天理教人名辞典 松井忠作 まついちゅうさく

松井忠作 まついちゅうさく

松井忠作は明治7年(1874)11月13日、奈良県第4大区第13小区十市郡木原村31番屋敷(現、奈良県橿原市木原町279番地)にて、父忠四郎、母けいの長男として生まれた。

松井家は田地2町5反(2.5ha)を所有する富裕な農家であったが、父忠四郎は遊蕩にふけってほとんど財産を蕩尽して出直し、忠作は無一文の中18歳で松井家を相続した。

明治14年、忠作8歳の時、いかけや夫婦が村里にきた。

松井家の縁側に生まれてまもない赤坊を寝かせて、鍋釜修繕の注文とりをして帰ってきたいかけやの妻の元気な姿に驚嘆したけいは、この夫婦から初めて「庄屋敷村の生き神様」を知り、夫婦に教えられるまま、神棚にお水を供え、「南無天理王命」と唱えお祈りし、お水を頂いたところ、永年苦しみぬいた歯痛が嘘のように癒ってしまった。

けいはまずお礼まいりをと思い、長男忠作に3升の鏡餅を背負わせ、約3里(12km)の道を、おぢばへと急いだ。

おやしきで親しく教祖(おやさま)にお目通りいただき、忠作は「子供には重荷やなあ」と
優しくお言葉をいただいた。

このおことばこそ「重荷をいとうな、重荷こそ親神様から与えていただく理の荷物、徳の種である」と忠作のこれからをつらぬく信仰となっていく。

明治32年忠作は隣村の山口春野と結婚。

弟万治郎が大阪市東区清水谷に独立して鋳物工場を興したので、その仕事をたすけつつ、ここを拠点に布教をした。

教祖30年祭を目標に進められた本部神殿ふしんに用水鉢を献納、「おぢばの天水はみな受けさせて頂く」との思いから後々の用水鉢も献納した。

忠作は教会の教務を後継者の忠義に託し、布教師を連れ東京へ立ち、昼は菓子の製造販売、夜は布教と寝食をも忘れて荒道布教をした。

その思いは衰えることなく部内に伝わり、昭和13年(1938)にはブラジル国サンパウロ州にも教会が設置された。

昭和15年2月10日、部内教会72カ所、教師335名、よふぼく1,945名で、明城大教会に昇格した、忠作が初めておぢばへ帰って以来59年目であった。

昭和26年7月28日、重荷をいとわず荒道布教を志した忠作は東京の順明分教会で出直した。

78歳であった。