天理教教会辞典 浅草大教会 あさくさだいきょうかい

浅草大教会 あさくさだいきょうかい

浅草の道の始まり

明治18年(1885)、東京布教を志して上京した、後の東大教会初代会長上原佐助によって拓かれた「東京の道」は、最初、下谷金杉、続いて竜泉寺町を中心に波紋のように八方へ広がった。

そしてまもなく最も近い浅草の吉原へ伝道の歩が進められたのも至極当然のことであった。

浅草の吉原といえば、江戸時代から伝統の花柳の巷として誰知らぬ者はない名所の一つである。

その華やかさ、その賑わいは人の口の端に乗らぬ日とては無かったが、一たびその裏面をうかがうといわゆる「生き地獄」の姿がまざまざと浮かび上がる。

そこには果て知らぬ遊女らの苦悩が繰り展げられていたが、中でも健康を損ねたものこそ惨めなものであって、暗くて狭い部屋に投げ込まれたまま碌な手当も加えられず、ほとんどが死を待つばかりの悲惨を極めたものであった。

上原佐助は、いち早くこの谷底の人々の救済に熱意を注ぎ、布教者として足繁く出入りするうちに、廓内の引手茶屋、貸座敷等、各種の職業に携わる人々の中に、不思議なたすけに導かれて入信する者が相次いだ。

明治18年末に、今井元次郎(吉原会所事務主任)、村松万蔵(貸座敷初万楼主、仕出屋業)らが信仰に入り、明治19年1月に宮内初太郎が、それに続いて原田きや(大万料理屋女将)、赤倉藤吉・スマ夫婦(貸座敷中米楼)、赤尾吉蔵(菓子屋小松屋)、扇谷常吉(寿司屋伊勢元)、大野伝兵衛(引手茶屋大島屋)らが熱心な信仰者となった。

一方廓の外では、元吉町の後藤万吉(人力車夫)、象潟町の深井七五郎・よね夫婦(大工)らが熱心に信仰を始めた。

深井七五郎夫婦は、浅草南組講社の信者として名を連ねているが、とくに妻よねが熱心で、夫の兄に当る、当時埼玉県南埼玉郡八条村大字立野堀に住んでいた高橋庄五郎(立野堀出張所初代会長)の妻さくが、産後の病で困っているのを聞いて、神様の話を伝え、上原佐助におたすけを願い出て、入信した。

この時には、大文字屋の花魁橋立の名で、花魁道中にも出た事もある、深津うたも布教者の一員となっている。

浅草の初代会長加藤新兵衛は、弘化3年(1846)2月15日、山梨県山梨郡勝沼村で、田中新右衛門の3男として出生。

明治8年頃、東京市本所区中之郷元町、加藤増太郎の長女そよに婿入りして、加藤姓となっている。

その後、新吉原京町1丁目の遊女屋「中米楼」の店員となり、主人赤倉藤吉から分店「勝中米楼」を許され、江戸町1丁目に開業したのであるが、明治19年9月に妻を失い、2度目の妻の登美を迎えた喜びも束の間、11月頃重い脚気を患い、遂には腰が立たなくなった。

たまたま同じ町内の扇谷常吉の尊きにより、当時すでに広まっていた天理教の話を耳にし、今井元次郎、宮内初太郎、後藤万吉等が交代で足を運び、3日3夜目には、鮮やかな守護を見るに至り、歓喜に浸った。

これまでは、ようよう抱えの娼妓や店の者などの信仰に限られていた廓内で、一戸の楼主が入信したことは、道の進展に一段と拍車をかけたのは事実で、霊救に奮い起った加藤新兵衛はやがて、主筋たる本店「中米楼」の赤倉藤吉の妻スマと共に、同業の人々を導き、かくして浅草講社の基礎は次第に固まっていったのである。

ただ当時の講社に結ばれた人々は、入信の前後こそあれ、ほぼ同様の信仰程度であったようである。

その後も、誰を中心人物というでもなく極めて自然に廓の内から始まった道の動きは、次いで廓の外なる象潟、橋場、今戸から浅草区の各所へ伝わり、上原佐助の東京講社の中で一大勢力を形成するに至った。

