第九章 御苦労 天理教教祖伝

やまさかやいばらぐろふもがけみちも
つるぎのなかもとふりぬけたら  一 47
まだみへるひのなかもありふちなかも
それをこしたらほそいみちあり  一 48
ほそみちをだん/\こせばをふみちや
これがたしかなほんみちである   一 49
このはなしほかの事でわないほとに
神一ぢよでこれわが事   一 50

おふでさき

 明治十五年は、一旦頓挫したとはいえ、石普請の明るい感激につゞいて迎えられた。しかも、この年の初めから、教祖は、

「合図立合い、/\。」

と、屡々仰せられた。

そばの者が、どういう事が見えて来るのか知ら、と心配して居ると、二月になって、教祖はじめ、まるゑ、山沢良治郎、辻忠作、仲田儀三郎、桝井伊三郎、山本利三郎の人々に対して、奈良警察署から呼出しが来た。

その結果、教祖には二円五十銭、その他の人々には、一円二十五銭宛の科料の言渡しがあった。

この時、警官は、本官がいか程やかましく取り締るとも、その方等は聞き入れない。

その方等は根限り信仰致せ。その代りには、本官も根限り止める。根比べする。と言うた。

これより先、飯降伊蔵の妻子は、前年の九月から既にお屋敷へ移り住んで居たが、三月二十六日(陰暦二月八日)、伊蔵自身も櫟本村を引き払うてお屋敷へ移り住み、こゝに、一家揃うてお屋敷へ伏せ込んだ。

五月十二日(陰暦三月二十五日)、突然、大阪府警部奈良警察署長上村行業が、数名の警官を率いて出張して、二段迄出来て居たかんろだいの石を取り払うて、これを没収し、更に、教祖の衣類など十四点の物品をも、併せて没収した。

         差押物件目録(註一)
一 石造甘露台                一個
   但二層ニシテ其形六角
    上石径二尺四寸下石径三尺二寸厚サ八寸
一 唐縮緬綿入                一枚
一 唐金巾綿入                一枚
一 唐縮緬袷                 一枚
一 仝単物                  弐枚
一 仝襦袢                  弐枚
一 唐金巾単物                一枚
一 縮緬帯                  一枚
一 寝台                   一個
一 夜具                   一通
   但 金巾ノ更紗大小貮枚
一 敷蒲団 但坐蒲団ヲ云           一枚
一 赤腰巻                  弐個
右ハ明治十四年十月中祈祷符呪ヲ為シ人ヲ眩惑セシ犯罪ノ用ニ供セシ物件ト思料候条差押者也
 明治十五年五月十二日
               大和国山辺郡三島村ニ於テ
                  大坂府警部 上村行業  印
                  立会人
                     山辺郡三島村平民
                        中山マツヘ 印
                  立会人
                     仝郡新泉村平民
                        山沢良治郎 印

こうして、親神の多年待ち望まれた、かんろだいの石普請は、頓挫に次いで取り払われた。

それをばななにもしらさるこ共にな
とりはらハれたこのさねんわな  一七 38

おふでさき

このざねんなにの事やとをもうかな
かんろふ大が一のざんねん          一七 58

おふでさき

このように、親神の意図を悟り得ぬ者により、かんろだいの石を取り払われたのは、子供である一列人間の心の成人が、余りにも鈍く、その胸に、余りにもほこりが積もって居るからである。とて、

このさきハせかへぢううハとこまでも
高山にてもたにそこまでも          一七 61
これからハせかい一れつたん/\と
むねのそふちをするとをもへよ        一七 62

おふでさき

これから先は、世界中悉く、地位身分の高低に拘らず、次々と、一列人間の胸の掃除をする、と、強く警告して、切に、人々の心の成人を促された。

これと立て合うて、「いちれつすまして」の歌を教え、一列人間の心のふしんを急込まれた。

二段迄出来たかんろだいの石が取り払われた後は、小石が積まれてあった。

人々は、綺麗に洗い浄めた小石を持って来ては、積んである石の一つを頂いて戻り、痛む所、悩む所をさすって、数々の珍らしい守護を頂いた。

この頃から、刻限々々のお話がふえ、おふでさきは、

これをはな一れつ心しやんたのむで      一七 75

おふでさき

を以て、結ばれて居る。

今後は、何人も皆、おふでさきに照らして、親神の心に従うよう、時旬を違えぬよう、よく/\思案し、確り心を定めて、勇んで陽気ぐらしをするように、との親心を述べて、懇ろに将来の覚悟と心得とを諭されると共に、刻限々々のお話を以て、お仕込み下されるようになった。

こうして、教祖は、たすけづとめの完成を急込まれた。

官憲の取締りは、先ず、つとめに集中し、かんろだいを取り払うて後は、教祖の御身に集中した。

この年六月十八日(陰暦五月三日)、教祖は、まつゑの姉おさく身上の障りに付、河内国教興寺村の松村栄治郎宅へ赴かれ、三日間滞在なされた。

前年の九月二十三日(陰暦八月一日)中山家へ入籍した真之亮は、この年九月二十二日(陰暦八月十一日)付、家督を相続した。

かんろだいの石取払い以後、官憲の圧迫は尚も強化される一方であったが、それには少しの頓着もなく、教祖は、依然としてたゞ一条に、たすけづとめを急込まれ、十月十二日から十月二十六日まで(陰暦九月一日から仝十五日まで)、教祖自ら北の上段の間にお出ましの上、毎日々々つとめが行われた。

この頃、大阪府泉北郡で、信仰の浅い信者達の間に、我孫子事件が起って、警察沙汰となった。

当時お屋敷では、人々が大そう心配して、親神の思召を伺うと、

「さあ海越え山越え/\/\、あっちもこっちも天理王命、響き渡るで響き渡るで。」

との事であった。

これを聞いて、一同は辛うじて愁眉を開いた。

更に、陰暦九月九日、節句の夜に、大阪で泉田藤吉が、熱心のあまり警官を相手に激論した。

この夜同時刻に、

「さあ/\屋敷の中/\。むさくるしいてならん/\。すっきり神が取払ふで/\、さあ十分六だい何にも言ふ事ない、十分八方広がる程に。さあこの所より下へも下りぬもの、何時何処へ神がつれて出るや知れんで。」

と、仰せられた。

人々は、このように毎日おつとめをして居ても、よくもまあ、引張りに来ぬ事や、と、思うて居たが、この両事件が痛く警察を刺激して、大阪府から奈良警察署へ指令が来た。

お屋敷では、十月二十六日(陰暦九月十五日)のおつとめの際、ふとした機みで、つとめ人衆の一人前川半三郎が、辻とめぎくの琴の上に躓いて倒れ、山本利三郎は、お供えの餅米を間違えて飯に炊いた。

人々は、何となく、変った事が起らねばよいがなあ、と思って居た処、翌二十七日(陰暦九月十六日)、奈良警察署から、警官が、村の足達秀治郎を同行して取調べに来た。

この時、曼陀羅をはじめ、祭祀用具一切から、神前にあった提灯や、座敷にかけてあった額迄取り払うて、村総代の所へ運ばせた。居合わせた人々は、梶本、梅谷、喜多、桝井等である。

翌々日、即ち、十月二十九日(陰暦九月十八日)、教祖初め、山沢良治郎、辻忠作、仲田儀三郎、山本利三郎、森田清蔵を、奈良警察署へ呼び出した。その日未明、教祖お一人は、大阪の水熊の人力車に乗って、他の五名の人々は、間道を歩いて奈良へ行かれた。

さて、警察署では、教祖初め一同の人々は、拘留の申渡しを受けられた。お迎えに行つた真之亮初め多数の人々が、警察署の門前で待って居ると、やがて、御一行は巡査に付き添われて北の方へ行かれるので、随いて行くと、そのまゝ監獄署の門を入られた。

