々、
「足がねまる。」とか、
「しんどい。」とか、仰せになる事があった。
 ところが、かよう仰せられた日は必ず、道の子供の誰彼が、意気揚々として帰って来るのが、常であった。そして、その人々の口から、「ああ、結構や。こうして歩かしてもろても、少しも疲れずに帰らせて頂いた。」と、喜びの声を聞くのであった。これは、教祖が、お屋敷で、子供に代わってお疲れ下された賜物だったのである。神一条のこの屋敷へ帰って来る子供が可愛い余りに、教祖は、親として、その身代わりをして、お疲れ下されたのである。
 ある時、村田イヱが、数日間お屋敷の田のお手伝いをしていたが、毎日かなり働いたのにもかかわらず、不思議に腰も手も痛まないのみか、少しの疲れも感じなかった。そこで、「あれだけ働かせてもらいましても、少しも疲れを感じません。」と、申し上げると、教祖は、
「さようか。わしは毎日々々足がねまってかなわなんだ。おまえさんのねまりが、皆わしのところへ来ていたのやで。」と、仰せられた。

兄弟の中の兄弟

 教祖は、ある時、
「この屋敷に住まっている者は、兄弟の中の兄弟やで。兄弟ならば、誰かが今日どこそこへ行く。そこに居合わせた者、互いに見合わせて、着ている着物、誰のが一番によい。一番によいならば、さあ、これを着ておいでや。又、たとい一銭二銭でも、持ち合わせている者が、互いに出し合って、これを小遣いに持って、さあ行っておいでや。と言うて、出してやってこそ、兄弟やで。」と、お諭し下された。

可愛い一杯

 明治十八年三月二十八日(陰暦二月十二日)、山田伊八郎が承って誌した、教祖のお話の覚え書に、
「神と言うて、どこに神が居ると思うやろ。この身の内離れて神はなし。又、内外の隔てなし。というは、世界一列の人間は、皆神の子や。何事も、我が子の事思てみよ。ただ可愛い一杯のこと。
 百姓は、作りもの豊作を願うて、それ故に、神がいろいろに思うことなり。
 又、人間の胸の内さい受け取りたなら、いつまでなりと、踏ん張り切る。」と。

高う買うて

 明治十八年夏、真明組で、お話に感銘して入信した宮田善蔵は、その後いくばくもなく、今川聖次郎の案内でおぢばへ帰り、教祖にお目通りさせて頂いた。当時、善蔵は三十一才、大阪船場の塩町通で足袋商を営んでいた。
 教祖は、結構なお言葉を諄々とお聞かせ下された。が、入信早々ではあり、身上にふしぎなたすけをお見せ頂いた、という訳でもない善蔵は、初めは、世間話でも聞くような調子で、キセルを手にして煙草を吸いながら聞いていたが、いつの間にやらキセルを置き、畳に手を滑らせ、気のついた時には平伏していた。が、この時賜わったお言葉の中で、
「商人はなあ、高う買うて、安う売るのやで。」というお言葉だけが、耳に残った。善蔵には、その意味合いが、一寸も分からなかった。そして思った。「そんな事をしたら、飯の喰いはぐれやないか。百姓の事は御存知でも、商売のことは一向お分かりでない。」と思いながら、家路をたどった。
 近所に住む今川とも分かれ、家の敷居を跨ぐや否や、激しい上げ下だしとなって来た。早速、医者を呼んで手当てをしたが、効能はない。そこで、今川の連絡で、真明組講元の井筒梅治郎に来てもらった。井筒は、宮田の枕もとへ行って、「おぢばへ初めて帰って、何か不足したのではないか。」と、問うた。それで、宮田は、教祖のお言葉の意味が、納得出来ない由を告げた。すると、井筒は、「神様の仰っしゃるのは、他よりも高う仕入れて問屋を喜ばせ、安う売って顧客を喜ばせ、自分は薄口銭に満足して通るのが商売の道や、と、諭されたのや。」と、説き諭した。善蔵は、これを聞いて初めて、成る程と得心した。と共に、たとい暫くの間でも心に不足したことを、深くお詫びした。そうするうちに、上げ下だしは、いつの間にやら止まってしまい、ふしぎなたすけを頂いた。

