上田ナライト先生のプロフィールと略歴

ここでは「上田ナライト先生について」逸話篇48「待ってた、待ってた」などを用いて紹介していきたいと思います。

逸話篇48「待ってた、待ってた」

明治九年十一月九日(陰暦九月二十四日)午後二時頃、上田嘉治郎が、萱生の天神祭に出かけようとした時、機を織っていた娘のナライトが、突然、「布留の石上さんが、総髪のような髪をして、降りて来はる。怖い。」と言うて泣き出した。
いろいろと手当てを尽したが、何んの効能もなかったので、隣りの西浦弥平のにをいがけをするうち、次第によくなり、翌月、おぢばへ帰って、教祖にお目にかからせて頂いたところ、
「待ってた、待ってた。五代前に命のすたるところを救けてくれた叔母やで。」
と、有難いお言葉を頂き、三日の間に、すっきりお救け頂いた。時にナライト十四才であった。

『稿本天理教教祖伝逸話篇』 48「待ってた、待ってた」
逸話篇天理教教祖伝逸話篇 全文(1話~200話まで)

逸話編単語帳

石上とは・・・「いわがみ」と呼び、岩神のこと。

総髪とは・・・通常、明治以前の男性の髪型、月代を剃らずに後ろで括ったもの、儒者や医者の髪型。

萱生(町)とは・・・ナライト先生がいた園原の隣の小字

この逸話は、教祖が「五代前に命のすたるところを身をもって 救けてくれた叔母」であると、ナライト先生を「待ってた」と仰せになられています。

上田ナライト先生のプロフィール

  • 生年月日 文久3年(1863)2 月 23 日
  • 出身地 大和国山辺郡園原村(現、天理市園原町)
  • 父母 上田嘉助(後に嘉治郎)・上田たき
  • 入信の理由 明治9年、14歳の時、「怖い」と異常を訴え、色々と手を尽くしたが効能がなかった。
  • 隣家の西浦弥平からにをいが掛り、教祖にお目に懸かったところ「待ってた、待ってた。」とのお言葉があり、翌10年、鳴物の内、教祖より胡弓を教えて頂く。
本席・飯降伊蔵先生のプロフィールと略歴

ナライト先生の略歴

明治 12 年、教祖は、ナライトを貰い受けられ、教祖より「一身暮らし」 と仰せられ、一生独身で通すことになります。

教祖ご在世当時には、「守り」という教祖の身の回りのご用、 炊事、掃除、針仕事、機織りなどをし、赤衣のお針などをされる役割の方がおられました。

ナライト先生がなされた「一身暮らし」は、「守り」の役割よりももう少し専属的な教祖の身の回りの御用となります。

教祖現し身隠され後

明治20年、教祖は現身をかくされ、お葬式に参列した後は、お仕えする方もおられず、園原に戻り、おぢばと園原を行き来されます。

明治33年、家内中に身上の患いに悩む者が 続き同年4月に、母たき、妹ナラトメ、そして17歳の甥楢太郎とともにおぢばに移り住みます。

本席様が出直されて後

明治40年6月6日夜、ナライト先生45歳の時、はじめておさづけの理を渡され、その3日後に本席が出直した。

ナライト宅は間もなく完成し、ナラトメ、楢太郎とともに移り住み、そこから、黒の紋付に黒の丸帯をしめて、本部へ出掛け、お運びをつとめられます。
 

つとめを了えられ出直し

大正6(1911)年、ナライトの病気から、ナライト宅にお運び場所を普請され、竣工後は、そこでおさづけを渡されます。

大正7年3月、 再び胃腸の病となり、中山たまへがおさづけを運ぶことになり、ナライトはつとめを了えられます。

その後、病気は全快し、御供の紙を折ったり、針仕事や庭木の手入れなどをして、静かに暮らした。

昭和12年1月12日に出直し。享年75歳。

ナライト先生の役割

ナライト先生は3つの役割を担われることになります。

「一身暮らし」
「人足社」
「おさづけのお運び」

ここでは、この3つの役割について解説していきたいと思います。

一身暮らし

教祖は、ナライトに対して、「一身暮らし」と仰られ、一生独身を通すようにといわれています。

教祖の身の回りのご用である、炊事、掃除、 針仕事、機織りなどは、「守り」として、増井りんをはじめ、多くの方がつとめられていますが、「一身暮らし」は、上田ナライト先生一人だけでなのです。