十七歳の真之亮は、高井を連れて、毎朝一番鶏の声と共に、お屋敷を出て差入れに行った。所用万端を済ませて奈良を出発する頃は、いつも夜になって居た。

梅谷、梶本等も差入れに行った。

前川半三郎も行った。沢田権治郎、中山まさも行った。

勿論、皆徒歩である。又、一般信者の差入れは、毎日引切りなく続いた。

お帰りの前日には、空風呂へ薬袋を抛り込むという悪企みをされたが、早速気付いて、事なく済んだ。

この時は、明治八年以来の、長い御苦労であったが、この間、教祖は、監獄署のものは水一滴も口になさらず、しかも元気で、十一月九日(陰暦九月二十九日)、お屋敷へ帰られた。

教祖お帰りの時は、お迎えの人力車は百五、六十台、人は千数百人。

よし善で休憩の上、人力車を連ね、大勢の人々に迎えられて、お帰りになった。

この日、奈良丹波市近辺に、空いて居る車は一台も無かったという。

教祖の御一行は、前日に召喚されて、帯解の分署で一日留置の上、奈良監獄署へ送られる飯降伊蔵と、奈良の文珠の前で行違うたが、この時、伊蔵は、大声に、行ってくるで。

と言った。

その声に応じて、娘のよしゑは、家の事は心配いらぬさかえ、ゆっくり行てきなはれ。

と言うた処、伊蔵は、大いに安心して悠々と引かれて行った。この拘引の理由は、弟子音吉の寄留届を怠ったから、と、言うのであったが、十八日迄十日間の拘留を申し渡された。

教祖が帰宅されて後、つゞいて、乙木村の山中忠三郎も呼び出され、同じく十日間の拘留に処せられた。

この少し前から身上勝れなかったまつゑは、教祖お帰りの直後、十一月十日(陰暦九月三十日)、三十二歳を一期として出直した。

又、この年四月一日以降、飯降おさとの名義になって居た蒸風呂は、悪企みされたのを機に、即日廃業した。

同じく宿屋業も、十一月十四日(陰暦十月四日)頃廃業した。

教祖は、廃業については、

「親神が、むさくろしいて/\ならんから取り払わした。」

と、仰せられ、又、拘留については、

「連れに来るのも親神なら、呼びに来るのも親神や。ふしから大きいなるのやで。」

と、仰せられ、更に、

「何も、心配は要らんで。この屋敷は親神の仰せ通りにすればよいのや。」

と、諭して、徒らに眼前の出来事に驚く事なく、刻々現われて来る事の中に親神の思召を悟り、ふしから出て来る芽を楽しみに、時旬の理に添うて勇んで働け、と教えられた。

取払いと同時に、今迄ほこりを重ねて来た人々は皆、身上にお障りを頂いた。

それを見て、人々は、成程、これが合図立合いと、かね/\仰せられて居た事であるなあ、屋敷の掃除とはこの事か。と、感じ入った。

地福寺との間も、この年十二月十四日付、本日限り引払致候、との一札を受け取って、綺麗さっぱりと解決した。(註二)

当時、お屋敷に常住して居たのは、教祖、真之亮、たまへ、ひさで、他に詰めて居た人々は、仲田、山本、高井、宮森、桝井、辻、山沢、飯降、梶本、梅谷、喜多等であった。

明治十五年の御苦労の時、監獄から支給の食物は、何一つとして召し上らず、断食一週間以上に及んだ時、獄吏が心配して、婆さん、一寸手を出して御覧。と言った。

教祖は、言うがまゝに手を出し、更に、言うがまゝに先方の手を握られた。

獄吏が、それだけしか力がないのか。と言うと、教祖はにっこり笑うて、手に力をお入れになった。

手が痛む程の強さであったので、獄吏は驚いて、あゝ、もうよし/\。と、恐れ入った。

真之亮の手記に、

 ○此時分、多キトキハ夜三度昼三度位巡査の出張あり。而して、親族の者たりとも宿泊さす事ならぬ、と申渡し、若し夜分出張ありしトキ、親族の者泊まりて居りても、八ケ間敷説諭を加へ、昼出張ありし節、参詣の人あれバ、直ちニ警察へ連れ帰り、説諭を加へたり。然るニより、入口/\ニハ、参詣人御断り、の張札をなしたるも、信徒の人参詣し、張札を破るもあり。参詣人来らざる日ハ一日もなし、巡査の来らざる日もなし。
 ○教祖様休息所ハ、十五年十一月より普請ニ掛かれり。
 ○真之亮ハ、十五、十六、十七ノ三ケ年位、着物ヲ脱ガズ長椅子ニモタレテウツ/\ト眠ルノミ。夜トナク昼トナク取調ベニ来ル巡査ヲ、家ノ間毎/\屋敷ノ角々迄案内スルカラデアル。甚ダシキハ、机ノ引出し箪笥戸棚迄取調ベナシタリ。巡査一人ニテ来ル事稀ナリ。中山家ニ常住スルモノハ、教祖様、真之亮、玉恵、久ノミナリ。

と、真之亮は、当時、お屋敷に在住して居た家族中、たゞ一人の男子で、同時に戸主でもあったから、十七歳から十九歳に亙る若い年輩ながら、一切の責任者として、その巡査達と応待したのである。

明治十五年には、信仰し始めた人々の数も夥しかった。中にも三月には、大和国北檜垣村の鴻田忠三郎が、夏には、大阪の小松駒吉が、それぞれ信仰し始めた。

このように、この年は反対も激しかったが、それにも拘らず、親神の思召は、ずん/\と勢よく伸び弘まった。

明治十五年三月改めの講社名簿によると、

神清組(教興寺村)、天神組(恩知村)、神恵組(法善寺村)、神楽組(老原村)、敬神組(刑部村)、清心組(国分村)、神徳組(飛鳥村)、榊組(太田村)、一心組(西浦村)、永神組(梅谷村)、平真組(平野郷)、真実組(大和国法貴寺村、海知村、蔵堂村、檜垣村)、天恵組(大阪)、真明組(大阪)、明心組(大阪)、信心組(大阪)、真実組(堺)、心勇組(大和倉橋村出屋舗方講中)、誠心組(同国佐保庄村講中)、信心組(同国忍坂村講中)、神恵組(堺桜之町講中)

以上、大和国五、河内国十、大阪四、堺二の講社が結ばれて居り、その他この名簿には見えないが、この以前からあったものに、天元、積善、天徳、栄続、朝日、神世、明誠等がある。当時、講元周旋の人々は、山城、伊賀、伊勢、摂津、播磨、近江の国々にもあり、信者の分布は更に遠く、遠江、東京、四国辺りにまで及んだ。

反対や取締りが激しくなるに連れ、人々の信仰はいよ/\白熱し、教勢は一段と盛んになった。そして、これ程御苦労下さる教祖に、何とかして、少しでもゆっくりお休み頂きたい、との真心が凝って、御休息所の普請となった。

明治十六年になると、警察は、人を寄せてはならぬ。と、一層厳しい圧迫を加えた。中でも、三月(陰暦二月)、六月(陰暦四月)、八月(陰暦七月)等のふしは、いずれも忘れ難い出来事である。

