天理教人名辞典 村田長平 むらたちょうべい

村田長平 むらたちょうべい

弘化4年(1847)大和国山辺郡前栽村(現、奈良県天理市前栽町231番地)に、父幸右衛門、母いゑの長男として生まれ明治5年(1872)長平は眼が悪く、徴兵の心配がなかった。

当時家の相続人は徴兵免除になっていたので、弟亀松(のち幸助)を相続人とし、長平は財産をもらって分家し、豆腐屋を営んだ。

郡山より妻を迎えて暮したが、身持悪しきより、しばらくして離縁し、長平は亀松の家に帰り一緒に住んでいた。

父幸右衛門は文久2年(1861)に腹痛から入信し、明治初年からほとんど「お屋敷」に詰めるようになった。

明治10年(1877)12月長平30歳の時、父幸右衛門に「にをいがけ」(においがけ)してくれた堀内与助の娘かじを嫁にもらった。

村田家の口伝によれば、明治12年、長平は再び前栽村で豆腐屋をしようと思い、教祖(おやさま)に伺うと、

「そろばんの壷に誓えて諭し置こう、いつかじっくり」

と仰せられたので、夫婦でお屋敷に詰め、農事や手伝いをした。

明治13年にお屋敷で豆腐屋をすることを教祖より許され、11月23日より中山家の綿倉を借りて開業し、同時にお屋敷の手伝いもした。

明治14年に豆腐屋移転について教祖に伺うと

「新立のつづきつづき」

と仰せられ、中山まさのつづきに新築した。

9月に棟上げ、12月に家移りをした。

この時、教祖がお入り込みになり、「前長の命」と書いて水引きをかけた「赤衣」をいただいた。

幸助夫婦も豆腐屋に一緒に住んで、明治15年早々に開業した。

同時に宿屋業も始め、通称「豆腐屋の宿」と呼ばれた。

明治17年頃、警官の弾圧が烈しくなり、お屋敷への出入りが許されず、毎日長平の豆腐屋に主な教弟が集まり、天理教会創立事務所を置いた。

明治18年3月7日には豆腐屋で教会設置の会議が開かれた。

明治19年に父幸右衛門は出直すが、子のない長平は父の「生き通りのひながた」とされる、桝井家の慶蔵を3歳の時から養子にしている。

明治23年9月16日長平は、「神水のさづけ」(さずけ)をいただく。

明治25年頃より身上の患いとなり、10数回の「おさしづ」が伺われている。

明治26年3月4日出直した(46歳)。