天理教人名辞典 増田甚七 ますだじんしち

増田甚七 ますだじんしち

文久3年(1863)5月20日、大和国式下郡八田村(現、奈良県磯城郡田原本町)で、笹村平蔵・おかねの二男として生まれる。

幼名を甚之助と言ったが、明治13年(1880)、郡山の柳町「山九」呉服店増田楢江の長女つねの養子婿として迎えられ、甚七と改名した。

明治19年、二女の乳母が、リュウマチで足腰が立たなくなり、困り果てていた時、隣家の福地のぶの「にをいがけ」(においがけ)で平野楢蔵がお救けに運び、1週間目には立てるようになった。

この鮮やかな御守護に楢江が入信し、甚七も親神をおまつりして、明治20年、「おきづけ」(おさずけ)の理を拝戴した。

入信後の6年間に2人の子供と妻つねを続けて亡くしたので、世間からは、「増田はんは助けて貰おうと思う天理さんに入って、妻も子も天理さんに祈り殺されたやないか。この調子ではヒヨットすると、家内中死に絶えて仕舞うかも知れんぜ。それにあんなものを信心するなんて、あの人も余程ぼけて居るやないか」と陰口をたたかれた。

世間の反対攻撃の中を商売をやめ、天野善七の三女房江と再婚し、平野初代会長の片腕となり、道一条に専念した。

明治33年初代会長が、専ら本部の上に勤めることになり、郡山分教会2代会長に就任。

しかし、明治40年、平野会長出直し後の郡山大教会は、大きな負債を抱え財政的に困窮のどん底に陥った。

甚七はその責を負って大正6年(1917)7月、大教会長その他の役職をすべて辞任し、不自由な生活を通った。

1年後ようやく財政事情が好転し、復職した。

大教会の移転敷地として、元郡山城主柳沢家の所有地2万坪を買収、普請にとりかかり、甚七も率先してひのきしんに参加した。

神殿上棟式直後、昭和3年(1928)4月30日、落成奉告祭を目前にして出直した。66歳。