上原佐助 うえはらさすけ
嘉永3年(1850)4月4日、備中国(岡山県)小田郡笠岡町に、笠原儀七、たけの長男として出生。幼名政太郎。
生家は通称「浜儀」という名の煙草製造販売業であった。
明治8年(1875)、佐助は大阪の伯父上原佐吉の養子となり、明治10年伊賀回(三重県)阿山郡上野町の河合清兵衛の四女とよ(後さとと改名、笠岡大教会初代)と結婚。
15年、畳表商備後屋(通称「備佐」)を相続し、佐助を襲名した。
各地と積極的な商売を展開し、なかでも東京日本橋の「錨清水」(後にここを頼って東京布教に出発)とは巨額の取り引きがあった。
明治13年正月、「床駒」の安藤駒吉から、天理教の話をもれ聞き、数日後来訪した石塚松治郎(琵琶分教会初代)から、「元初まりの話」「十柱の神の守護」「八つのほこり」などの話を聞いて感銘し、佐吉夫婦共々、家族で入信した。
また、妹イシは、数年来の慢性心臓病が1カ月余りで全快し、同年4月、安藤駒吉らとはじめて「おぢばがえり」をした。
翌年4月、教祖(おやさま)から「月日に雲をかいた杯」(笠岡大教会所蔵)を頂き、佐助は「力だめし」を受けた。
同年月のかんろだいの石普請ひのきしん、10月には警察に拘引された教祖を迎えに奈良監獄署に佐吉共々向かい、おぢばまでお供している。
また、明治16年には小松駒吉の天恵組五番結成に尽力し、短期間ではあるが乞われて天恵組二番の講元も勤め、17年には「おふでさき」を筆写し、自宅では月3回の講づとめを盛大につとめていた。
明治16年秋、教祖から「赤衣」を授けられ、「東京々々長崎の道」という言葉にしたがって関東布教を志し、家族とも別れ、同郷の奉公人椿卯之助を連れ、「赤衣」「みかぐらうた本一冊」「お紙一把」を持って、明治18年7月24日神戸から海路東京へ向かった。
佐助はまず下谷金杉下町に居を定めて「にをいがけ」(布教)を始めた。
たまたま、腹一面が真っ赤になるほどの腫れ物が出来たが、「お紙」を貼って平気で風呂に出かけ、これが話題となって、たすけを求める人がでてきた。
上京した明治18年の秋には、吉原方面に教練が広がった。
その年の暮れまでに常に2、30人の人が寄り集い、手狭になったので、翌19年4月頃金杉上町に移った。生活は苦しかったが、不思議な珍しいたすけは至る所に現れ、寄りくる人々は増え、同年11月には竜泉寺に移った。
布教線は秋田県本庄にまで及んでいた。
さらに、「みかぐらうた」を印刷(19年)し、毎月6の日を寄り日としておっとめをし、てをどりも教えた。
明治20年2月2日付けの手紙で、教祖が現身を隠されたことを知り、佐助はその返信の中で、教祖の日頃の教え通り「おつとめ、おたすけ、つくしはこび」の固い決意を述べている。
明治21年1月には、吉原講社の信者長崎屋の寮で働いていた富永つた(通称つね)と結婚。つたは宇都宮市和泉町富永弥平の三女で、長崎屋の入信に伴って24歳で入信。
質実本位の人で、信仰と生活を遊離させず、日々これ信心という生活の人だった。
明治21年、いよいよ東京で天理教会公認を受けることになり、講社を挙げてこれに全力を注ぐことになった。
明治21年4月10日天理教会所が認可され、同年7月天理教会本部がおぢばに移された。
そのあとに「天理教会本部出張所」が置かれたが、「おさしづ」に基づいて明治22年10月14日東分教会に引き直され、佐助が会長となった。
明治24年4月1日本席飯降伊蔵が東分教会に入り込まれ、同4月5日「清水(せいすい)のさづけ」を頂いた。
この「清水のさづけ」によって珍しいたすけが次々現れ、教えは関東だけでなく、東北や四国へと及んだ。
明治33年本部員になり、35年11月19日一家でおぢばに引き移った。
明治45年3月11日義彦(東大教会2代会長)と対話中、軽い咳を3つして端座したまま、63歳で出直した。