身上にしるしを

 明治十八年十月、苣原村(註、おぢばから東へ約一里)の谷岡宇治郎の娘ならむめ(註、当時八才)は、栗を取りに行って、木から飛び降りたところ、足を挫いた。それがキッカケとなってリュウマチとなり、疼き通して三日三晩泣き続けた。
 医者の手当てもし、近所で拝み祈祷もしてもらったが、どうしても治らず、痛みは激しくなる一方であった。
 その時、同村の松浦おみつから、にをいがかかり、「お燈明を種油で小皿に上げて、おぢばの方に向かって、『何卒このお光りのしめります(註、消える)までに、痛みを止めて下され。』と、お願いするように。」と教えられた。
 早速、教えられた通り、お燈明を上げて、「助けて頂いたら、孫子に伝えて信心させて頂きます。」と、堅く心に誓い、一心にお願いすると、それまで泣き叫んで手に負えなかった手足の疼きは、忽ちにして御守護頂いた。
 余りの嬉しさに、お礼詣りということになって、宇治郎が娘のならむめを背負って、初めてお屋敷へ帰らせて頂いた。辻忠作の取次ぎで、宇治郎は、教祖に直き直きお目にかかって、救けて頂いたお礼を申し上げた。
 それから間もなく、今度は宇治郎が胸を患ってやせ細り、見るも哀れな姿となった。それで、お屋敷に帰らせて頂いて、教祖にお目通りさせて頂いたら、
「身上にしるしをつけて引き寄せた。」とのお言葉で、早速着物を着替えて来るようにとの事であった。翌日、服装を改めて参拝させて頂いたところ、結構にさづけの理を頂いた。そして、さすがに不治とまで言われた胸の患いも、間もなく御守護頂いた。
 感激した宇治郎は、その後、山里の家々をあちこちとおたすけに歩かせて頂き、やがて、教祖御在世当時から、苣原村を引き揚げてお屋敷に寄せて頂き、大裏で御用を勤めさせて頂くようになった。

人助けたら

 加見兵四郎は、明治十八年九月一日、当時十三才の長女きみが、突然、両眼がほとんど見えなくなり、同年十月七日から、兵四郎もまた目のお手入れを頂き、目が見えぬようになったので、十一月一日、妻つねに申し付けて、おぢばへ代参させた。教祖は、
「この目はなあ、難しい目ではあらせん。神様は一寸指で押さえているのやで。そのなあ、押さえているというのは、ためしと手引きにかかりているのや程に。」と、仰せになり、つづいて、
「人言伝ては、人言伝て。人頼みは、人頼み。人の口一人くぐれば一人、二人くぐれば二人。人の口くぐるだけ、話が狂う。狂うた話した分にゃ、世界で誤ちが出来るで。誤ち出来た分にゃ、どうもならん。よって、本人が出て来るがよい。その上、しっかり諭してやるで。」と、お諭し下された。つねが家にもどって、この話を伝えると、兵四郎は、「成る程、その通りや。」と、心から感激して、三日朝、笠間から四里の道を、片手には杖、片手は妻に引いてもらって、お屋敷へ帰って来た。教祖は、先ず、
「さあさあ」と、仰せあり、それから約二時間にわたって、元初まりのお話をお聞かせ下された。その時の教祖のお声の大きさは、あたりの建具がピリピリと震動した程であった。そのお言葉がすむや否や、ハッと思うと、目はいつとなく、何んとなしに鮮やかとなり、帰宅してみると、長女きみの目も鮮やかに御守護頂いていた。
 しかし、その後、兵四郎の目は、毎朝八時頃までというものは、ボーッとして遠目は少しもきかず、どう思案しても御利やくない故に、翌明治十九年正月に、又、おぢばへ帰って、お伺い願うと、
「それはなあ、手引きがすんで、ためしがすまんのやで。ためしというは、人救けたら我が身救かる、という。我が身思うてはならん。どうでも、人を救けたい、救かってもらいたい、という一心に取り直すなら、身上は鮮やかやで。」とのお諭しを頂いた。よって、その後、熱心におたすけに奔走するうちに、自分の身上も、すっきりお救け頂いた。

船遊び

 教祖は、ある時、梶本ひさ(註、後の山沢ひさ)に向かって、
「一度船遊びしてみたいなあ。わしが船遊びしたら、二年でも三年でも、帰られぬやろうなあ。」と、仰せられた。海の外までも親神様の思召しの弘まる日を、見抜き見通されてのお言葉と伝えられる。

よう似合うやろな

 教祖は、お年を召されてから、お側に仕えていた梶本ひさに、
「何なりと、ほしいものがあったら、そう言いや。」又、
「何か買いたいものがあったら、これ、お祖母さんのに買いました。と言うて、持って来るねで。」と、仰せになった。
 ある時のこと、行商の反物屋から、派手な反物をお買い求めになり、
「これ、私によう似合うやろな。」と、言いながら、御自分の肩先におかけになって、ニッコリ遊ばされ、それから、
「これは、おまえのに取ってお置き。」と、仰せになって、ひさにお与えになった。

 又、ある時のこと。長崎から来たというベッコウ細工屋から、小さな珊瑚珠のカンザシをお買い求めになり、やはり、御自分のお髪に一度おさしになってから、
「これ、ええやろうな。」と、仰せられて後、
「さあ、これを、おまえに上げよう。」と、仰せになって、ひさに下された。
 このように、教祖は、一旦御自分の持物としてお買い求めになり、然る後、人々に下さることが間々あった。それは、人々に気がねさせないよう、という御配慮からと拝察されるが、人々は、教祖のお心のこもった頂きものに、一入感激の思いを深くするのであった。