同年三月二十四日(陰暦二月十六日)、突然、一人の巡査が巡回にやって来た。

その時偶々、鴻田忠三郎が、入口の間でおふでさきを写して居り、他に泉田藤吉外数名の信者も居合わせた。

巡査が言った。貴様達、何故来て居るか。と。

参詣の人々は、私共は親神様のお蔭で守護を頂いた者共で、お礼に参詣して参りました処、只今参詣はならぬと承わり、戻ろうと致して居ります。と答えた。

次に、巡査が鴻田に対して、貴様は何して居る。

と問うた。鴻田は、私はこの家と懇意の者で、かね/\老母の書かれたものがあると聞いて居りました。農事通信委員でもありますから、その中に、良い事が書いてあらば、その筋へ上申しようと、借りて写して居ります。と答えた。

実際、忠三郎は、既に三月十五日付を以て大蔵省宛に建言書を提出して居たのである。(註三)

すると巡査は、戸主を呼べ。と言った。

丁度、真之亮は奈良裁判所へ出掛けて留守であったので、その旨を答えると、戸主が帰ったら、この本と手続書とを持参して警察へ出頭せよ。と申せ。

と言うて引き揚げて行った。帰ってこの事を聞いた真之亮は、当惑した。

ここでおふでさきを持って行って、没収でもされゝば、それ迄である。

と気付いたので、おまさ等にも話して、どんな事があっても、この書きものを守り抜こうと決心した。

そこで、その本はおまさ、おさとの二人が焼いたという事にして、手続書だけを持って、出頭した。

すると、蒔村署長は、鴻田の写して居た本を持参したか。と、問うたので、その本は、巡回の巡査が、そのようなものは焼いて了え、と申し付けられましたから、私の不在中、留守番して居りました、伯母おまさと、飯降おさとの両人で焼いて了いました。と答えると、署長の側に居た清水巡査が立ち上り、署長、家宅捜索に参りましようか。と言った。

真之亮は冷やっとした。

けれども、署長は、それに及ばぬ。と。

つゞいて、署長の問うには、お前方に来て居た人は、何処の者で、何と言う人か。と。

これに対して、私は不在でしたので存じません。と答えると、自分の家に来て居る人々を知らぬと申すは、不都合ではないか。

とて、真之亮を、その夜留置した。

そして、真之亮、おまさ、おさとは皆、それ/\手続書をとられた。

手続書
一、昨廿四日午前十時頃当分署ヨリ御巡廻ニ相成候砌御見廻被下候際私宅ヱ御立寄りニ相成参詣人有之趣ニ付手続書可差出旨御口達ニ依り有体奉申上候此義兼テ御差留有之ニ付断申居且又参詣之義ハ断ルノ書附等モ表口ニ張置有之候ニ付参詣人ハ決テ無御座候程て御座候然ルニ私儀ハ本月廿三日ヨリ奈良裁判所エ出頭仕居候留主中ニテ参詣人有無存シ不申候得共帰宅之処手続書差出可旨御達ノ趣承家内ヘ尋問候処仝国式上郡檜垣村鴻田忠三郎ナル者天輪王命由来書披見致度等被申ルヽニ付見セ居候
其節何国ノ者歟五六名程在来御座候得共見知ヌ者ニ有之候其際巡廻之御方ヨリ右天輪王ニ属スル書類ハ焼可捨様御達ニ依り私仝居罷有候飯降伊蔵妻さとナル者右忠三郎披見ノ書類即時焼捨申候義ニ御座候手続書ヲ以此段有体奉上申候也
 明治十六年三月廿五日
                   山辺郡三嶋村
                      中山新治郎
丹波市分署御中

こうした厳しい取締りの中にも、同年五月、御休息所の棟上げが行われた。

同年六月一日、陰暦四月二十六日、参詣人取締りのため警官の出張を頼んだ。

すると、三名の巡査が出張して来たが、参詣人が多くて引も切らぬので、午後になって、更に、私服が二名やって来た。

午後三時頃、この五名が打連れて布留の魚磯という料理屋へ行き、一杯機嫌で再びやって来て、直ちに神前に到り、三方の上に供えてあった小餅に、一銭銅貨が一枚混って居たのを口実に、真之亮を呼び出した。

その時の状況を誌した真之亮の手記には、

巡査の云へるニハ此餅の中ニ一銭銅貨の入れあるハ、定めし本官等が他所巡回中ニ参拝させたのであろ(巡査の出行きし頃ハ参詣人も少なかりしなり)。真之亮答えるニハ「アナタ」方御出ましニなりし時分ハ参詣の人も極小数でありましたから、私ハ門ニ附いて居り升て一人も入れません、と申したり。(最も一人も入れざりしなり)。巡査ハ怒りて、小餅を壁土の中へ投げ込み、神の社及び祖先の霊璽迄、火鉢ニて焼き、而して己れ等の失策ニならざる様ニ真之亮ニ手続書を書かせて持ち帰れり。而して其手続書ハ巡査が文案して書かせり。尤も文案ハ口上ニて申せり。と、誌して居る。簡明な叙述の中に、何とも言えない当時の様子がまざまざと甦って来る。

         手続書
                        五番地
                         中山新治郎
右私儀明治十六年五月卅一日届書ヲ以テ今六月一日即チ旧四月廿六日ハ天輪王祭日ニ相当成ルニ付遠近諸国ノ人民御政体ノ御趣意ヲ弁エズ参詣スルモノ数多ナルニ付私戸主付右参詣人制スルト雖モ到底私一人ノ力難及候ニ付昨三十一日該御分署へ御出張ノ上右参詣愚昧ノ者共エ御説諭成被下候様願出本日午前第九時ヨリ御出張相成参詣人ハ勿論家宅内不審ノ場所ト巡視相成私先祖亡霊ヲ祭祀致候処御出張ノ際取除グベキ様御説諭ニ預り其後午後ニ至り再ビ御出張ニ相成右場所矢張従前儘差置キ候付御説諭ノ趣意相不守候付断然右祭祀シタル物品没収相成候段奉恐入候以後右物品ニ付不服申間敷為メ私御焼却ノ際原場ヘ立会ノ上証認仕候尚以後御巡視ノ際家宅ニ於而不審ノ件々有之候際ハ即時御没収被命候共決し而不伏等申間敷候依而之ニ右手続書如斯ニ御座候也
 明治十六年六月一日
                   山辺郡三嶋村
                      中山新治郎
 丹波市御分署御中

明治十六年は、年の初めから厳しい取締りがつゞき、昼も夜も巡査の回って来ない日とては無かったが、この夏は、近畿一帯に亙っての大旱魃であり、三島村も長い間の旱魃つゞきで、田圃にはひゞが入り、稲は葉も茎も赤くなって、今にも枯れん有様と成った。

村人達は、村の鎮守にお籠りして、三夜に亙って雨乞をしたけれども、一向に験めが見えない。

そこで、村の人々は、お屋敷へやって来て、お籠りをさして下され。と頼んだ。年来の厳しい取締りで、参詣人は一人も寄せつけてはならぬ。

おつとめをしてはならぬ。

おつとめをしたら、教祖を連れて行く。

と言われて居た頃であるから、お屋敷では、当局の取締りの厳しい旨を述べ、言葉を尽して断った。

しかし、村人とても、万策つきた場合であったから、お籠りさして貰う訳に行かぬなら、雨乞づとめをして下され。

氏神の境内にておつとめして下され。と、一昼夜退かなかった。

その上、警察から取調べに来たら、私達が頼んだのであると言うて、決して御迷惑はかけません。と、繰り返し/\懇願した。

そこで真之亮も気の毒に思い、教祖に伺うと、お言葉があって、

「雨降るも神、降らぬのも神、皆、神の自由である。心次第、雨を授けるで。さあ掛れ/\。」

と、仰せられた。

そこで、村総代の石西計治と相談して、先ず、村の氏神の境内に集まる事とし、一同準備をとゝのえ、八月十五日(陰暦七月十三日)の午後四時頃、お屋敷を立ち出で、氏神の境内へと向った。