明治21年4月7日、教会本部設置の公認が出願された折りには、その出願人の中に、信徒総代として浅草講社の村松万蔵の名が連ねられ、同月10日晴れの公認の喜びを得た下谷区北稲荷町の教会本部へ3日目の13日には早くも、村松万蔵、加藤新兵衡、赤尾吉蔵、今井元次郎、宮内初太郎らが顔を揃えて参拝し、道の躍進を心から祝福したのである。

講の結成

明治22年1月には、真明講浅草講社寄所が、東京市浅草区馬道7丁目11番地に、講元宮内初太郎で発足をみた。

同年10月、東京講社を足場として、東分教会が天理教教会本部東京出張所を引直して設けられると共に、部内各講社の中にも教会設置の気運が起こり、3年後の明治25年4月25日、ここに浅草講社から、浅草支教会の誕生を見た。

その創設地は、寄所となっていた地に、建坪18坪5合(61㎡)のささやかな借家であったが、「勝中米楼」主、加藤新兵衛が推されて初代会長のお許しを頂いた。

しかしながら、この地はいかにも狭く、不便な場所であったため、役員一同相談の上、同区の通称山谷堀川岸の南側、山川町1番地に、209坪(690㎡)の土地を借り、いよいよ救けの道場を花の浅草の地に打ち建てる喜びに勇みに勇んだ教信徒の真実を集めて、92坪(304㎡)の神殿が完成し、明治25年9月17日盛大な開筵式が行われた。

初代加藤新兵衛会長は元来、容姿すぐれ、弁舌さわやかで、しかも信念の強い人であったため、衆望おのずから集まり、一時は推薦されて、東分教会の副会長を5年勤めたが、惜しくも明治32年8月26日、肺結核のため浅草区金竜山下瓦町なる樽屋の隠居宅(病気療養のため借用)で、妻登美、娘寿美、青年の内山浅之丞、看護婦1人に見守られつつ出直した。

齢54歳、在任わずか8年であったが、明治29年の内務省秘密訓令で、「お道」が弾圧を受けた中で、東部内の半数近くの73カ所の教会設立を果たしている。

2代会長の時代

2代会長宮内初太郎は、嘉永4年(1851)9月19日、のちの東京市日本橋横山町の宮内勝蔵の長男として出生。

幼少の頃は裕福であった家産もしだいに傾き、17歳の時、進んで浅草橋場の石屋に奉公したが、いくばくも無く、父親の病気から暇を貰って家に戻り、病父を養うため、馴れぬ魚の行商人として自立の道を講じた。

生来の竹を割ったような気性が、魚をあつかう勢いのいい仕事にあって、段々家計も立つように成ったが、やがて勇み肌の鳶職に魅力を感じ、13年も続けた魚売を廃業、3転して新吉原町2丁目の鳶頭、龝本(あきもと)房次郎の「とび房」に弟子入りをした。

そして、好きから入った道だけにたちまち頭角を現し、仲間の中でも1、2を争う顔となった。

まもなく親方の世話で廓茶屋の女中であった津奈を娶り、新吉原江戸町2丁目6番地に世帯を持った。

ところが1、2年を過ぎた頃から妻津奈が何となく体の具合が悪く、死産をした。

それ以後初太郎は、家を外にして働かねばならぬ鳶職を休み、素人ながら、かもじの製造を営むようになった。

荒い家業に明け暮れしてきた初太郎の胸の奥には、病妻をいたわる暖かい心遺いが溢れて、一家の日々は貧しいながらも和やかであったが、津奈の容態は日と共に悪化し、明治19年1月、子宮癌と診断された。

こうして夫婦が絶望の底につき落されていた時、吉原の会所(組合事務所)主任の今井元次郎が見舞いに来て、「大和から不思議な神様の話を伝えに、大野伝兵衛の大島屋(引手茶屋)へよく来る上原という人がいるが、一ぺん頼んでみたらどうか」との話に、初太郎は心を動かした。

かくて宮内家に教えが流れ、不治と宣言された妻の病気は快癒すると共に、生一本の性格であった初太郎は、報恩感謝の念を「神一条」の生涯に捧げ、「乞食をしてでもおたすけに歩こう」と心定めも固く、明治21年12月15日、「おさづけの理」を拝戴するや布教に専念した。