天が台

 梅谷四郎兵衞が、教祖にお聞かせ頂いた話に、
「何の社、何の仏にても、その名を唱え、後にて天理王命と唱え。」と。又、
「人詣るにより、威光増すのである。人詣るにより、守りしている人は、立ち行くのである。産土神は、人間を一に生み下ろし給いし場所である。産土の神に詣るは、恩に報ずるのである。」「社にても寺にても、詣る所、手に譬えば、指一本ずつの如きものなり。本の地は、両手両指の揃いたる如きものなり。」「この世の台は、天が台。天のしんは、月日なり。人の身上のしんは目。身の内のしん、我が心の清水、清眼という。」と。

宝の山

 教祖のお話に、
「大きな河に、橋杭のない橋がある。その橋を渡って行けば、宝の山に上ぼって、結構なものを頂くことが出来る。けれども、途中まで行くと、橋杭がないから揺れる。そのために、中途からかえるから、宝を頂けぬ。けれども、そこを一生懸命で、落ちないように渡って行くと、宝の山がある。山の頂上に上ぼれば、結構なものを頂けるが、途中でけわしい所があると、そこからかえるから、宝が頂けないのやで。」と、お聞かせ下された。

前生のさんげ

 堺に昆布屋の娘があった。手癖が悪いので、親が願い出て、教祖に伺ったところ、
「それは前生のいんねんや。この子がするのやない。親が前生にして置いたのや。」と、仰せられた。それで、親が、心からさんげしたところ、鮮やかな御守護を頂いた、という。

皆、吉い日やで

 教祖は、高井直吉に、
「不足に思う日はない。皆、吉い日やで。世界では、縁談や棟上げなどには日を選ぶが、皆の心の勇む日が、一番吉い日やで。」と、教えられた。
 一日 はじまる 二日 たっぷり 三日 身につく 四日 仕合わせようなる 五日 りをふく
 六日 六だいおさまる 七日 何んにも言うことない 八日 八方ひろがる 九日 苦がなくなる 十日 十ぶん
 十一日 十ぶんはじまる 十二日 十ぶんたっぷり 十三日 十ぶん身につく(以下同)
 二十日 十ぶんたっぷりたっぷり 二十一日 十ぶんたっぷりはじまる(以下同)
 三十日 十ぶんたっぷりたっぷりたっぷり
 三十日は一月、十二カ月は一年、一年中一日も悪い日はない。

そっちで力をゆるめたら

 もと大和小泉藩でお馬廻役をしていて、柔術や剣道にも相当腕に覚えのあった仲野秀信が、ある日おぢばへ帰って、教祖にお目にかかった時のこと、教祖は、
「仲野さん、あんたは世界で力強やと言われていなさるが、一つ、この手を放してごらん。」と、仰せになって、仲野の両方の手首をお握りになった。仲野は、仰せられるままに、最初は少しずつ力を入れて、握られている自分の手を引いてみたが、なかなか離れない。そこで、今度は本気になって、満身の力を両の手にこめて、気合諸共ヤッと引き離そうとした。しかし、御高齢の教祖は、神色自若として、ビクともなさらない。
 まだ壮年の仲野は、今は、顔を真っ赤にして、何んとかして引き離そうと、力限り、何度も、ヤッ、ヤッと試みたが、教祖は、依然としてニコニコなさっているだけで、何んの甲斐もない。
 それのみか、驚いた事には、仲野が、力を入れて引っ張れば引っ張る程、だんだん自分の手首が堅く握り締められて、ついには手首がちぎれるような痛さを覚えて来た。さすがの仲野も、ついに堪え切れなくなって、「どうも恐れ入りました。お放し願います。」と言って、お放し下さるよう願った。すると、教祖は、
「何も、謝らいでもよい。そっちで力をゆるめたら、神も力をゆるめる。そっちで力を入れたら、神も力を入れるのやで。この事は、今だけの事やない程に。」と、仰せになって、静かに手をお放しになった。

十七人の子供

 明治十八年のこと。ある日、教祖は、お側の人達に、
「明日は、阿波から十七人の子供が帰って来る。」と、嬉しそうに仰せになった。
 が、その翌日も又翌日も、十七人はおろか、一人も帰って来ない。そのうちに、人々は待ちくたびれて、教祖のお言葉を忘れてしまった。しかし、それから十数日経って、阿波から十七人の者が帰って来た。人数は、教祖のお言葉通り、ちょうど十七人であったので、お側の人々は驚いた。
 話を聞いてみると、ちょうどお言葉のあった日に出帆したのであったが、悪天候に悩まされて難航を重ね、十数日も遅れたのであった。土佐卯之助たち一行は、教祖のお言葉を承って、今更のように、驚き且つ感激した。そして、教祖にお目通りすると、教祖は、大層お喜び下されて、
「今は、阿波国と言えば遠いようやが、帰ろうと思えば一夜の間にも、寝ていて帰れるようになる。」と、お言葉を下された。