この日は、朝から晴天で、空には一点の雲もなかった。  

真之亮と飯降伊蔵の二人はお屋敷に留まり、かんろだいの所で一心にお願した。

当日、雨乞づとめに参加の人々は、辻忠作、仲田儀三郎、同かじ、桝井伊三郎、高井直吉、山本利三郎、岡田与之助、沢田権治郎、博多藤平、村田かじ、中山重吉、西浦弥平、飯降よしゑ、辻とめぎく、音吉等である。

男女とも、教祖のお召下ろしの赤衣を、差渡し三寸の大きさに切り、十二弁の縫取りした紋を、背中に縫いつけて居た。

かぐらの、獅子面二、面八、鳴物九を、それ/\この人数に割りつけた上、氏神の境内に集まり、それから三島領の南の方を廻って、先ず、巽(東南)の角、当時牛はぎ場と言うて居た所で、雨乞づとめをした。

あしきをはらうて どうぞ雨をしっかりたのむ 天理王命 なむ天理王命 なむ天理王命

繰り返し/\、心を合わせ精魂を打込んで勤めた。

次に、坤(西南)の角、即ち、村の西端れ、布留街道の北側で勤めた。

この頃、東の空にポツンと一点の黒雲が現われた。

つゞいて乾(西北)の角で、つとめに取り掛った時に、墨をすったような黒雲が東山の上から忽ちにして空一面に広がり、篠つくような大雨が雷鳴さえもまじえて降り出し、激しい大夕立となって来た。つとめに出た人々や村人達の嬉しさは、譬えるにものもない。

面をも貫くかと思われる豪雨の中を終りまで勤め、更に、艮(東北)の角で、びしよ濡れのつとめ着のまゝ、袂に溜る雨水を打捨て/\勤めた。

つとめを了ってから、一同が氏神の境内で休んで居ると、村人達も大そう喜び、かんろだいの場所でお礼さして貰いたい、と言って来た。

そこで、かんろだいの所へ帰って来て、皆揃うてお礼の参拝をして居ると、丹波市分署から数名の巡査が駈けつけて来た。そして、何をして居るか。と言うから、村の頼みで雨乞致しました。

と答えた。それなら村役人を呼んで来い。との事で、来るには来たが、巡査が、雨乞を頼んだか何うか。と尋問すると、その場の空気に怖れをなして、知りません、頼みません。と、言い遁れた。

そこで雨乞づとめに出た一同は、ズブ濡れのまま拘引された。

ちようど、三島の川筋は番破れとなり、川上の滝本村の方で水喧嘩が出来たので、二人の巡査はそちらへ駈けつけ、あとに残った一人の巡査に連れられて、一同腰縄付き、両端の二人は縄を結びつけ、余の者は帯に縄を通して、布留街道を西へ丹波市分署へと向った。

この時、誰しも不思議に思ったのは、隣村の豊田、守目堂、川原城など、ごく近い村々が、ホンの少しバラ/\とした位で、雨らしい雨は殆んど降らなかった事である。

分署では、だん/\と取調べられたが、かぐらの理を説くには、教理を説かねばならず、教理を説くには、どうしても、教祖に教えて頂いたという事が出て来る。

又、雨乞づとめに、よしゑ、とめぎくの二人が、赤い金巾に模様のある着物を着て居たから、人の目について居たため、警察は、教祖も雨乞づとめに出られたと思ったらしい。

一方、お屋敷に残った人々も、何となく不安に思って居ると、その日の午後九時頃、突然一人の巡査がやって来て、教祖を拘引しようとした。

その時、おまさが側に居たので、何故、老母をお連れになりますか。と、勢激しく聞いたはずみに、思わず知らず、手が巡査の洋袴に触れた。

すると巡査は、何故とは不都合千万である。

老母に尋問する事があるから、連れに来たのだ。

しかるに、その方は、何故、巡査をたゝいた。老母と同道で来い。と言うて、とも/\連行した。

そして、だん/\と教祖に尋問した処、お言葉があって、

「雨降るのも神、降らぬのも神の自由。」

と、仰せられた。警官は、雨乞づとめをして、近村へ降る雨まで皆、三島村へ降らせて了ったという理由により、水利妨害、又、街道傍でつとめをしたから道路妨害、という名目で、教祖には二円四十銭の科料、辻、仲田、高井等は、六十二銭五厘、その他の人々は五十銭の科料、他におまさには、巡査をたゝいたとて一円の科料を申し渡した。

人々は皆、深夜午前二時過ぎに釈放されたが、教祖だけは徹夜留置となり、午前十時頃迄御苦労下された。(註四)

この事があって一週間ほど後、即ち八月二十一日(陰暦七月十九日)、河内国刑部村から頼まれて、松田宅で雨乞をしたが、その時に行った人は、高井、桝井、辻、宮森、博多等であった。

この時も、巡査が来たので、皆、老原村へ逃げたが、その時、高井は紙入を落した。それを巡査が拾うて調べて見ると、丹波市分署で科料を払った受取りがあったので、高井だけが呼び出され、一円五十銭の科料に処せられた。

同じ頃、山本利三郎は、河内国の法善寺村で、講元、周旋等を集めて、雨乞をしたが、この方は無事であった。

こうして、十六年の夏は、雨乞で大そう賑わった。

取締りも厳しかったが、拘引されても説諭されても科料を取られても、しかも尚、人々の信仰は一層勇み立ち、一段と元気付く一方であった。

同年十月十六日(陰暦九月十六日)には、巡査が二名出張して来て、尋問の筋あり。と、称して、教祖を引致し、教祖のお側にあった屏風と、戸棚の中にあった毛布とを、犯罪の用に供したものである。

と、言うて、封印して戸長の石西計治方へ運ばせた。

この秋に、普請中であった御休息所は、内造りが完成した。三間に四間の建物で、四畳八畳の二間である。

教祖は、十一月二十五日、陰暦十月二十六日の夜、親神のお指図のまに/\、刻限の来るのを待って、中南の門屋から新しい御休息所へ移られた。

この日の夕方、教祖は夕飯を召し上ってから、着物をお召替えになり、じっと刻限の来るのをお待ちになった。そこへ取次が、用意が整いました。と、申上げに来る。

庭にはもう、お迎えの人々が、提灯に灯を入れてズラッと並んで居る。

しかし、教祖は、

「そうかや、用意が出来たかや。刻限が来たら、移りましような。」

と、仰しやっただけで、尚もじっと台の上にお坐りになって居る。

用意は出来た。

人々は今か今かと待って居る。

しかし、教祖は、ひたすらに刻限の来るのを待って居られる。

人間心からすれば、直ぐにもお移り頂けば早く済むのに、とも考えられるが、親神の思召の前には、いかなる事にも振り向こうともなさらぬ教祖。

その教祖の様子に、月日のやしろの面影があり/\と偲ばれる。

こうして何時間かゞ経った。

教祖が、

「さあ、刻限が来た、移りましよう。たまさんおいで。」

と、孫のたまへに仰しやったのは、真夜中頃であった。

お渡りになる両側には、信者の人々が、真明組、明心組、その他それ/\講名入りの提灯をつけて、庭一杯になって待ち受けて居る。

その中を、両側の提灯の光に照らされて、当年八十六歳の教祖が、七歳の嫡孫たまへの手を引かれ、そのたまへのもう片方の手は、外孫である梶本ひさが引いて、静々と進んで行かれると、居並ぶ人垣の間からパチ/\と拍手の音が起り、教祖が歩みを進められるにつれて、その音は次々と響いた。