すべてを捨てて布教に進んだ宮内夫妻の苦労は、やがて至るところにふしぎな霊敷となって、浅草一帯はもとより、東京府下の千住から、遠く埼玉県の草加、越ヶ谷、粕壁と、真実の道は目覚ましく伸びていった。

こうした中で、浅草講社の勢いは教会設立にまで進んだが、当時講元としての位置にあった宮内初太郎に代って明治25年4月、浅草支教会の初代会長の任に推されたのは加藤新兵衛であった。

こうした時、初太郎は、決して自己の道を誤ることなくひたむきな布教にいそしみ、やがて埼玉県下安行村に現れ、後の慈林布教所を設立するまで忍苦の道中を歩んだ。

明治32年 8 月末、加藤初代会長の出直の後、後任会長の選定に悩み、一時役員2名を以て、代務執行の承認を、本部へ願い出たが許されず、却って本部より、「浅草には立派に会長たるべき人がいるではないか。宮内さんを忘れてはならない」と諭され、ここに始めて宮内初太郎が会長として、お許しを頂くこととなった。

明治42年 1月20日、教会制度改正に伴い、分教会と改称の後、間もなく明治43年8月の関東大洪水、翌44年4月の吉原大火など、相次いで起こった災害は、教信徒の上にも大きな打撃を与え、教勢にも多大な影響をあたえた。

しかし度重なる事情にいつも明るく勇んで通る会長は、吉原の大火で役員赤倉の経営する「中米楼」が全焼した時、「今こそ因縁納消の好機である。断然商売をやめなさい。食えなければ、女房子供は浅草へ引き取ろう」と勧めて、布教専務に就かせた。

このため、赤倉自身同業者から命を狙われるような脅迫を受けた程で、このことは会長初太郎の、道に対する信念がいかに積極的であったかを物語っている一例である。

やがて明治から大正へと移行し、教祖30年祭も近づきつつあった大正3年(1914)8月8日、炎暑の夜、教服に身を正し、説教していた初太郎は、突然倒れ、一同の手当ての甲斐もなく、遂に64歳で出直した。

日頃口にしていた「道の軍人」の信念を貫いた生涯は今なお尽きぬ語り草である。

3代会長の時代

3代会長宮内浅之丞は、内山新助・りゆ夫婦の3男として明治19年3月1日、埼玉県北埼玉郡手子林村大字町尾52番地に出生。

両親は、当時東京から伝わった天理教の熱心な信者であった。

こうした環境の中で成長した浅之丞は、小学校卒業と同時に上京、創立浅い浅草支教会の青年として住み込んだ。時に明治31年10月24日である。

以来、初代、2代会長に仕えつつ独学を続け、明治39年4月28日、「おさづけの理」を拝戴すると共に布教活動に専念し、明治44年1月、2代会長宮内初太郎の養嗣子となり、その後、妻吉(よし)を迎えた。

大正3年の夏、2代会長急道の後、同年9月25日、3代会長のお許しを頂いた。29歳であった。

種々困難を通りぬけ、布教に励んでいたところ、大正12年9月、周東一門を襲った大震災は、一夜の間に教会建物を瓦礫に帰せしめた。

時に38歳の会長は、復興に心血を注ぎ、大正14年3月、東京府南足立郡梅島村大字梅田1529番地(現足立区梅田)に、1517坪5合(5017㎡)の土地を購人、神殿及び付属建物の建築に着手した。

災禍に屈せぬ教信徒の意気も高らかに新神殿の竣工を見て、同年11月18日、神殿落成奉告祭が執行した。

次いで上級、東大教会の復興建築が、昭和5年(1930)9月着工され、翌6年10月落成を見るまで力を尽くした。

この間、大正15年には教祖40年祭を迎えるに当たり、教勢信加につとめた結果、会長就任当初において、83カ所であった部内教会数は一躍148カ所に遠した。

続いて昭和6年には、教会本部の普請を勤める中、教祖50年祭を迎え、教線も、北海道、朝鮮と伸びるに至ったが、同時に教祖殿建築の声が起こり、昭和8年と昭和12年に、計492坪(1,626㎡)の土地を購入した。