心の澄んだ人

 明治十八年十二月二十六日、教祖が仲田儀三郎に下されたお言葉に、
「心の澄んだ人の言う事は、聞こゆれども、心の澄まぬ人の言う事は、聞こえぬ。」と。

人一人なりと

 教祖は、いつも、
「一日でも、人一人なりと救けねば、その日は越せぬ。」と、仰せになっていた。

身上がもとや

 教祖の仰せに、
「命あっての物種と言うてある。身上がもとや。金銭は二の切りや。今、火事やと言うたら、出せるだけは出しもしようが、身上の焼けるのも構わず出す人は、ありゃせん。大水やと言うても、その通り。盗人が入っても、命が大事やから、惜しいと思う金でも、皆出してやりますやろ。悩むところも、同じ事や。早く、二の切りを惜しまずに施しして、身上を救からにゃならん。それに、惜しい心が強いというは、ちょうど、焼け死ぬのもいとわず、金を出しているようなものや。惜しいと思う金銭・宝残りて、身を捨てる。これ、心通りやろ。そこで二の切りを以て身の難救かったら、これが、大難小難という理やで。よう聞き分けよ。」と。これは、喜多治郎吉によって語り伝えられた、お諭しである。

神様、笑うてござる

 ある時、村田イヱが、動悸が出て、次第に募って来て困ったので、教祖にお伺いしたところ、
「動悸は、神様、胸が分からん。と言うて、笑うてござるのやで。」と、お聞かせ下された。

惜しみの餅

 ある人が、お餅を供える時、「二升にして置け。」「いや三升にしよう。」と、家の中で言い争いをしてから、「惜しいけど、上げよう。」と、言って、餅を供えたところ、教祖が、箸を持って、召し上がろうとなさると、箸は、激しく跳び上がって、どうしても、召し上がる事が出来なかった、という。

教祖の茶碗

「教祖のお使いになった茶碗の中には、欠けたのを接いだのがあった。私は、茶碗を見た。模様ものの普通の茶碗に、錦手の瀬戸物で接いであった。これは、本部の宝や。これを見たら、後の者は贅沢出来ん。
 お皿でも、教祖のお使いになったものの中には、接いだものがあった。」
と。これは、梶本楢治郎の懐旧談である。

元の屋敷

 大和国笠間村の大浦伝七妻なかは、急に人差指に激しい痛みを感じ、その痛みがなかなか治まらないので、近所の加見兵四郎に願うてもろうたところ、痛みは止まった。が、しばらくすると、又痛み出し、お願いしてもらうと、止まった。こういう事を、三、四度も繰り返した後、加見が、「おぢばへ帰って、教祖にお願い致しましょう。」と言うたので、同道して、お屋敷へ帰り、教祖にお目通りして、お願いしたところ、教祖は、その指に三度息をおかけ下された。すると、激しい痛みは、即座に止まった。この鮮やかな御守護に、なかは、「不思議な神様やなあ。」と、心から感激した。その時、教祖は、
「ここは、人間はじめ出したる元の屋敷である。先になったら、世界中の人が、故郷、親里やと言うて集まって来て、うちの門口出たら、何ないという事のない繁華な町になるのや。」と、お聞かせ下された。

悪風というものは

 明治十八、九年頃のこと。お道がドンドン弘まり始めると共に、僧侶、神職その他、世間の反対攻撃もまた次第に猛烈になって来た。信心している人々の中にも、それ等の反対に辛抱し切れなくなって、こちらからも積極的に抗争しては、と言う者も出て来た。その時、摂津国喜連村の林九右衞門という講元が、おぢばへ帰って、このことを相談した。そこで、取次から、教祖に、この点をお伺いすると、お言葉があった。
「さあさあ悪風に譬えて話しよう。悪風というものは、いつまでもいつまでも吹きやせんで。吹き荒れている時は、ジッとすくんでいて、止んでから行くがよい。
 悪風に向こうたら、つまずくやらこけるやら知れんから、ジッとしていよ。又、止んでからボチボチ行けば、行けん事はないで。」と、お諭し下された。

 又、その少し後で、若狭国から、同じようなことで応援を求めて来た時に、お伺いすると、教祖は、
「さあ、一時に出たる泥水、ごもく水やで。その中へ、茶碗に一杯の清水を流してみよ。それで澄まそうと思うても、澄みやすまい。」と、お聞かせ下された。一同は、このお言葉に、逸やる胸を抑えた、という。

悟り方

 明治十九年二月六日(陰暦正月三日)お屋敷へ帰らせて頂いていた梅谷四郎兵衞のもとへ、家から、かねて身上中の二女みちゑがなくなったという報せが届いた。教祖にお目通りした時、話のついでに、その事を申し上げると、教祖は、
「それは結構やなあ。」と、仰せられた。
 梅谷は、教祖が、何かお聞き違いなされたのだろうと思ったので、更に、もう一度、「子供をなくしましたので。」と、申し上げると、教祖は、ただ一言、
「大きい方でのうて、よかったなあ。」と、仰せられた。