後年、たまへは、あの時には、訳は分らずながら、おばあ様に手をつながれてお供した。

今考えると短い距離やが、あの晩は相当長かったように思うた。と、述懐した。

やがて、御休息所に着かれた教祖は、静かに上段の間に坐られた。そして、真之亮とたまへに、

「こゝへおいで、こゝへお坐り。」

と、仰せられて、自分の左右におすえになった。

それから御挨拶が始まった。一々襖を開けたり閉めたりして、只今は、真明組で御座います。

只今は、明心組で御座います。と、次々と取次から申上げて、幾回となく御挨拶が続き、その夜はとう/\徹夜であった。

人々の真心のこもった御休息所、しかも刻限を待って初めてそこへ入られた教祖にお目に掛って、人々の心は、霜の置く寒夜にも拘らず、明るい感激に燃え立った。

この明治十六年には、道が、遠い国々に迄伸びて、多くの人々が随いて来た中に、二月には遠江の諸井国三郎が、五月には、神戸の清水与之助が、それ/\信仰し始めた。

又、同じくこの年、大和国倉橋村の上村吉三郎が、大阪からは寺田半兵衞が、それ/\信仰し始めた。

年が明けると明治十七年。教祖は八十七歳に成られる。

年の初めから相変らず厳しい取締りの日々が続いたが、三月二十三日、陰暦二月二十六日の夜十二時頃、突然二名の巡査が、辻忠作を伴うてお屋敷へやって来た。

それは、同夜お屋敷へお詣りした忠作が、豊田村へ戻ろうとして、鎮守の杜の北側の道を東へ急いで居た時に、この二名の巡査に行き会い、咎められたので、用事あって中山家へ参り居まして、たゞ今戻る処で御座ります。と答えたため、同人を同道して取調べに来たのである。

その時ちようど、教祖のお居間の次の間に、鴻田忠三郎が居り、其処に御供もあり、又、鴻田が古記と唱えて書いて居たものもあったので、巡査は帯剱を抜いて、この刀の錆になれ。と言うて脅かした。

その上、翌日になると、御供と書きものを証拠として、教祖と鴻田を分署へ拘引しようとて、やって来た。

教祖は、拘引に来た巡査に向い、

「私、何ぞ悪い事したのでありますか。」

と、仰せられた。巡査は、お前は何も知らぬが、側について居る者が悪いから、お前も連れて行くのである。と言った。

教祖は、

「左様ですか。それでは御飯をたべて参ります。ひさやこのお方にも御飯をお上げ。」

と、言い付けなされ、御飯を召し上り着物を着替え、にこ/\として巡査に伴われて出掛けられた。

分署では、先に見付けた御供と書きものとを証拠として、教祖には十二日間、鴻田には十日間の拘留を申し渡し、奈良監獄署へ護送した。

こうして、三月二十四日から四月五日まで(陰暦二月二十七日から三月十日まで)、監獄署で御苦労下されたのであるが、その間、差入れに又留守居に、真之亮初め取次の人々も、一般の信者の人々も、心を千々に碎き有らん限りの真心を尽した。

お帰りの時には、信者の人々が多数、お迎えに押し寄せたので、監獄署の門前は一面の人で、午前十時、教祖が門から出て来られると、信者達はパチ/\と拍手を打って拝んだ。

監獄署を出られた教祖は、定宿のよし善で入浴、昼飯を済まされ、お迎えの信者達にもお目通りを許され、酒飯を下されて後、村田長平の挽く人力車に乗って、お屋敷へ帰られたが、同じく人力車でお供する人々の車が数百台もつゞいた。

沿道は到る所人の山で、就中、猿沢池の付近では、お迎えの人々が一斉に拍手を打って拝んだ。取締りの巡査が抜剱して、人を以て神とするは警察の許さぬ処である。と、制止して廻ったが、向うへ行って了うと、命の無い処を救けて貰たら、拝まんと居られるかい。たとい、監獄署へ入れられても構わんから拝むのや。と呟やきながら、尚も拍手を打って拝む有様で、少しも止める事は出来なかった。

こうして、恙なくお屋敷へ着かれたのは、午後の二時であった。

つゞく四、五、六の三ケ月間は、特別の理由もないのに、おつとめ日の前後に当る陰暦二十五、六、七の三日間は、教祖を警察へお連れして留置した上、一応の取調べもせずに帰宅させた。

日に月に増す参詣人、伸び弘まる一方の親神の思召に対して、警察が神経を尖らせた当時の状況が、あり/\と窺われる。

八月十八日(陰暦六月二十八日)には、巡査が巡回に来て、机の抽出しにお守りが一つあったのを発見し、これを理由として、教祖を丹波市分署へ拘引し、十二日間の拘留に処し、奈良監獄署へ送った。

御入監は午後三時頃であった。

こうして、教祖は八十七歳の高齢の身を以て、八月十八日から三十日まで(陰暦六月二十八日から七月十日まで)、暑さ酷しい折柄、狭苦しく穢い監獄署で御苦労下された。度々の御苦労であったが、お帰りの時には、

「ふしから芽が出る。」

とのお言葉通り、その度毎に、お迎えの人は尚も増すばかりであった。

この頃、教祖のお帰りの日には、お迎えの車は数百台で、全国からお迎えの人数は、万を以て数える程であったという。

しかし、お屋敷の門迄来ると、警官の取締りが厳重で、中へは一歩も入らせない。

門前までお供して、心ならずも、そこから教祖の後姿を見送り、かんろだいのぢばを遙拝して、或は近在の村々へ或は遠方の国々へと、無量の感慨を懐いて引き揚げた。

この年二月には、長州の出身で当時神戸在住の増野正兵衞が、信仰し始めた。

当時、人々の胸中には、教会が公認されて居ないばっかりに、高齢の教祖に御苦労をお掛けする事になる。

とりわけ、こゝ両三年来西も東も分らない道の子供達の心ない仕業が、悉く皆、教祖に御迷惑をお掛けする結果になって居る事を思えば、このまゝでは何としても申訳がない。


どうしても教会設置の手続きをしたい、との堅い決心が湧き起った。

四月十四日には、お屋敷から山本利三郎、仲田儀三郎の二人が教興寺村へ行って、この事を相談した。

同じく十八日には、大阪の西田佐兵衞宅に、真之亮、山本、仲田、松村、梅谷、それに京都の明誠組の人々をも加えて協議した。

が、議論はなか/\まとまらず、一度お屋敷へ帰ってお伺いの上、よく相談もしてから、方針を決めようという事になった。

当時京都では明誠組が、心学道話を用いて迫害を避けて居たのに倣うて、明治十七年五月九日(陰暦四月十四日)付、梅谷を社長として心学道話講究所天輪王社の名義で出願した処、五月十七日(陰暦四月二十二日)付「書面願之趣指令スベキ限ニ無之依テ却下候事」但し、願文の次第は差支えなし。

との回答であった。

それで大阪の順慶町に、天輪王社の標札を出した。

この頃、北炭屋町では天恵組一番、二番の信者が中心となって、心学道話講究所が作られ、その代表者は、竹内未譽至、森田清蔵の二人であった。

九月には、竹内が、更にこれを大きくして大日本天輪教会を設立しようと計画し、先ず、天恵組、真心組、その他大阪の講元に呼び掛け、つゞいて、兵庫、遠江、京都、四国に迄も呼び掛けようとした。

こうして、道の伸びると共に迫害は益々激しくなり、迫害の激しくなると共に、人々は、教会の公認を得ようと焦慮り、遂に、信者達の定宿にして居た村田長平方に、教会創立事務所の看板をかけるまでに到った。

明治十八年になると、教祖は八十八歳。この年、北の上段の間の南につゞく二間通しの座敷で、米寿を祝われたが、その席上、教祖は、当年二十歳の真之亮と前川菊太郎の二人を、同時に背負うて、座敷を三周なされた。