27 歳の時、結婚について伺うと、

一身暮らしならば、一身暮らしの理は与えよう。一身一人のあたゑはいつへどうでもこうでも与える。 なれども心の理を改めて、こうと思うなら、又それだけのあたゑは渡そう。これからは先が長い。一身暮らしのあたゑはどういう事やろと思うやろう。影は見えん、姿は見えんと思うやろ。なれども一身暮らしの理は、立てゝ貰いたいへ 。

おさしづ明治 22 年 11 月 30 日

と仰せられています。

人足社

明治 12 年陰暦 2 月、教祖は

「ナライトの身の内、神の方へ貰い受け、その上は、あつけんみよの社として人をたすける」

と仰せられ、ナライト先生を貰い受けになられます。

あつけんみよ(あつけん明王)・・・胎内の縁を切る【たいしよくてん】、子供を引き出す【をふとのべ】、産んだ後の始末のつなぎ【くにさづち】の三神を総称してもの

また、「おふでさき」に、

この心どふしていさむ事ならば月日にんそくつれてゞるぞや

おふでさき10号83

とあり、「註釈」に「にんそくは、たすけ一条の上に親神様の手足となって、世界一列を救けてまわる者達の意。」とあります。

「おさしづ」 にも

神が出て、こうと人足まわしするようなもの。

おさしづ明治 30 年 4 月 4 日

おさづけのお運び

おさづけのお運びに対してのおさしづは、

「一名暮らしと言うたる。年限を繰りてみよ。人足社と言うて貰い受けたで、と言うたは、もう何年経つか。」
「道は、 皆継目あるでへ 。継目知りて居るかへ 。知らずに何と呆けて居るへ 。皆んな取損いして居るへ 。教祖という道内から潰して居る。」

おさしづ明治32年7月24日・明治 40 年 3 月 13 日

とこのように手厳しくあられました。

明治 40 年 6 月 6 日、初代真柱が、ご本席様に向かって
「寿命縮めましても 宜しう御座りますから、一先ず御踏み留め下されませと御願」
と仰せになり、それに対して、ご本席様は教長と飯降政甚との御手を御握り、


「皆々よいへ 。」
「さづけ一点の順序やで。手伝いやでへ 。最初は不細工やでへ 。日々代わりさせるのやで。当分は不細工なものや。だんへ十分に成る。」

と仰せになり、またもや初代真柱様から
「ナライトに勤めさせるのでありますや」
とお聞きなされると、ご本席様は頷かれ、

「今日から十分のさづけを渡す。詳しい事要らん。あしきはらいのさづけや。今日からは十分授ける。後は前の型通りや。」

初代真柱様が「只今より運ばせるのでありますか」とお尋ねされると、

「夜が初まりへ 。晩でよい。今日はこれにて。踏ん張って来たのうへ 。えらかったのうへ 。一同大きに御苦労。」「肩の 荷が降りた。よかったへ 。」
「これで一日の役が済んだなあへ 。」

と仰せられ、それからはナライト先生がおさづけのお運びを始められたのです。

おさづけの理とは?

まとめ

教祖は、ナライト先生を待っていたように、今でも大勢の信者を待っておられます。

教祖伝や逸話篇を読むと分かるように、教祖を求めて来た人には、 「待っていた」と声をお掛けになっておられます。

そのようなところから考えましても、今でも教祖は、大勢の信者さんを「今か、今か、、、」と待っておられるのです。

大切なことは、教祖をお訪ねすること、また、それだけではなく、その先のこどもである我々の「成人」を町望まれているのではないでしょうか?