天理市の昔の地名一覧

櫟本村 いちのもとむら

現在の奈良県天理市櫟本町。
竜田道(業平街道)と上ッ道(上街道)の交差点に立地する。
教祖の三女おはるが嘉永5年(1852)この村の梶本惣治郎へ嫁入り(F稿本天理教教祖伝』32頁)、後にその三男の眞之亮が初代真柱となる。
また、後の本席飯降伊蔵は、入信当時、この村に住んでいた(同50頁、234頁参照)。

岩室村 いわむろむら

現在の奈良県天理市岩室町。
明治18年(1885)6月20日、岩室村の金蔵(こんぞう)寺の住職島村憲海、村田理等が、お屋敷の門戸を蹴破って乱入した(『稿本天理教教祖伝」279頁)という

乙木村 おとぎむら

現在の奈良県天理市乙木町。
山の辺の道が南北に貫通する山麓の村。
三昧田の北、三島より南方約2km。
『稿本天理教教祖伝』には、この村の山本吉次郎、山中忠三郎の名が見える(148、245頁)。
山本書次郎は、金剛山地福寺の日参講のことを山中忠三郎より聞き、それで秀司に話をし、日参講の下に入ったら、警察の干渉がなくなるかも知れないと伝え、秀司が、明治13年(1880)、地福寺配下の転輪王講社を作ったものと伝えられる(→転輪王講社)。
ちなみに日参講は、政府から修験道が禁止された際、高野山配下の教会として公認されている。

海知村 かいちむら

現在の奈良県天理市海知町。
中ツ道(橘街道)東に立地し、西は武蔵。
明治15年(1882)3月改めの講社名簿によると、この村に「真実組(大和国法貴寺村、海知村、蔵堂村、槍垣村)」という講社が結ばれている(『稿本天理教教祖伝』250頁)。

萱生 かよう  

地名。
現在の奈良県天理市萱生町。
成願寺村東方、山の辺の道に沿う山麓に位置し、「萱生千塚」と称し、古墳群地帯として有名。
明治9年(1876)11月9日、上田嘉治郎が萱生の天神祭へ出かけようとしたとき、娘のナライトが突然
「布留の石上さんが総髪のような髪をして降りて来はる。怖い。」と言って泣き出し、いろいろと手当を尽くしたが何の効能もなく、隣の西浦弥平のにをいがけで信心するうちに次第によくなり、翌月おぢばへ帰り教祖(おやさま)にお目にかかり、すっきりたすけていただいたという(『稿本天理教教祖伝逸話篇』84頁)。

川原城村 かわはらじょうむら  

現在の奈良県天理市川原城町。三島西側に接している。
石上神宮の参道があり、現在の天理本通りの上街道との四辻に鳥居が立っていたという(『稿本天理教教祖伝』98頁参照)。
鳥居は明治初年に老朽化して取り除かれ、寛政年間の石燈篭が残っていた。
明治14年(1881)に、富岡鉄斎筆の「石上神宮」の碑(現在、石上神宮入口に移されている)が建てられた。大正10年(1921)頃まで、川原城町の燈篭から旧郡山詰所(現在西左3棟)までは、一面の青田であったという。

車返 くるまがえし  

地名。現在の奈良県天理市田部町の小字名。
今の東本詰所から筑紫詰所にかけてのあたり。
車返は、車が進まなくなったために引き返したという伝説をもつ地名である。
明治7年(1874)12月23日(陰暦11月15日)、教祖(おやさま)は、呼び出しに応じ五名を供にして山村御殿に出掛けられた。
途中、ここで、つまずかれて下唇を怪我なされた(『稿本天理教教祖伝』118-119頁参照)。教祖は、おやしきから布留街道を西へ下り、車返を経て上街道を北へ進み、それから山村御殿へ出向かれたといわれる。

阪 さか

旧地名。現在の奈良県天理市滝本町下滝本に、かつて阪という地名の所があった。
そこに庄司家があり、屋号を阪の大新、また阪新という材木屋があった。
『稿本天理教教祖伝』には、つとめ場所のふしんの折、「飯降伊蔵は阪の大新へ材木の注文に」(55頁)とある。
また明治14年(1881)のかんろだい石ぶしんの折、その石材は滝本村の山から運ばれたが、その阪の大新が仲立ちをしている。

