天理教人名辞典 松尾市兵衛 まつおいちべえ

松尾市兵衛 まつおいちべえ

松尾市兵衛は天保6年(1835)4月15日、現、奈良県生駒郡平群町自石畑で、野口吾平の長男として生まれた。

安政4年(1857)5月13日、近村、若井村の松尾市郎兵衛の長女はるのところへ婿養子に行き、楢蔵、与蔵、くにの3人の子供があった。

元治元年(1864)くにが生まれた後、はるは出血多量で一時危篤状態にまでなったが、同村の岡仙吉という人から神様のお話を聞き、お願いしたところ、18日目に床上げをするところまでなおり、20日目には夫婦そろって教祖(おやさま)のもとへお礼参拝に出かけた。

松尾市兵衛30歳の時である。

明治5年(1872)7月2日のこと、長男楢蔵の右足の関節に大きな腫物が出来てこまっていたとき、市兵衛は教祖のもとへお願いに上がると、教祖は

「それでは、行ってあげよう」

と仰せになり、この時、教祖は75日の断食の最中であったが、約4里(16km)の道を歩いて赴かれた。

教祖は松尾宅に13日間滞在され、いろいろお話を下さり、7月14日の午後、おぢばへお帰りになった(『稿本天理教教祖伝逸話篇』25-27頁)。

それから松尾夫婦はますます信仰にはげみ、朝の暗いうちから若井村を発って毎日のようにおぢばへ参拝した。

明治7年10月のある日、教祖は仲田儀三郎と松尾に

「大和神社へ行き、どういう神で御座ると、尋ねておいで。」

と仰せになり、2人は大和神社の社務所へ行き、神社の由来を神主にたずねた。

だんだん尋ねているうちに、先方は答えられなくなり、そんな愚説を吐くのは庄屋敷の婆さんであろう、怪しからん話だと怒ってしまった。

後日、石上神宮の神主が教祖のところへ文句をいってきたが、教祖の話に何とも反論できず、奈良県庁へ訴えた。

それが動機となって、明治7年11月15日の山村御殿における取り調べになり、以後、お道(天理教)に対する反対も激しくなるが、教勢はますます活発となり伸びていくことにもなった(『稿本天理教教祖伝逸話篇』115-118頁)。

松尾市兵衛は、明治11年(1878)の夏ごろより病気にかかり、仲田儀三郎、辻忠作、増井りんなどがおたすけに行ったが、明治12年1月17日出直した。45歳。