並み居る人々は、驚きの眼を見はった。

さて、竹内等の計画は、次第に全国的な教会設置運動となり、明治十八年三月七日(陰暦正月二十一日)には、教会創立事務所で、真之亮、藤村成勝、清水与之助、泉田藤吉、竹内未譽至、森田清蔵、山本利三郎、北田嘉一郎、井筒梅治郎等が集まって会議を開いた。

その席上、藤村等は、会長幹事の選出に投票を用いる事の可否、同じく月給制度を採用する事の可否等を提案した。

議論沸騰して容易に決せず、剩えこの席上、井筒は激しい腹痛を起して倒れて了った。

そこで、教祖に伺うた処、

「さあ/\今なるしんばしらはほそいものやで、なれど肉の巻きよで、どんなゑらい者になるやわからんで。」

と、仰せられた。

この一言で、皆はハッと目が覚めた。

竹内や藤村などと相談して居たのでは、とても思召に添い難いと気付いたのである。

が、本格的な教会設置運動の機運はこの頃から漸く動き始め、この年三月、四月に亙り、大神教会の添書を得て、神道管長宛に、真之亮以下十名の人々の教導職補命の手続きをすると共に、四月と七月の二度、大阪府へ願い出た。

最初は、四月二十九日(陰暦三月十五日)付で、天理教会結収御願を、大阪府知事宛提出した。

十二下りのお歌一冊、おふでさき第四号及び第十号、この世元初まりの話一冊、合わせて四冊の教義書を添付しての出願であった。

教導職補命の件は、五月二十二日(陰暦四月八日)付、真之亮の補命が発令された。

つゞいて、同二十三日(陰暦四月九日)付、神道本局直轄の六等教会設置が許可され、更に、その他の人々の補命の指令も到着し、六月二日(陰暦四月十九日)付、受書を提出した。

この年、四国では、土佐卯之助等が、修成派に伝手を求めて補命の指令を得た。世間の圧迫干渉を緩和しようとの苦衷からである。

しかし、天理教会結収御願に対する地方庁の認可は容易に下らず、大阪府知事からは、六月十八日(陰暦五月六日)付、願の趣聞届け難し。と、却下された。

六月二十日(陰暦五月八日)には、岩室村の金蔵寺の住職村島憲海、村田理等が、お屋敷の門戸を蹴破って乱入した。

余りの事に、真之亮は告訴しようとしたが、丹波市村の駒村顯夫が仲に入って謝って来たので、ゆるした。

翌七月三日(陰暦五月二十一日)には再度の出願をした。

神道天理教会設立御願を大阪府知事宛に提出したのである。この時には、男爵今園国映を担任としての出願であった。

十月八日(陰暦九月一日)には、教会創立事務所で、真之亮も出席の上、講元等を集めて相談して居た処、その席に連って居た藤村成勝、石崎正基の二人が、俄かに中座して布留の魚磯へ行き、暫くして使者を寄越して、真之亮と、清水与之助、増野正兵衞の三名に、一寸こちらへ来て貰いたい、と言うて来たので、これは必ず悪企みであろう。

とて、行かなかった処、藤村のみ帰って来て、清水に小言をならべた。しかしその夜、石崎は逃亡した。

十月になると二十八日(陰暦九月二十一日)付で、又々、聞き届け難し。と、却下の指令が来た。

この時、教祖に思召を伺うと、

「しんは細いものである。真実の肉まけバふとくなるで。」

と、お言葉があった。

親神の目から御覧になると、認可云々の如きは全く問題ではなく、親神が、ひたすらに急込んで居られるのは、陽気ぐらしへのつとめであった。

激しい迫害干渉も、実は、親神の急込みの表われに外ならない。

しかるに、人々はそこに気付かずして、たゞ皮相な事柄にのみ目を奪われ、人間思案に没頭して居たから、空しい出願を、繰り返して居たのである。

かね/\教祖は、しんばしらの真之亮と仰せになり、道のしんを明らかに示して居られる。

しかるに、いかに焦ればとて、何の理も無い人を、たとい一時的にもせよ、責任者とする事は、全く心の置き所が逸脱して居たからである。

こゝのところをよく考えて、先ず、確りと心の置き所を思案せよ。しんに肉を巻け、とは、しんばしらに誠真実の肉を巻けという意味で、親神の思召のまゝに、真之亮に、理の肉を巻けば、たとい、今は若輩でも立派なしんばしらとなる。と、人間思案を混えぬ神一条の道を教えられた。

この年には、河内国出身で、当時、大和国郡山在住の平野楢蔵が、信仰し始めた。

年が明けると明治十九年、教祖八十九歳になられる。

二月十八日(陰暦正月十五日)、心勇組の講中が大勢、お屋敷へ参詣に来て、十二下りを勤めさして下され。と頼んだけれども、目下、警察より厳しく取締りあるに付き、もし十二下りを勤めるならば、忽ち、教祖に御迷惑がかゝるから。と、断った。

上村吉三郎はじめ、一部の者は、勇み切った勢の赴くまゝに、信徒の宿泊所になって居た、門前のとうふやこと村田長平方の二階で、てをどりを始めた。早くもこれを探知した櫟本分署から、時を移さず、数名の巡査が来て、直ちに、居合わせた人々を解散させ、つゞいて、お屋敷へやって来て、表門も裏門も閉めさせた上、お居間へ踏み込んで、戸棚から箪笥の中までも取調べた。

すると、お守りにする布片に字を書いたものが出て来たので、それを証拠として教祖と真之亮を引致し、併せて、お屋敷に居合わせた桝井、仲田の両名をも引致した。

警官の言うには、老母に赤衣を着せるから人が集まって来るのである。と、それで黒紋付を拵えて差入れた。

教祖は、分署に居られる間、赤衣の上に黒紋付を召して居られた。

さて、夜も更けて翌十九日午前二時頃、教祖を取調べ、十二日の拘留に処した。

その様子を、この時、共に留置された真之亮の手記によれば、教祖様警察御越しなりし当夜二時頃、取調べを受け玉へり、神憑りありし事、身の内御守護の事、埃の事、御守りの理を御説き被成れたのである。