佐保庄村 さほのしょうむら

旧柳本藩領。
三昧田村の東、竹ノ内村との中間にあり上街道に沿う村。
現在の奈良県天理市佐保庄町。
『稿本天理教教祖伝』には、元治元年(1864)おやしきから大豆越村へむかう記事として「山口村、乙木村を左に見て進むと、間もなく行く手に、佐保庄、三昧田の村々が見える」(56頁)とある。
明治13年(1880)の転輪王講社名簿には、全村39戸中28戸の名前が記されており、明治15年3月改めの講社名簿に、「誠心組(大和国佐保庄村講中)」(同250頁)とある。
早くから信仰の伝わったところである。

庄屋敷村 しょやしきむら

明治10年(1877)に三島村と合併。
現在の奈良県天理市三島町の東部にあたる。
天理教教会本部のあるところ。
立教当時の戸数は、20数戸、人口は110名から120名ぐらいか。
宝暦10年(1760)の布留社記録では103名となっている。
明治10年、三島村に合併し三島村として322名、明治22年頃は358名となっている。
『稿本天理教教祖伝』には、明治6年、「秀司は庄屋敷村の戸長を勤めた」(109頁)と出ている。
明治7年、教祖(おやさま)が前川家に持参された「外冊おふでさき」第3号の表紙に「庄屋敷中山より神様之人数御出被下明治七年六月十八日夜神楽本勤」(113頁)と書き残されたと記している。
そのほか、「庄屋敷村のをびや神様」(44頁)、「庄屋敷村の生神様」(62頁、96頁)という風評のひろがる様子が多く記されている(『稿本天理教教祖伝逸話篇』68、71、
101、125、244頁など)。

杉本村 すぎもとむら  

村名。旧天領。現在の奈良県天理市杉本町。
近鉄前栽駅のあるあたりである。
『稿本天理教教祖伝』に、明治10年(1877)「杉本村の宮地某が、ひそかに七草の薬を作り」(137頁)とみえる。
明治13年の天輪王講社名簿には、上杉和喜造の名が出ているが、彼の母は天理市豊田町の人で、教祖(おやさま)から裁縫を習った一人だという。

杣之内村 そまのうちむら

現在の天理市杣之内町。
山口村、木堂村、内山村は合併、柚之内村(木と山と内からなる作字地名)となる。
今日、天理大学、天理図書館、天理高等学校、天理中学校、天理小学校の所在地名。

園原村 そのはらむら

現在の天理市園原町。乙木村東北の山麓集落。
明治7年(1874)には、この村の西浦弥平が信仰し始めている。
また、上田嘉治郎、ナライトもこの村の出身である(『稿本天理教教祖伝』135頁、『稿本天理教教祖伝逸話篇』95頁)。

滝本村 たきもとむら

現在の天理市滝本町。
布留川上流の渓谷集落。
明治9年(1876)、旧熊橋村・針之尾村と合併し、滝本村(現、滝本町)となる。
滝本は桃尾滝にちなむ村名。
明治14年5月5日(陰暦4月8日)、滝本村の山で「かんろだい」の石見が行われ、5月上旬から石出しが始まり、ひのきしんの人たちで、にぎわったという(『稿本天理教教祖伝』152-153頁、『稿本天理教教祖伝逸話篇』139頁参照)。
明治16年8月15日(陰暦7月13日)の雨乞づとめには大夕立となり、「三島の川筋は番破れとなり、川上の滝本村の方で水喧嘩が出来た」(『稿本天理教教祖伝』262頁)という。

田部村 たべむら  

村名。現在の天理市田部町。
明治7年(1874)12月23日(陰暦11月15日)、教祖(おやさま)は、数名の供を連れて山村御殿へ御苦労になったが、「途中、田部村の小字車返で、ふと蹟いて下唇を怪我なさった。
心配するお供の人々に対して、教祖は、「下からせり上がる」と、仰せられ、少しも気になさらなかった。」(『稿本天理教教祖伝』119頁)と記されている。