どこい働きに

 明治十九年三月十二日(陰暦二月七日)、山中忠七と山田伊八郎が、同道でお屋敷へ帰らせて頂いた。
 教祖は、櫟本の警察分署からお帰りなされて以来、連日お寝みになっている事が多かったが、この時、二人が帰らせて頂いた旨申し上げると、お言葉を下された。
「どこい働きに行くやら知れん。それに、起きてるというと、その働きの邪魔になる。ひとり目開くまで寝ていよう。何も、弱りたかとも、力落ちたかとも、必ず思うな。
 そこで、指先にて一寸知らせてある。その指先にても、突くは誰でも。摘もみ上げる力見て、思やんせよ。」と、仰せになって、両人の手の皮をお摘まみ下されると、まことに大きな力で、手の皮が痛い程であった。両名が、そのお力に感銘していると、更にお言葉があった。
「他の者では、寝返いるのも出けかねるようになりて、これだけの力あるか。
 人間も二百、三百才まで、病まず弱らず居れば、大分に楽しみもあろうな。そして、子供は、ほふそ、はしかのせんよう。頭い何一つも出けんよう。百姓は、一反に付、米四石、五石までも作り取らせたいとの神の急き込み。この何度も上から止められるは、残念でならん。この残念は、晴らさずには置かん。この世界中に、何にても、神のせん事、構わん事は、更になし。何時、どこから、どんな事を聞くや知れんで。そこで、何を聞いても、さあ、月日の御働きや、と思うよう。これを、真実の者に聞かすよう。今は、百姓の苗代しめと同じ事。籾を蒔いたら、その籾は皆生えるやろうがな。ちょうど、それも同じ事。」と、お聞かせ下された。

結構なものを

 明治十九年三月中頃、入信後間もない中西金次郎は、泉田籐吉に伴われて、初めておぢばへ帰り、教祖にお目通りさせて頂いた。
 教祖は、お寝みになっていたが、「天恵四番、泉田籐吉の信徒、中西金次郎が帰って参りました。」と取次いで頂くと、直ぐ、
 「はい、はい。」と、お声がして、お出まし下された。
 同年八月十七日に帰った時、お目通りさせて頂くと、月日の模様入りのお盃で、味醂酒を三分方ばかりお召し上がりになって、その残りをお盃諸共、お下げ下された。
 同年九月二十日には、教祖にお使い頂きたいと、座布団を作り、夫婦揃うて持参し、お供えした。この時は、お目にはかかれなかったが、後刻、教祖から、
「結構なものを。誰が下さったのや。」と、お言葉があったので、側の者が、「中西金次郎でございます。」と申し上げると、お喜び下され、翌二十一日宿に居ると、お呼び出しがあって、赤衣を賜わった。それはお襦袢であった。

ぢば一つに

 明治十九年六月、諸井国三郎は、四女秀が三才で出直した時、余り悲しかったので、おぢばへ帰って、「何か違いの点があるかも知れませんから、知らして頂きたい。」とお願いしたところ、教祖は、
「さあさあ小児のところ、三才も一生、一生三才の心。ぢば一つに心を寄せよ。ぢば一つに心を寄せれば、四方へ根が張る。四方へ根が張れば、一方流れても三方残る。二方流れても二方残る。太い芽が出るで。」と、お言葉を下された。

屋敷の常詰

 明治十九年八月二十五日(陰暦七月二十六日)の昼のこと、奈良警察署の署長と名乗る、背の低いズングリ太った男が、お屋敷へ訪ねて来た。そして、教祖にお目にかかって、かえって行った。
 その夜、お屋敷の門を、破れんばかりにたたく者があるので、飯降よしゑが、「どなたか。」と、尋ねると、「昼来た奈良署長やが、一寸門を開けてくれ。」と言うので、不審に思いながらも、戸を開けると、五、六人の壮漢が、なだれ込んで来て、「今夜は、この屋敷を黒焦げにしてやる。」と、口々に叫びながら、台所の方へ乱入した。
 よしゑは驚いて、直ぐ開き戸の中へ逃げ込んで、中から栓をさした。この開き戸からは、直ぐ教祖のお居間へ通じるようになっていたのである。
 彼等は、台所の火鉢を投げ付け、灰が座敷中に立ちこめた。茶碗や皿も、木葉微塵に打ち砕かれた。二階で会議をしていた取次の人々は、階下でのあわただしい足音、喚き叫ぶ声、器具の壊れる音を聞いて、梯子段を走って下りた。そして、暴徒を相手に、命がけで防ぎたたかった。
 折しも、ちょうどお日待ちで、村人達が、近所の家に集会していたので、この騒ぎを聞き付け、大勢駈け付けて来た。そして、皆んな寄って暴徒を組み伏せ、警察へ通知した。
 平野楢蔵は、六人の暴徒を、旅宿「豆腐屋」へ連れて行き、懇々と説諭の上、かえしてやった。
 この日、教祖は、平野に、「この者は度胸を見せたのやで。明日から、屋敷の常詰にする。」との有難いお言葉を下された。

