天理教人名辞典 松田利平 まつだりへい

松田利平 まつだりへい

文政6年(1823)大和国式下郡小坂村(現、奈良県磯城郡田原本町小阪)に生まれ、明治36年(1903)2月に71歳で出直す。

妻ナツ(天保2年(1831)生まれ、通称もよ)は海知村(現、天理市海知町)美並久五郎の実姉。

慶応3年(1867)の「御神前名記帳」4月28日の項に「小阪村利兵衛妻おなつ三十七さん九」と記載がある。

利平夫妻の入信は、元治元年(1864)あるいは慶応元年(1865)の頃か。

利平は通称レイバンまたはどんりとも言われた。

村役を勤め、種屋もやり、その種は不思議によく芽生えるとの評判で、「肥のさづけ」(さずけ)をいただいているとも伝えられ、利平のつくる田は特別違っていたという。

明治7年(1874)頃から同12年頃まで、中山家で蔵の出し入れの役を勤めていたという。

これより以前、利平の娘やす(後に庄屋敷村の乾家に嫁ぐ)は、13歳(明治2年)の時から教祖(おやさま)の飯炊き給仕をし、「おいしい」と大変喜ばれたという。

明治9年8月17日(陰暦6月28日)、利平の願い出により、辻忠作、仲田儀三郎(儀右衛門の後名)、桝井伊三郎等が小阪村へ雨乞に出向く。

「おふでさき」第12号155-156、181-182に記されているのは、この時の雨乞についてであるという(「おふでさき註釈」による)。

明治10年前後の教祖の拘留時には、警察や奈良の宿屋へ差し入れ物などで奔走していたようである。

明治11年結成の真明講「講金預り之通」には明治21年まで掛金の記名があり、明治13年9月の「大和国天輪王講杜連名簿」第2号小阪村の項にも、また明治15年の「甘露台造り」の帳簿にも記載があり、当時熱心に活動していた。

小阪村講社の講元で、心実組副取締(田原本村、新町村、小阪村)である。

しかし明治21年の城法支教会設置請願書には連署せず、支教会の役員にもなっていない。

その代わりか役員には、慶応3年生まれで26歳の利平二男、林田亀蔵が就任している。

長男の松田熊蔵は大阪へ転居。

利平自身、教祖のたびたび警察への拘留を見て将来を案じ、一時信仰心を鈍らせたのであろうか。

公刊本には末我であるが、「おさしづ」を利平には3件(明治23年12月18日、同24年1月10日、同25年3月1日、うち1件はおさづけ拝戴の書き下げ)、妻ナツには1件(明治25年6月1日)下されている。