丹波市町 たんばいちちょう

地名。昭和29年(1954)に天理市が誕生するまで、おぢばの所在地は丹波市町と称した。
立教の天保9年(1838)には、山辺郡庄屋敷村であったが、明治10年(1877)に三島村と合併し、明治21年の町村制公布によって、三島村はじめ、滝本村、芭原村、上仁興相、下仁興村、藤井村、内馬場村、布留村、勾田村、川原城村、丹波市村、御経野村、田村、守目堂村、石上村、田部村、別所村、豊井村、豊田村、岩屋ケ谷村の20カ村が合併して、山辺郡山辺村と称した。明治26年9月20日、丹波市町と改称して町制をしいた。明治34年に柚之内が朝和村から丹波市町に編入され、昭和29年(1954)まで21大字を丹波市町と称した。この地名を用いた記事に、柳田国男「丹波市記」(筑摩書房『定
本柳田国男全集第2巻』438頁-443頁)がある。
なお、明治32年に、鉄道が敷設され丹波市駅が設置され、昭和38年に天理市駅と改称し、昭和40年に、国鉄と近鉄との総合駅「天理駅」が営業を開始した。

丹波市村 たんばいちむら  

地名。
現在の天理市丹波市町。
室町中期以降に、上街道に沿った市場町として成立し、近世には宿場町として発展してきた。
津の藤堂藩の所領。『稿本天理教教祖伝』に、「善兵衛の役友達である別所村の萩村、庄屋敷村の
足達、丹波市村の上田などの人々」(24頁)とか、明治18年(1885)6月のふしのところでは「丹波市村の駒村顕夫が仲に入って」(279頁)と出ている。
『稿本天理教教祖伝逸話篇』には、あるとき、増井旦友は、紙を「丹波市へ行て買うて参ります。」(80頁)と教祖(おやさま)に申し上げたという。明治14年のこと、「甘酒屋は、丹波市から、いつも昼寝起き時分にやって来るのであった」(153頁)、明治14年頃岡本シナは、「教祖から頂いた赤衣の橋杵を着物の上から羽織って、夢中で丹波市の町中をてをどりをしながらかえった。」(156-157頁)、明治17年遠江真明組の一行は、「丹波市の扇屋庄兵衛方に一泊した。」(231頁)と出てきている。

苣原村 ちしゃはらむら

村名。現在の天理市琶原町。
仁輿村東北方の渓谷集落。
『稿本天理教教祖伝逸話篇』に、大和国仁輿村の的場彦太郎は、「盆踊りの頃ともなれば、長滝、芭原、笠などと、近在の村々までも出かけて行って、音頭櫓の上に立った。」(33頁)というのと、明治18年(1885)、「琶原村(注、おぢばから東へ約1里)の谷岡字治郎の娘をならむめは、栗を取りに行って」(274頁)と出ている。

豊田村 とよだむら  

村名。現在の天理市豊田町。
三島町の北に接している。『稿本天理教教祖伝』には、「お針子の中に、豊田村の辻忠作の姉おこよ
が居た。」(32頁)、嘉永6年(1853)頃、長女おまさは、「緑あって豊田村の福井治助へ嫁いだ。」(34頁)、文久3年(1863)に親里に引き寄せられたのは、「豊田村の仲田佐右衛門、辻忠作等である」(44頁)とある。
元治元年(1864)には「豊田、忠作、御幣、肥授けよう。」(48頁)と、言葉をいただいている。
この頃には、「豊田村」(48頁)などの近村は言うに及ばず、遠方からも人々が親里に寄り集まっている。
教祖(おやさま)から、はじめて、「おっとめ」を教えられた人の中に「歌は、豊田村の忠作」「手振りは、豊田村の佐右衛門、忠作」(96頁)とある。
慶応3年(1867)に、吉田神祇管領の公認を得たが、帰りには、一行
は「別所村から豊田村へと間道を通り、志なくお屋敷へ到着した、という話が残って居る」(98頁)。
明治16年(1883)の雨乞づとめの際、「隣村の豊田、守目堂、川原城など、ごく近い村々が、ホンの少しバラ/\とした位」(262頁)であったという。
明治17年の夜12時頃、「お屋敷へお詣りした忠作が、豊田村
へ戻ろうとして、鎮守の杜の北側の道を東へ急いで居た時に、この2名の巡査に行き合い」(269-270
頁)と出ている。
『稿本天理教教祖伝逸話篇』には、「嘉永五年、豊田村の辻忠作の姉垂主星が、お屋敷へ通うて、教祖からお針を教えて頂いていた頃のこと」(4頁)、「ある時、教祖は、豊田村の仲田儀三郎の宅へお越しになり」(69頁)と出てきている。