夫婦の心

 平野楢蔵が、明治十九年夏、布教のため、家業を廃して谷底を通っている時に、夫婦とも心を定め、「教祖のことを思えば、我々、三日や五日食べずにいるとも、いとわぬ。」と決心して、夏のことであったので、平野は、単衣一枚に浴衣一枚、妻のトラは、浴衣一枚ぎりになって、おたすけに廻わっていた。
 その頃、お屋敷へ帰らせて頂くと、教祖が、「この道は、夫婦の心が台や。夫婦の心の真実見定めた。いかな大木も、どんな大石も、突き通すという真実、見定めた。さあ、一年経てば、打ち分け場所を許す程に。」と、お言葉を下された、という。

この道は

 明治十九年夏、松村吉太郎が、お屋敷へ帰らせて頂いた時のこと。多少学問の素養などもあった松村の目には、当時、お屋敷へ寄り集う人々の中に見受けられる無学さや、余りにも粗野な振舞などが、異様に思われ、軽侮の念すら感じていた。ある時、教祖にお目通りすると、教祖は、
「この道は、智恵学問の道やない。来る者に来なと言わん。来ぬ者に、無理に来いと言わんのや。」と、仰せになった。
 このお言葉を承って、松村は、心の底から高慢のさんげをし、ぢばの理の尊さを、心に深く感銘したのであった。

よう、はるばる

 但馬国田ノ口村の田川寅吉は、明治十九年五月五日、村内二十六戸の人々と共に講を結び、推されてその講元となった。時に十七才であった。これが、天地組七番(註、後に九番と改む)の初まりである。
 明治十九年八月二十九日、田川講元外八名は、おぢば帰りのため村を出発、九月一日大阪に着いた。が、その夜、田川は宿舎で、激しい腹痛におそわれ、上げ下だし甚だしく、夜通し苦しんだ。時あたかも、大阪ではコレラ流行の最中である。一同の驚きと心配は一通りではなく、お願い勤めをし、夜を徹して全快を祈った。かくて、夜明け近くなって、ようやく回復に向かった。そこで、二日未明出発。病躯を押して一行と共に、十三峠を越え竜田へ出て、庄屋敷村に到着。中山重吉宅に宿泊した。その夜、お屋敷から来た辻忠作、山本利三郎の両名からお話を聞かせてもらい、田川は、辻忠作からおさづけを取次いでもらうと、その夜から、身上の悩みはすっきり御守護頂いた。
 翌三日、一行は、元なるぢばに詣り、次いで、つとめ場所に上がって礼拝し、案内されるままに、御休息所に到り、教祖にお目通りさせて頂いた。教祖は、赤衣を召して端座して居られた。一同に対し、
「よう、はるばる帰って下された。」と、勿体ないお言葉を下された。感涙にむせんだ田川は、その感激を生涯忘れず、一生懸命たすけ一条の道に努め励んだのである。

トンビトート

 明治十九年頃、梶本宗太郎が、七つ頃の話。教祖が、蜜柑を下さった。蜜柑の一袋の筋を取って、背中の方から指を入れて、
「トンビトート、カラスカーカー。」と、仰っしゃって、
「指を出しや。」と、仰せられ、指を出すと、その上へ載せて下さる。それを、喜んで頂いた。
 又、蜜柑の袋をもろうて、こっちも真似して、指にさして、教祖のところへヒヨーッと持って行くと、教祖は、それを召し上がって下さった。

早よう一人で

 これは、梶本宗太郎の思い出話である。
 教祖にお菓子を頂いて、神殿の方へでも行って、子供同志遊びながら食べて、なくなったら、又、教祖の所へ走って行って、手を出すと、下さる。食べてしもうて、なくなると、又、走って行く。どうで、「お祖母ちゃん、又おくれ。」とでも言うたのであろう。三遍も四遍も行ったように思う。
 それでも、「今、やったやないか。」というようなことは、一度も仰せにならぬ。又、うるさいから一度にやろう、というのでもない。食べるだけ、食べるだけずつ下さった。ハクセンコウか、ボーロか、飴のようなものであった、と思う。大体、教祖は、子供が非常にお好きやったらしい。これは、家内の母、山沢ひさに聞くと、そうである。
 櫟本の梶本の家へは、チョイチョイお越しになった。その度に、うちの子にも、近所の子にもやろうと思って、お菓子を巾着に入れて、持って来て下さった。
 私は、曽孫の中では、男での初めや。女では、オモトさんが居る。それで、
「早よう、一人で来るようになったらなあ。」と、仰せ下された、という。
 私の弟の島村国治郎が生まれた時には、
「色の白い、綺麗な子やなあ。」と、言うて、抱いて下された、という。この話は、家の母のウノにも、山沢の母にも、よく聞いた。
 吉川(註、吉川万次郎)と私と二人、同時に教祖の背中に負うてもろうた事がある。そして、東の門長屋の所まで、藤倉草履(註、表を藺で編んだ草履)みたいなものをはいて、おいで下された事がある。
 教祖のお声は、やさしい声やった。お姿は、スラリとしたお姿やった。お顔は面長で、おまささんは、一寸円顔やが、口もとや顎は、そのままや。お身体付きは、おまささんは、頑丈な方やったが、教祖は、やさしい方やった。御腰は、曲っていなかった。

