岡本重治郎 おかもとじゅうじろう

岡本重治郎 おかもとじゅうじろう

文政2年(1819)11月25日、大和国山辺郡木堂村(現、天理市柚之内町大字木堂)に、中西嘉平治の二男として生まれた。

永原村の名望家であった岡本家には嫡子がなく、式上郡笠村より、士族の勘兵衛を養子とし、嘉右衛門が生まれた。

嘉右衛門は、天保10年(1839)10月5日式上郡大豆越村の山中彦七の二女ルイを要り、ウメ、重三郎という2子を授かったが、病没した。

そこで、重治郎がルイの養子として迎えられることとなった。

重治郎、ルイの仲も良く、善六(旭日大教会初代会長)を頭に、2男2女をもうけた。

重治郎は、温厚で世話好きな性格であり、推されて、村の総代をも勤めた。

重治郎の入信は、元治元年(1864)1月末、ルイが出里である山中家の長男、忠七の妻そのが不思議なたすけを頂いたのを、目の当たりにしたことに端を発する。

しかし、その数日後、山中忠七より教理の一端を聞き、誘われるままにおぢばに帰り、教祖(おやさま)にお目にかかり、深い感銘を受けたことで心がきまったのである。

その後、重治郎は、農事の合間を見てはお屋敷に参拝し、教祖より教理を聞かせて頂いた。

慶応元年(1865)10月、重治郎47歳の時、入信間もない時であったが、針ケ別所の助造事件が起こると、飯降伊蔵、山中忠七、西田伊三郎らと共に教祖のお伴をして針ケ別所に赴いている。

そして、助造側が奈良の金剛院に救援を求めると、重治郎が使いとなって、山澤良治郎に応援を告げに下山している。

慶応2年には、黒骨の扇を教祖より授かっている。また、慶応3年正月より8月まで教えられた「みかぐらうた」に手振りが付けられたが、最初に教えられた6人の中の一人であるとも言われる(『梅谷四郎兵衛手記』)。

明治10年(1877)頃、身上に障りを頂くが、当時、中山家では蒸風呂兼宿屋を営んでいた時で、早速、教祖の居間の前の8畳の間にて逗留、ほどなく全快した。

そのお礼に居間の畳替えと、教祖の寝具とを献納した。

その際、教祖のお召し物を頂戴した。

明治11年6月19日、出直し。60歳。