長滝村 ながたきむら

村名。現在の天理市長滝町。
『稿本天理教教祖伝』に「近在に聞こえた修験者、長滝村の市兵衛に使者を出したが」(2頁)とある。
『稿本天理教教祖伝逸話篇』には、「大和国仁興村の的場彦太郎は、声よしで、音頭取りが得意であった。盆踊りの頃ともなれば、長滝、芭原、笠などと、近在の村々までも出かけて行って、音頭櫓の上に立った。」(33頁)とある。

永原村 ながはらむら

現在の天理市永原町。
『稿本天理教教祖伝逸話篇』に、「大和国永原村の岡本重治郎の長男善六と、その妻シナ」(144
頁)、「永原村から約一里ある小路村」(145頁)と出ている。

新泉村 にいずみむら

現在の天理市新泉町。
大和神社西南の平坦集落。
『稿本天理教教祖伝』には、元治元年(1864)頃には既に、新泉村など、「近村は言うに及ばず、かなり遠方からも、多くの人々が寄り集まった。」(48頁)とあり、大和神社の一件には、「百方手をつくし、新泉村の山澤良治郎からも、筑前守に掛け合うた。」(58頁)とある。

二階堂村 にかいどうむら

現在の天理市二階堂地区。
山辺郡二階堂村27大字はじめ6カ町村は、昭和29年(1954)に合併して天理市を設立。
『稿本天理教教祖伝逸話篇』に、明治8、9年(1875、1876)頃の正月10日、大雪の日、増井りんは、「やっとの思いで高橋を渡り切って宮堂に入り、二階堂を経て、午後4時頃お屋敷へたどりついた。」(76-77頁)とあり、立花善吉は、「大阪から歩いておぢばへ帰って来た。
こうして野を越え山を越え又野を越えて、10里の道のりを歩いて、ようやく二階堂村まで来た。」(159頁)とある。

仁興村 にごうむら

現在の天理市下仁興町・上仁興町。竹之内町東方、藤井村東北の東山中にある。
『稿本天理教教祖伝』に、天保8年(1837)10月26日、17歳の長男秀司は、急に左足に痛みを覚え、医者に診せたが、痛みは一向に治まらない。「そこで、人の勧めるまゝに、近在に聞えた修験者、市兵衛に使者を出したが、あいにく市兵衛は仁輿村へ行って不在であった。」(2頁)とあり、『稿本天理
教教祖伝逸話篇』には、「大和国仁輿村の的場彦太郎は、声よしで、音頭取りが得意であった。」(33頁)とある。

額田部 ぬかたべ

地名。現在の大和郡山市額田部北町・額田部南町・額田部寺町。
『稿本天理教教祖伝逸話篇』に、「明治8、9年(1875、1876)頃、増井りんが信心しはじめて、熱心にお屋敷帰りの最中のことであった。
正月10日、その日は朝から大雪であったが、りんは河内からお屋敷へ帰らせて頂くため、大和路まで来た時、雪はいよいよ降りつのり、途中から風さえ加わる中を、ちょうど額田部の高橋の上まで出た。」(75-76頁)とある。

檜垣村 ひがいむら

現在の天理市檜垣町。
『稿本天理教教祖伝』に、明治10年(1877)、「この年には、大和国北檎垣村の岡田与之助(後の宮森与三郎)等が、信仰し始めた」(139頁)。明治15年3月改めの講社名簿によると、「真実組(大和国法貴寺村、海知村、蔵堂村、槍垣村)」(250頁)とある。
『稿本天理教教祖伝逸話篇』には、明治7年、岡田与之助18歳の時、「教祖(おやさま)にお目通りすると、「与之助さん、よう帰って来たなあ。」と、お言葉を下された。
そのお言葉を頂くと共に、腕の痺きは、ピタッと治まった。その日一日はお屋敷で過ごし、夜になって槍垣村へもどった。」(68頁)とある。