お召し上がり物

 教祖は、高齢になられてから、時々、生の薩摩藷を、ワサビ下ろしですったものを召し上がった。
 又、味醂も、小さい盃で、時々召し上がった。殊に、前栽の松本のものがお気に入りで、瓢箪を持って買いに行っては、差し上げた、という。
 又、芋御飯、豆御飯、乾瓢御飯、松茸御飯、南瓜御飯というような、色御飯がお好きであった。そういう御飯を召し上がっておられるところへ、人々が来合わすと、よく、それでお握りのようなものを拵えて、下された。
 又、柿の葉ずしがお好きであった。これは、柿の新芽が伸びて香りの高くなった頃、その葉で包んで作ったすしである。

御苦労さま

「教祖程、へだてのない、お慈悲の深い方はなかった。どんな人にお会いなされても、少しもへだて心がない。どんな人がお屋敷へ来ても、可愛い我が子供と思うておいでになる。どんな偉い人が来ても、
『御苦労さま。』 物もらいが来ても、
『御苦労さま』 その御態度なり言葉使いが、少しも変わらない。皆、可愛い我が子と思うておいでになる。それで、どんな人でも皆、一度、教祖にお会いさせてもらうと、教祖の親心に打たれて、一遍に心を入れ替えた。教祖のお慈悲の心に打たれたのであろう。
 例えば、取調べに来た警官でも、あるいは又、地方のゴロツキまでも、皆、信仰に入っている。それも、一度で入信し、又は改心している。」と。これは、高井直吉の懐旧談である。

子供の成人

 教祖の仰せに、
「分からん子供が分からんのやない。親の教が届かんのや。親の教が、隅々まで届いたなら、子供の成人が分かるであろ。」と、繰り返し繰り返し、聞かして下された。お蔭によって、分からん人も分かり、救からん人も救かり、難儀する人も難儀せぬようの道を、おつけ下されたのである。

働く手は

 教祖が、いつもお聞かせ下されたお話に、
「世界中、互いに扶け合いするなら、末の案じも危なきもない。仕事は何んぼでもあるけれども、その仕事をする手がない家もあれば、仕事をする手は何んぼでもあるが、する仕事がない家もある。奉公すれば、これは親方のものと思わず、蔭日向なく自分の事と思うてするのやで。秋にでも、今日はうっとしいと思うたら、自分のものやと思うて、筵でも何んでも始末せにゃならん。蔭日向なく働き、人を助けて置くから、秋が来たら襦袢を拵えてやろう、何々してやろう、というようになってくる。こうなってくると、双方たすかる。同じ働きをしても、蔭日向なく自分の事と思うて働くから、あの人は如才ない人であるから、あの人を傭うというようになってくる。こうなってくると何んぼでも仕事がある。この屋敷に居る者も、自分の仕事であると思うから、夜昼、こうしよう、ああしようと心にかけてする。我が事と思うてするから、我が事になる。ここは自分の家や、我が事と思うてすると、自分の家になる。蔭日向をして、なまくらすると、自分の家として居られぬようになる。この屋敷には、働く手は、いくらでもほしい。働かん手は、一人も要らん。」と。又、ある時のお話に、
「働くというのは、はたはたの者を楽にするから、はたらく(註、側楽・ハタラク)と言うのや。」と、お聞かせ下された。

どんな花でもな

 ある時、清水与之助、梅谷四郎兵衞、平野トラの三名が、教祖の御前に集まって、各自の講社が思うようにいかぬことを語り合うていると、教祖は、
「どんな花でもな、咲く年もあれば、咲かぬ年もあるで。一年咲かんでも、又、年が変われば咲くで。」と、お聞かせ下されて、お慰め下された、という。