越えて昭和15年1月23日、浅章分教会は東大教会から分離・昇格した。

また8月27日を以て、浅草大教会から立野堀分教会が分離昇格した。

昭和16年12月の太平洋戦争勃発は教団にも種々の変貌をもたらしたが、その中に、昭和17年4月に、長野、新湯の教区長に就任し、両教務支庁の庁舎の建築に全力を傾け、昭和18年6月、長野教務支庁に水篶刈分教会を設立し、初代会長の許しを頂いた。

また昭和19年4月に新潟教務支庁に越州分教会を設立し、初代会長の許しを頂いた。

その間、長野、新潟の教区長として、管内教会を丹精し、また「いざひのきしん隊」の隊長として、たびたび炭坑へ出動した。

昭和19年春には会長長男初夫が出征したが、同20年4月14日、空襲のため大教会は全焼した。

終戦後の教祖60年祭が無事執行された昭和21年1月26日、会長は本部准員に登用された。

一方、焼失した大教会の再建も、会長、役員、信者らの奮起と熱意によって、昭和22年、34坪(112㎡)の神殿が完成、同年6月19日、落成奉告祭を執行した。

この建築の最中、長男初夫の戦死の報は部内教会、信者一同に多大の影響を与えたが、その悲しみを越えて、信徒詰所建築の議が起こり、昭和23年2月、丹波市町布留97番地に、木の香も新しく開設の運びを見た。

同年3月には東京教区長に就任し、同時に東京分教会長のお許しを頂き、東京教務支庁の庁舎及び東京分教会の神殿建築にも力を注ぎ、昭和26年に完成を見た。

その間、その間、昭和24年4月には別席取次人に登用された。

さきに建築した神殿も漸次狭隘となったため、昭和26年1月、創立60周年記念神殿建築が会長から提唱された。

こうした中で、役員、部内教会長が「ふしん委員会」を組織、養嗣子満麿を委員長として活動を開始、2年後の昭和27年12月18日には2代質柱を迎えて、盛大な落成奉告祭に併せて、創立60周年記念祭を執行した。

翌28年4月8日、部内教会巡教中、病気となった会長は同年6月28日、その職を養嗣子満麿に譲った。

4代会長の時代

4代会長宮内満麿は、大正9年2月4日、東京市荒川区南千住で、名京大教会役員、小栗光の3男として誕生。

昭和23年12月15日、3代会長の長女つなえと結婚した。

教祖70年祭を迎える「おやさとふしん」には、婦人会、青年会、「こどもひのきしん隊」が編成され、多数の教信者が、ひのきしんに参加した。

また昭和32年4月には「おぢば帰り」1000名団参が計画され、おぢば帰りが促進された。

昭和33年11月21日、2代真柱夫妻を迎えて、4代会長の就任奉告祭が執行された。

越えて昭和36年月、会長は100日余り海外文化交流のため、東南アジア、中近東、アフリカ、欧州、米国の教育施設視察を行ない、海外布教に力を注いだ。

昭和38年11月、教祖80年祭を迎えるに当たり、昭 和40年春季大祭を目標に、「初席」者2,000名が打ち出され、部内一丸となってこれに努めた。

一方、信者詰所も狭嗌になって来た中に、第8母屋建築の許しを昭和39年10月28日に頂き、同年11月1日には着エを見た。

同年11月19日に「ふしん委員会」を設置して、22日には、基礎コンクリートを打ちに入り、完成までに浅草の道につながる教信者、8,237名のひのきしん動員が行われた。

翌40年4月10日、2代真柱のお入込みがあり、浅草詰所として使用するお許しを頂いた。

旧詰所は、土地建物を本部に献納して、炊事本部勤務者の宿舎となった。

3代会長宮内浅之丞は、身上も追々と快方に向かい、本部准員の御用に勤めていたのであったが、昭和45年12月10日、親神の思召しのまにまに、眠るが如く86歳の生涯を閉じた。