尚仰せ玉へるニハ、「御守りハ、神様がやれと仰せらるゝのであります。内の子供ハ何も存じません。」と申玉へり。と。

つゞいて午前三時頃、桝井と仲田の両名が取調べられた。

二人とも、御守護を蒙りし御恩に報いるため、人さんにお話するのであります。と、答えた。

午前四時頃から、真之亮を取調べた。

真之亮は、お守りは私がやるのであります。私は教導職で御座ります。教規の名分によってやります。老母は何も御存じは御座りません。と、答えた。

これは、この前年に真之亮以下十名の人々が、教導職の補命を受けて居たからの申開きである。

その夜御一同は、そのまゝ分署の取調所の板の間で夜を明かされた。

教祖は、艮(東北)の隅に坐って居られた。

お側にはひさが付き添うて居た。

真之亮は、坤(西南)の隅に坐って夜を明かした。

取調所の中央には、巡査が一人、一時間交替で、椅子に腰をかけて番をして居た。桝井、仲田は、檻に入れられて居た。

教祖は、真之亮の方へ手招きをなさって、

「お前、淋しかろう。こゝへおいで。」

と、仰せられた。

これに応えて、真之亮は、こゝは、警察でありますから、行けません、と、お側に付いて居るひさから申上げて貰った処、教祖は、

「そうかや。」

と、仰しやって、それからは、何とも仰せられなかった。

このような厳しい徹夜の取調べが済んで、まどろまれる暇も無く、やがて夜が明けて、太陽が東の空に上った。が、見張りの巡査は、うつらうつらと居眠りをして居る。

巡査の机の上につけてあるランプは、尚も薄ぼんやりと灯り続けて居る。

教祖は、つと立って、ランプに近づき、フッと灯を吹き消された。

この気配に驚いて目を醒ました巡査が、あわてゝ、婆さん、何する。と、怒鳴ると、教祖は、にこ/\なされて、

「お日様がお上りになって居ますに、灯がついてあります。勿体ないから消しました。」

と、仰せられた。

夜が明けると、早朝から、教祖を、道路に沿うた板の間の、受付巡査の傍に坐らせた。

外を通る人に見せて、懲しめようとの考からである。

その上、犯罪人を連れてくると、わざと教祖の傍に坐らせたが、しかし、教祖は、平然として、ふだんと少しもお変りなかった。

夜お寝みになる時間が来ると、上に着て居られる黒の綿入を脱いで、それを被ぶり、自分の履物にひさの帯を巻きつけ、これを枕として寝まれた。

朝は、何時もの時刻にお目醒めになり、手水を済まされると、それからは、一日中、姿勢を崩さず座って居られた。こうして、櫟本分署に居られる間中、一日としてお変りなかった。

ひさは、昼はお側に、夜は枕許に坐って両手を拡げお顔の上を覆ったまゝ、昼夜通して仕えつゞけたが、少しも疲れを覚えなかった。

食事は、分署から支給するものは何一つ召上らず、ひさが自分に届けられる弁当とすり替えようとしたが、これは巡査に妨げられて果さなかった。

又、飲みものは、梶本の家から鉄瓶に入れて運んだ白湯のみを差上げた。

心のこもらぬものを差上げるのは畏れ多いと憚ったのと、一つには、教祖の御身の万一を気遣う一念からであった。

教祖が、坐って居られると、外を通る人は、何と、あの婆さんを見よ。と言う者もあれば、あの娘も娘やないか。えゝ年をして、もう嫁にも行かんならん年やのに、あんな所へ入って居る。と言う者もあった。

格子の所へ寄って来て、散々悪口を言うて行く者もあった。

しかし、後年、ひさは、わしは、そんな事、なんとも思てない。あんな所へ年寄り一人放って置けるか。と、述懐して居た。

しかし、教祖は、何を見ても聞いても、少しも気に障えさせられず、そればかりか、或る日、菓子売りの通るのを御覧になって、

「ひさや、あの菓子をお買い。」

と、仰せられた。

何なさりますか。と、伺うと、

「あの巡査退屈して眠って御座るから、あげたいのや。」

と、仰せられたので、こゝは、警察で御座りますから、買う事出来ません。と答えると、

「そうかや。」

と、仰せられて、それから後は、何とも仰せられなかった。

分署にお居での間も、刻限々々にはお言葉があった。

すると、巡査は、のぼせて居るのである。井戸端へ連れて行って、水を掛けよ。と、言うた。しかし、ひさは全力を尽くしてこれを阻止し、決して一回も水をかけさせなかった。

或る日のこと、

「一ふし/\芽が出る、・・・」


と、お言葉が始まりかけた。

すると、巡査が、これ、娘。と、怒鳴ったので、ひさが、おばあさん、/\。と、止めようとした途端、教祖は、響き渡るような凛とした声で、

「この所に、おばあさんは居らん。我は天の将軍なり。」

と、仰せられた、その語調は、全く平生のお優しさからは思いも及ばぬ、荘重な威厳に充ち/\て居たので、ひさは、畏敬の念に身の慄えるのを覚えた。肉親の愛情を越えて、自らが月日のやしろに坐す理を諭されたのである。

又、刻限々々にお言葉があって、

「此処、とめに来るのも出て来るも、皆、親神のする事や。」と。

教祖の御苦労については、

「親神が連れて行くのや。」と。

官憲の取締りや干渉については、

「此処、とめに来るのは、埋りた宝を掘りに来るのや。」と。

又、拘留、投獄等の出来事に際しては、

「ふしから芽が吹く。」

と、仰せられ、その時その事柄に応じて、眼の前の出来事の根柢にある、親神の思召の真実を説き諭して、人々の胸を開きつゝ、驚き迷う人々を勇まし励まして連れ通られた。

この冬は、三十年来の寒さであったというのに、八十九歳の高齢の御身を以て、冷い板の間で、明るく暖かい月日の心一条に、勇んで御苦労下された。

思うも涙、語るも涙の種ながら、憂世と言うて居るこの世が、本来の陽気ぐらしの世界へ立ち直る道を教えようとて、親なればこそ通られた、勿体なくも又有難いひながたの足跡である。

この御苦労の間、清水、増野、梅谷等はずっと梶本松治郎宅に居て、昼となく夜となく、門迄御機嫌を伺いに行った。

そして、付添いのひさに弁当を差入れ、その都度、教祖の様子を伺うて来るのが、清水と増野の役であった。

又、信者の人々で梶本宅まで見舞に来る者は、連日、引も切らなかった。

お屋敷に残って留守居に当ったのは、飯降、高井、宮森等であった。

こうして、教祖が御苦労を了えられて、三月一日(陰暦正月二十六日)櫟本分署からお出ましの時には、お迎えの人は前年より更にその数を増し、門前一帯に人の山を築き、櫟本からお屋敷迄、多数のお迎えの人と人力車の行列が続いたという。

しかし、当日午前九時お屋敷へ御到着の頃には、櫟本分署から巡査が四名出張して来て、門前に張番をし、人々を一歩も中へ入れなかった。

明治十九年五月二十五日(陰暦四月二十二日)、櫟本分署から、真之亮に対して呼状が来た。

出頭すると、大阪で茨木基敬が、みかぐらうたを警察に没収された時に、大和国三島村中山新治郎宅で貰うた。と、答えた為、この件について、大阪の警察署から櫟本分署へ通報して来たからである。

新治郎とは真之亮の後の名である。

この時、真之亮から答書を出した。

五月二十八日(陰暦四月二十五日)には、神道管長稲葉正邦の代理、権中教正古川豊彭、随行として、権中教正内海正雄、大神教会会長、小島盛可の三名が、取調べのためお屋敷へやって来た。

その日は、取次から教理を聞き、翌二十九日、教祖にお目にかゝり種々と質問したが、教祖は、諄諄と教の理を説かれた。

あとで、古川教正が真之亮をさし招いて、この人は、言わせるものがあって言われるのであるから、側に居るものが、法に触れぬよう、能く注意せんければならん。と言った。

この時、五ケ条の請書を提出した。それに連名した人々は、真之亮、飯降伊蔵、辻忠作、桝井伊三郎、山本利三郎、高井直吉、鴻田忠三郎であった。(註五)

つゞいて、三名の人々は、取次からかぐらづとめや面の説明を聞き、二階で十二下りのてをどりを検分した。

同じく、六月十六日(陰暦五月十五日)、櫟本分署長と外勤巡査一名とが、人力車に乗って、突然、お屋敷へやって来て、直ちに、車夫に命じて表門を閉じさせ、教祖のお居間に踏み込んで取調べたが、この時には何の異状も無かった。