一つやで

 兵神真明講周旋方の本田せいは、明治十五年、二度目のおぢば帰りをした。その時、持病の脹満で、又、お腹が大きくなりかけていた。それをごらんになった教祖は、
「おせいさん、おせいさん、あんた、そのお腹かかえているのは、辛かろうな。けど、この世のほこりやないで。前々生から負うてるで。神様が、きっと救けて下さるで。心変えなさんなや。なんでもと思うて、この紐放しなさんなや。あんた、前々生のことは、何んにも知らんのやから、ゆるして下さいとお願いして、神様にお礼申していたらよいのやで。」と、お言葉を下された。それから、せいは、三代積み重ねたほこりを思うと、一日としてジッとしていられなかった。そのお腹をかかえて、毎日おたすけに廻わった。
 せいは、どんな寒中でも、水行をしてからおたすけにやらせて頂いた。だんだん人が集まるようになると、神酒徳利に水を入れて、神前に供え、これによって又、ふしぎなたすけを続々とお見せ頂いた。こうして、数年間、熱心におたすけに東奔西走していたが、明治十九年秋、四十九才の時、又々脹満が悪化して、一命も危ないという容態になって来た。そして、苦しいので、「起こせ」とか、「寝させ」とか言いつづけた。それで、その頃の講元、端田久吉が、おぢばへ帰り、仲田儀三郎の取次ぎで、教祖に、お目にかかり、事の由を申し上げると、教祖は、
「寝させ起こせは、聞き違いやで。講社から起こせ、ということやで。死ぬのやない。早よう去んで、しっかりとおつとめしなされ。」と、仰せ下された。そこで、端田等は急いで神戸へもどり、夜昼六座、三日三夜のお願い勤めをした。が、三日目が来ても、効しは見えない。そこで、更に、三日三夜のお願い勤めをしたが、ますます悪くなり、六日目からは、歯を食いしばってしまって、二十八日間死人同様寝通してしまった。その間毎日、お神水を頂かせ、金米糖の御供三粒を、行平で炊いて、竹の管で日に三度ずつ頂かせていた。
 医者に頼んでも、「今度は死ぬ。」と言って、診に来てもくれない。然るに、その二十八日間、毎日々々、小便が出て出て仕方がない。日に二十数度も出た。こうして、二十八日目の朝、妹の灘谷すゑが、着物を着替えさせようとすると、あの大きかった太鼓腹が、すっかり引っ込んでいた。余りの事に、すゑは、「エッ」と、驚きの声をあげた。その声で、せいは初めて目を開いて、あたりを見廻わした。そこで、すゑが、「おばん聞こえるか。」と言うと、せいは、「勿体ない、勿体ない。」と、初めてものを言った。
 その日、お粥の薄いのを炊いて食べさせると、二口食べて、「ああ、おいしいよ。勿体ないよ。」と言い、次で、梅干で二杯食べ、次にはトロロも食べて、日一日と力づいて来た。が、赤ん坊と同じで、すっかり出流れで、物忘れして仕方がない。
 そこで、約一ヵ月後、周旋方の片岡吉五郎が、代参でおぢばへ帰って、教祖に、この事を申し上げると、教祖は、
「無理ない、無理ない。一つやで。これが、生きて出直しやで。未だ年は若い。一つやで。何も分からん。二つ三つにならな、ほんまの事分からんで。」と、仰せ下された。
 せいは、すっかり何も彼も忘れて、着物を縫うたら寸法が違う、三味線も弾けん、という程であったが、二年、三年と経つうちに、だんだんものが分かり出し、四年目ぐらいから、元通りにして頂いた。
 こうして、四十九才から七十九才まで三十年間、第二の人生をお与え頂き、なお一段と、たすけ一条に丹精させて頂いたのである。

大切にするのやで

 明治二十年一月十一日、紺谷久平は、信者一同が真心をこめて調製した、赤い衣服一枚と、赤の大きな座布団二枚を、同行の者と共に背負うて、家を出発し、おぢばに帰らせて頂き、村田幸右衞門宅で宿泊の上、山本利三郎の付添いで、同一月十三日、教祖にお目通りした。教祖は、御休息所の上段の間で寝んで居られ、長女おまさが、お側に居た。
 山本利三郎が、衣服を出して、「これは、播州飾磨の紺谷久平という講元が、教祖にお召し頂きたいと申して、持って帰りました。」と申し上げると、教祖は御承知下され、そこで、この赤い衣服を上段の間にお納め下された。つづいて、座布団二枚を出して、山本が、「これも日々敷いて頂きたい、と申して、持って参りました。」と申し上げると、教祖は、それも、お喜び下されて、双方とも御機嫌宜ろしくお納め頂いた。
 それから仕切りの襖を閉めて、一寸の間、そちらへ寄っておれ、とのことで、山本は下の八畳の間に下りる。紺谷も、共に畏まっていると、おまさが襖を開けて山本を呼んだので、山本が教祖のお側へ寄らせて頂くと、赤衣を一着お出しになって、
「これをやっておくれ。」と、仰せられ、つづいて、
「これは、粗末にするのやないで。大切にするのやで。大事にするのやで。」と、仰せになった。山本は、「きっと、その事を申し聞かします。」とお答えして、八畳の間に下り、紺谷に、教祖から、そう申された、と詳しく話して聞かせた。こうして、紺谷久平は、赤衣を頂戴したのである。

【登場回数順】教祖伝逸話篇登場人物まとめ!