福住村 ふくずみむら

旧津(藤堂)領。
現在の天理市福住町。
『稿本天理教教祖伝』には「同(慶応元)年7、8月頃、福住村へ道がつき、多くの人々が相次いで参詣して来た中に、針ケ別所村の助造というものがあった。」(64頁)とある。

別所村 べっしょむら

旧藤堂藩領。
現在の天理市別所町。
なお添上郡の別所村(現、奈良市別所町)と区別し、田部別所ともいう。
『稿本天理教教祖伝』には、「善兵衛の役友達である別所村の萩村」(24頁)とあり、慶応3年(1867)、中山秀司は京都に上り、吉田神祇管領の認可を得て、帰りには、「別所村から豊田村へと間道を通り、志なくお屋敷へ到着した」(98頁)とある。
『稿本天理教教祖伝逸話篇』には、文久元年(1861)、西田コトの逸話に「別所の奥田という家へ嫁入っている同先輩の人に、道路上でバッタリと出会った。」そこで「「庄屋敷へ詣ったら、どんな病気でも皆、救けて下さる。」という事を聞き、早速お詣りした。」(8頁)とある。

勾田村 まがたむら

旧芝村藩領。
現在の天理市勾田町。『稿本天理教教祖伝』には、「勾田村のそよを雇い」(3頁)、「勾田村の善福寺」(16頁)とある。教祖(おやさま)は19歳のとき、この善福寺で五重相伝を受けられた。
また教祖の墓地は明治20年(1887)から25年まで善福寺にあった。

三島村 みしまむら

現在の天理市三島町。
現在の三島町は、もとは三島村と庄屋敷村とが明治10年(1877)5月30日に合併したもの(『改訂天理
市史上巻』昭和51年、336頁)。『稿本天理教教祖伝』には、教祖(おやさま)によって、はじめておつとめを教えていただいた人々の中に、手振りについて「三島村の嘉一郎」(96頁)と出ている。明治16年の雨乞づとめの記述において、「この夏は、近畿一帯に亙っての大早魅であり、三島村も長い間の早魅つゞきで、田圃にはひゞが入り、稲は葉も茎も赤くなって」(258頁)とある。
雨乞づとめのあと、「三島の川筋は番破れとなり」(262頁)警官は、「雨乞づとめをして、近村へ降る雨まで皆、三島村へ降らせて了ったという理由により、水利妨害、又、街道傍でつとめをしたから道路妨害、という名目で」(264頁)、科料を申し渡している。明治19年(1886)5月25日、「櫟本分署から、眞之亮に対して呼状が来た。
出頭すると、大阪で茨木基敬が、「みかぐらうた」を警官に没収された時に、大和国三島村中山新治郎宅で貰うた。と、答えた為、」(292頁)とある。

守目堂村 もりめどうむら

旧天領。
現在の天理市守目堂町。
三島町の南。
『稿本天理教教祖伝』には、「守目堂村の瓦屋」(55頁)とあり、明治16年(1883)の両乞づとめには、豪雨になったというが、「この時、誰しも不思議に思ったのは、隣村の豊田、守目堂、川原城など、ごく近い村々が、ホンの少しバラ/\とした位で、雨らしい雨は殆んど降らなかった事である。」(262-263頁)とある。

柳本村 やなぎもとむら

現在の天理市柳本町。
教祖(おやさま)は、明治7年(1874)12月23日(陰暦11月15日)、呼び出しに応じ山村御殿へ出掛
けられたが、お供した5人の中に、「柳本村の佐藤某」(『稿本天理教教祖伝』118頁)がある。

山口村 やまぐちむら

旧芝村藩領。現在の天理市棚之内町。明治12年(1879)11月5日、山口村、木堂村、内山村は合併し、三村の頭文字を作字して、柚之内村となる(『改訂天理市史上』336頁、昭和51年)。
元治元年(1864)、つとめ場所の棟上げの翌日、一同は大豆越村へ向かって出発したが、その様子が『稿本天理教教祖伝』には、「山口村、乙木村を左に見て進むと、間もなく行く手に、佐保庄、三昧田の村々が見える。尚も南へ進み、やがて大和神社の前へ差かゝると」(56頁)と記されている。