思えば、13歳の少年の身をもって教会に伏込んでより73年間、浅草の道のため尽した一生は、誠に尊い限りである。

昭和46年6月、4代会長は東京教区長に就任、以来昭和61年6月まで、5期15年間、東京教区管内教会の丹精に努めた。

その間、昭和47年1月、付属建物の増改築に着手して、同年11月、記念事業としての信者会館が落成をした。

同年12月22日には、真柱夫妻の臨席のもと、創立80周年記念祭を執行した。

再び10年して、信者詰所の移転建築となり、戦後最初に設置した布留川のほとりに、第52母屋として、深川大教会と共同で献納することとなった。

そのため昭和50年1月4日には「母屋ふしん委員会」が設置された。

ひのきしんを通して、「心のふしん」に教信者がつとめ、同年9月29日には、真柱のお入込みを頂いて、浅草、深川の詰所として使用するお許しを頂いた。

教祖100年祭という旬を迎え、浅草の道の飛躍を望む上から、心の成人の踏み台として、昭和55年9月21日、創立90周年記念祭準備委員会が、また「ふしん委員会」と「史料委員会」が設置され、客室ふしんと大教会史の編纂が打ち出された。

昭和56年6月26日、付属建物増改築のお許しを頂き、翌57年9月中旬に完成を見た。

同年11月12日、真柱夫妻を迎えて、盛大に創立90周年記念祭が執行された。

翌58年1月、いよいよ教祖100年祭を迎える三年千日の仕切りの旬に、会長長男泰夫が4代会長後継者と決まり、部内教会、教信者は大きな喜びをもって、東西礼拝場ふしんにつとめることを誓った。

浅草の90年の道すがらには、大正時代の関東大震災、昭和時代の太平洋戦争による、2度にわたる教会焼失という中に、大教会史の編幕には、余りにも史料がとぼしく、今回は浅草の道の流れを把握することを目的として、同年11月、『大教会年譜表』の作成をした。

浅草大教会 年表

年号月日内容
弘化3年2月15日加藤(旧姓田中)新兵衛(初代会長)、山梨県勝沼村にて出生
嘉永4年9月19日宮内初太郎(2代会長)、東京市日本橋区横山町にて出生
明治19年1月妻津奈の子宮癌の御守護を頂き、宮内初太郎、信仰を始める
11月加藤新兵衛、脚気の身上の御守護を頂き、信仰を始める
明治22年1月真明講浅草講社寄所発足、講元宮内初太郎
明治25年4月25日浅草支教会設立 初代会長に加藤新兵衛が就任
5月26日浅草支教会移転建築のお許し
9月17日浅草支教会、開講式並びに移転建築開筵式、執行される
明治27年6月8日加藤新兵衛、東分教会副会長になる
明治32年8月26日初代会長加藤新兵衛、出直(54歲)
12月5日2代会長に宮内初太郎が就任
明治42年1月20日浅草支教会、分教会になる
大正3年8月9日2代会長宮内初太郎、出直(64歳)
9月25日3代会長に宮内浅之丞が就任
大正12年9月1日関東大震災により、神殿焼失する
11月2日神殿建築落成奉告祭執行
大正14年11月18日神殿移転建築落成奉告祭執行
昭和15年1月23日浅草分教会、東大教会より分離、大教会に昇格(部内160カ所)
8月27日立野堀分教会が分離、大教会に昇格
昭和20年4月14日戦災で、神殿、教職舎焼失
6月5日3代会長長男宮内初夫、ルソン島で戦死
昭和21年9月27日神殿建築の許しを得る
昭和23年12月15日小栗満麿、養嗣子となる
昭和26年4月20日神殿建築の許しを得る
昭和27年12月18日創立60周年記念祭並びに神殿建築落成奉告祭執行
昭和28年6月28日宮内満麿が4代会長に就任
昭和35年10月26日付属建物移転增改築、正門移動改築及び塀改築の許しを得る
昭和45年12月10日3代会長宮内浅之丞出直(86歲)
昭和46年11月26日創立80周年記念祭と付属建物増改築の許しを得る
昭和47年12月22日創立80周年記念祭執行
昭和56年6月26日付属建物増改築の許しを得る
昭和57年11月22日創立90周年記念祭執行
[関連文献]
  • 坂巻駒吉『御かぐら歌』(明治21年)
  • 加藤新兵衛『天理教会所在地』(現在の名称錄)(明治28年)
  • 『浅草通信』(昭和37年〜)
  • 『浅草青年』(昭和35年、30号まで)
  • 3代会長口述『浅草のはなし』(昭和46年)
  • 『大教会年譜表』(昭和58年)