梅谷梅次郎 うめたにうめじろう
明治10年(1877)4月3日、大阪第3大区(西区)阿波座戸屋町三丁目箱屋町(現、大阪市西区西本町1丁目)に当時浦田姓であった梅谷四郎兵衛、たねの三男として生まれた。
明治14年、梅次郎5歳の時、父四郎兵衛は入信し、明心組の講元となった。
父に連れられおぢばへ参詣したとき、教祖(おやさま)を見て「達磨さん、達磨さん」と言い、次は同伴されなかったが、教祖の言葉により、また帰るようになる。
明治17年、広教尋常小学校入学。明治22年2月、材木屋に奉公したが、10月の船場分教会開廷式後まもなく戻る。
明治23年春から漢学を学び始め、速記術と簿記法、明治31年春からは分教会に師を招き国学も学んだ。
この間の明治25年、分教会の青年を集め神友道楽青年会(後の志道会)を組織。
同じ頃、海外布教を決意、渡航法を研究させている。
明治29年7月、玉置仙太郎が米国へ密航。
明治30年、川田富三郎密航失敗。
明治29年9月、父四郎兵衛はほとんど本部で勤めることになり、分教会世話係となる。
明治31年9月、同副会長。
明治31年11月、分教会役員宮川平三郎の二女小竹と結婚(小竹の姉小梅は飯降政甚と結婚)。
5男3女をもうけた(長男忠雄は明治38年生)。
明治32年5月31日、船場分教会2代会長に就任(22歳)。
明治33年6月、分教会が類焼。敷地を拡張し、建物すべてを新築し、明治35年1月落成奉告祭。
明治35年から再び海外布教を企て、明治37年4月、高見庄蔵が渡米。
また、明治42年4月には高見、正信藤次郎、赤木徳之助がロンドンへ出発。
海外布教の囁矢であったが、大正9年(1920)、高見の帰国を以て終了。
明治44年9月16日、船場は大教会に昇格。この頃、分教会新築後の負債返済のため組織されていた頼母子講が取り調べを受け解決に苦心した。
大正6年9月、妻小竹出直し。
父四郎兵衛の出直し直後の大正8年7月、多久敏と再婚。
同年10月、本部准員。
大正10年10月、本部員。大正11年、福島と北海道の教務支庁長。
倍加運動の中、大教会も立ち直り、大正13年に詰所を移転したが、大正14年2月19日、海外布教の志なかばで出直し(49歳)、20歳の忠雄が跡を継いだ。