真之亮の手記に、この年、七月二十一日(陰暦六月二十日)教祖は、

「四方暗くなりて分りなき様になる、其のときつとめの手、曖昧なることにてはならんから、つとめの手、稽古せよ。」

と、仰せられたと誌して居る。

誠に容易ならぬ時の迫って居る事を、予め告げて人々の心定めを促し、その日に備えて、かんろだいのつとめの手を確かに覚えるよう急込まれた。

天保九年以来お骨折りのたすけ一条の根本の道たる、かんろだいのつとめの完成を、急がれたのである。

同年八月二十五日、陰暦七月二十六日の夜、三輪村の博徒、木屋天こと外島市太郎その他数名の者がやって来て、門をたゝき、奈良警察署から来た。と、呼ばわった。

偽りとも知らず、門を開くと、入るや否や、この村を焼き払うてやる。と、言うて、井戸端へ行き、末期の水や。と、水を飲み、家の中へ侵入して来た。

二階で会議中の人々は、この異様な物音や話声を聞き、梯子段を走って下りて家を守った。又、村人達もこの事を聞き付け、手に手に提灯を持って集まって来た。

暴徒の中には、教祖のお居間へ乱入しようとする者もある。

これに対しては、平野、山本、桝井、宮森等が、防いだ。又、一方では、村民が、暴徒とたゝき合って居るのもあれば、組打ちして居るのもある。

又、走って警察へ訴えに行く者もある、という大騒動であった。

暫くしてから、警察から巡査が出張して来て、取調べた。

これに対する当方の答が穏やかであったために、暴徒達は、たゞ説諭を受けただけで済んだ。

翌日、平野と外島が話し合うてみると、もと/\旧知の間柄であったので、よく説諭を加え、金四円也を車賃として与えたが、その時、外島が打明けた処によると、兄貴は郡山へ戻って居ると聞いたので、老母をかつぎ出そうと思うて企らんだが、大いに失敗だった。と語った。

道は、こゝ数年の間に更に弘まり、先に誌したものに加えて、阿波真心講、遠江真明組、斯道会、天地組、天元組、天明講、兵神真明講、天龍講、大和講、日元講、東京真明組、治心講池田組等へと伸びて行った。

この十九年には、大和国郡山の増田甚七、東京の中台勘蔵、大和国陵西村の植田平一郎等が、それ/\信仰し始めた。

「ひながたの道を通らねばひながた要らん。ひながたなおせばどうもなろうまい。・・・ひながたの道より道無いで。」
                

おさしづ (明治二二・一一・七 刻限)

 教祖は、尊い魂のいんねんのお方であり、月日のやしろに坐す御身を以て、説いたゞけでは救かる道を歩もうともせぬ一列人間に、救かる道を教えようとて、自ら先頭に立って、どのような中をも通り抜け、身を以て万人の救かるひながたを示された。

ひながたの道を歩まぬならば、ひながたは要らぬ。

教祖が五十年の長い間、身を以て示されたひながたこそ、我々道の子が陽気ぐらしへと進むたゞ一条の道であって、このひながたの道を措いて外に道はない。

教祖が、いかなる中をも陽気に勇んで通られた、確かな足跡があればこそ、我々人間は、心安く、どのような身上事情の中からも、勇んで立ち上る事が出来る。

教祖こそ、ひながたの親である。

 
註一 本目録中、下石径三尺二寸とあるが、おふでさきにある寸法は三尺であり、没収された石も約三尺である。従って、この寸法の出所は不明である。

註二    

差入申証券
 一従前中山新治郎宅ヲ借受教会出張所ニ設置候処今般拙寺勝手ニ付院
代并ニ納所出張之上本月十四日限リ引払致候就ハ是迄之書類取消且指令
書之義ハ返却ニ相成然ル上ハ他ヨリ何等之苦情申出候共其許殿江必御迷
惑相掛ケ申間敷候間為後日差入証券如件
                大和国宇知郡久留野村
                元金剛山地福寺柳井津
     明治十五年            嶺明代理
      十二月十四日            川端義観 印
                      仝寺納所
                        木村正則 印
    仝国山辺郡三嶋村
       中山新治郎殿

註三
         

建言書

私儀者
幼年之時ヨリ農事ニ付種々穀物上品ヲ年々撰シ出シテ其上試験シテ作増シ相成ル種子ヲ人々施候折柄御維新ニ相成然ル処大坂府ニ於テ政府之綿糖共進会ヲ開キニ相成際元三大区中人撰ヲ以出張スル処則農事集談会ト相成ニ付而ハ会員ニ被任其砌ニ通信委員之儀被仰然ル処亦々東京ニ於テ第二博覧会之節モ農談会之時会員ニ被任畢テ其後新潟県江勧農教員ニ被雇貳ケ年相勤テ暇乞本国エ帰国ス就中此度山辺郡三嶋村中山氏八十六歳之老母ニ珍シ助ケ有之ニ付如何ニ茂審儀之事と察シ則剋限待テ月日自如何成ル病気ト雖モ是迄之悪事ヲ懺悔シテ天道之教之道実と思ひ人の道ヲ不違シテ神ノ取次ニ随ヒ政心ヲシテ願エ者何程之六ケ鋪難病ニ而茂速ニ全快スルニ依テ只今ニ而ハ十六七ケ国より日々参詣有之処大坂府ニ於テ天輪王命と云神者無キ者と何等之取調モ無クシテ人ヲ助ルヲ差留ニ相成居ル然ルト雖遠国より日々参詣者段々ト増ス斗尤旧幕之頃ニハ京都吉田殿より免モ有今差留メ相成時者神ノ立腹ハ漸意成ル事テナシ此儀如何成ル咎メモ難斗と申候者神ノ源ヲ尋ル月日ガ此度天輪王命ト顕テ珍シ助ヲ被成候哉ニ察シ如何ニ茂審儀成ル神ノ御言ハ之写并筆先ヲ見ルニ是全人
間之業ニテ者有間敷事右様之事人並ニテ者迚モ不云 出来候事斗何等之事テモ勤一条者病気ハ勿論百姓第一之助ケ芽出之札実ノリ札肥シ助ケ札蟲害除ケ札其他何ニよらず願ヒ道ハ何ニ不叶ト云事更ニナシ此神之筆先ニモ有之通徳川天下之亡ル事モ前年ニ仮合ヒテ御噺モ有之取次人者存シ居候其他異人杯モ来ル事モ前ノ如ク先ニ見得ル然ルト雖モ右始末之儀者皆々存し居候得共只今迄者御上ヲ恐テ詳ニ申上ル人者更ニナシ此度者私農事通信免モ有故一日モ早ク万民ヲ助ケ農作増相成ヲ相弘ルニ於テ者是末代之普益相成事者不過之則皇国第一之事と愚慮仕儀ニ付此段恐モ不顧奉建言候
右ニ付神ノ筆先ハ壹号ヨリ十七号迄有之内六号十号書抜 十二下リ勤 〆四点相添エ御高覧奉入候
右ヲ建言スルハ此神者可建置神と察し候間依而奉上申仕候也
                   大坂府下大和国
                      式下郡檜垣村
    明治十六年三月十五日            鴻田忠三郎
 東京
 大蔵省御庁


 
註四



           大和国山辺郡三島村
            平民
       科料金弐円四十銭  中山ミキ
           右領収候也
       明治十六年八月十五日
                 丹波市分署 印

 
註五

御請書
  一 奉教主神は神道教規に依るべき事
  一 創世の説は記紀の二典に依るべき事
  一 人は万物の霊たり魚介の魂と混同すべからざる事
  一 神命に托して医薬を妨ぐべからざる事
  一 教職は中山新治郎の見込を以て神道管長へ具申すべき事
     但し地方庁の認可を得るの間は大神教会に属すべき事
 右の条々堅く可相守旨御申渡に相成奉畏候万一違背仕候節は如何様御仰付候共不苦仍て教導職世話掛連署を以て御請書如此御座候也
                        中山新治郎
                        飯降伊蔵
                        桝井伊三郎
                        山本利三郎
                        辻忠作
                        高井直吉
                        鴻田忠三郎
    神道管長代理
 権中教正  古川豊彭殿