天理教人名辞典 平野楢蔵 ひらのならぞう

平野楢蔵 ひらのならぞう

弘化2年(1845)9月3日、河内国高安郡恩智村(現、大阪府八尾市恩智)に、父森石松、母すわの長男として生まれた。

10歳で両親に死別し、姉しかと共に叔父の家で大きくなった。

長じて侠客の仲間に入り、命知らずの性分からめきめきと売り出し、「恩智楢」と呼ばれていた。

明治13年(1880)、大和国郡山洞泉寺町で貸座敷業を営む平野富蔵の養子となり、長女とらと結婚し家業を継いだ。

明治17、18年頃、楢蔵がひどい精神障害で苦しんでいるとき、姉夫婦から天理教の信心をすすめられた。

姉の夫森清次郎は床屋を営んでいたが失明し、人にすすめられて「おぢば」に帰り、「かんろだい」にぬかずいて祈願したところ自然に涙があふれ、頭を上げると不思議に目が見えるようになり、以来、熱心に信仰していた。

明治19年2月、体の調子が良くなり、外出できるようになった楢蔵が、服部川村で賭博の最中、突然の発作で倒れた。

森夫婦の頼みで教輿寺村の講元田中藤七宅で三座の願いづとめを勤めることになり、いよいよおつとめにかかろうとしたとき、それまで4時間も息が絶えていた楢蔵が息をふきかえすという不思議な守護をいただいた。

翌朝、早速お礼参拝に、おぢばへ帰った。

その前日、教祖(おやさま)が

「明日はこの屋敷にどんな者を連れて帰るやわからんで。この者を連れて帰ったことなら、これから先、いかなる働きをするやらしれん。」

と仰せられていたという。

楢蔵は、おぢばに十日あまり滞在して、教祖から、いろいろと話を聞かせていただき、親神の教えを心に治めた。

そのとき、無い命をたすけられたご恩に対して、心からお礼を申し上げ、今後は命のあるかぎり、ご恩報じをしますと誓った。

たすけ一条の道を生きる決心をした楢蔵は、それ以来、「道のまな板・道の台」という信念をもって、火のような布教を展開した。

「おさしづ」において、「危い所まさかの時の台という、俎板という。」(さ37・4・22)と記されているところである。

彼は、どのような反対攻撃のなかでも敢然として進んでいった。

明治19年陰暦5月、稼業を止めて布教に専念するようになった。

同陰暦7月ごろには、初代真柱より「天竜講」の講名を授けられた。

たすけ一条に没頭する楢蔵夫婦に導かれて、入信する人びとが相次いだ。

明治20年陰暦正月26日、教祖が現身を隠されるが、この日のおつとめでは、楢蔵は地方(じかた)の役割をつとめた。

ともあれ、明治20年には早くも、天竜講の道は、大和はもちろんのこと、伊賀、山城、北陸、熊本などへと伸び広がった。

明治21年、教会本部の設置を東京で出願したときには、初代真柱のお伴をして、神戸から船で上京し、帰りは東海道をお伴した。

教会本部の設置が実現されて、天竜講講社に参拝に来る人びとの数も、いよいよ増えて、天竜講は活発に進展した。

そして、同12月、楢蔵は部属教会として最初に郡山分教会の設置を許された。

その後、ますますお道の先頭を切って通り、各地に幾多の部内教会を設立した。

明治25年、教祖の墓地を豊田山に造営するときには、ふしんの委員として、寝食を忘れて、連日、ひのきしんの先頭に立った。

また、明治34年7月、天理教校のふしんが始まると、ふしんの委員をつとめた。

明治40年6月9日、本席飯降伊蔵は、本部神殿建築を急き込みながら出直したが、その直前、楢蔵は本部神殿建築の完成を願って、みずからの病を押して巡教した。

また、本席の十日祭がつとめられた6月16日の夜には、郡山詰所において、本部神殿のふしんについて、郡山などの教会長や信者1.500名に対して、お話を取り次いだが、翌17日の明け方3時に、にわかに病状が改まり、「本部々々」と言いながら出直した。

63歳であった。

楢蔵の仕込みは、なかなか厳しかったといわれる。

おぢばでは、本部員として、また郡山分教会長として、さらに、地方へ巡教に出て働いた。

教祖が現身を隠された後は、本席に仕えて通った。