飯田岩治郎の生い立ちと略歴

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【教祖伝入門十項】第2章「生い立ち」と一緒に読む記事!

略歴

飯田岩治郎は、安政5年(1858)3月23日、大和平野の西、法隆寺の少し東の大和国平群郡東安堵村(現、奈良県生駒郡安堵町東安堵)に、飯田文吉、ていの長男として生まれ、父文吉の兄(本家)の飯田善六、こう子の養子となった(文吉、ていも同居)。

 文久3年、岩治郎6才の時、腹痛の重病にかかり、一命も危ないという容体になった時、両親は教祖に願い出た。教祖は早速飯田宅に出掛けられた処、岩治郎はみるみるうちに元気になり、牡丹餅も食べる程に御守護を頂いた。

ポイント

教祖は「待っていた」と仰せられた。そして、「先代の伯父に会いに来ました」と言われたという。(この時、教祖より水のさづけも頂戴した。)

 教祖は、7、8日間滞在され、寄り集う人々を救けられた。そして翌4年正月、教祖は再び飯田宅へ出向かれ、40日間程滞在された。この由を聞き伝え、近在の村々からも教祖を慕い、たすけを願う者が引切りなく続いた。
(並松村の医者、古川文語が乱入してきたのもこの時であった。)

 岩治郎は、救けて頂いたのを動機に、多年お道に奉公した結果、明治21年には教会本部準役員に任じられ、明治25年には平安支教会長も拝命した。また、明治8、9年頃、教祖から人足社と言われていた。

 岩治郎は、特別なさづけ・特別な理を頂戴していたことから、「いずれ時期が来れば、神様が使ってくれるだろう」という気持ちを持っていた様子があった。そして、明治13年頃から道楽をするようになった。はじめは丹波市でしていたが、どうせするならと、東京へ行って道楽していたのであった。

 ところが、神様はそのような怠慢な心はいけないと、おさしづ(明治30・6・3)で仰せられている。

※人足社…上田ナライト様、山本吉五郎氏の3人が言われた特別な理。詳細は不明である。

安堵事件(通称:水屋敷事件)

 明治30年、先頭に立ってお道を引っ張っていた飯田岩治郎が異端を唱えた事件で、水屋敷事件とも呼ばれている。

 前年の29年に発布された内務省(秘密)訓令による外部からの攻撃に加えて、内部から、異説を唱える事情が勃発した。

 教祖に直接救けられ、熱心に信仰していた岩治郎であったが、どう勘違いしたものか、高慢の結果逆上して、「ここは水屋敷で本部は火屋敷、水は火に勝つのだから自分の屋敷こそ天理教の中心地である」と言って異端を唱え、役員、信者をまどわすのみならず、次第に部内以外の信者にも手を伸ばし始めた。      

 そこで本部では、おさしづ(30・6・3、30・7.3、30・7.14、30・8・2)を頂くと共に、繰返し人を派遣して改心飜意を促したが、当人は、温情を弱体と見誤り、大恩を忘れ、本部の理をないがしろにして省みない。ましてや、その勢いはだんだん膨張していった。

 そして、勢いに乗じて、平安支教会から役員と称する者5名が本部にやって来て、「わが平安こそ、広い世界に2つとない水屋敷である。ぢばに立てこもる者達は何と考えるか。いずれ平安から往還道を付けるから承知せよ。」と申し立てたのであった。

 その結果、その心は親神様に映り、初めの間は「親切に抱きかかえて通れ、早い目に忠告してやれ」とのみ、お諭しされていたが、次第に厳然となり、遂に(30・11・13)のおさしづでは、「理によって、すっきりと掃除して了え」と促されるに到った。

 このおさしづを頂き、11月17日に飯田岩治郎他2名の教導職を免じ、翌18日には、同人の教会本部準役員及平安支教会長を解免することになった。

その後

 明治30年11月25日、「平安支教会を、奈良県生駒郡竜田町へ移転願」のお許しを頂く。11月27日には、飯田岩治郎の件に付、おさしづを仰いで、平安以外への波及を喰い止めた。

 かくの如く、着々と処置した上、11月29日付、「平安支教会長を板倉槌三郎に変更の上、竜田村元すみやへ仮りに移転願」と、おさしづを仰いでお許しを頂いた上、更に押して、「竜田へ移転する事情願」「同神霊を其儘遷すものや、又は幣を持って行て御遷り下さるものや願」、「明後日出越す願」、「平野、松村、板倉三名出張願」と、委細おさしづを仰いだ。

 そこで、いよ/\この御指示に従い、掃除する事に決し、命を受けて松村吉太郎は、12月11日上京し、一切の事情を具申して神道本局の了解を求めた上、帰和して、飯田は免職、平安は竜田(竜田町大字竜田字馬場百八番屋敷)に移転という、本部の命令を実施した。

 こうした動きに対応して、飯田の一味が東京へ出て、何か画策するために上京したとの報せが入ったので、松村吉太郎が上京して、安堵事件に付、神道本局との連絡その他、諸般の手配に奔走した。

補足説明
  • 安堵村は、教祖が道の初期にたびたび足を運び、おたすけして下さった由緒ある所である。大和川の水運の盛んな頃は、大和と河内の物流の中継地として人の往来が盛んであった。伝道の上でも、安堵から大和の各地、河内、大阪へと伝わっていった伝道の要所であった。
  • 事件前、平安支教会には教導職114人、信者1500戸余りがあった。事件後、平安に残ったのは教導職16人、信者30戸余りであった。他は水屋敷側につくか、信仰を止めてしまったという。
  • 以後の岩治郎は、明治32年大成教の教師になる。33年現在の大道教の元を設立。晩年、教祖に無い命を救けられ、50歳まで生きることができたと語っていたようだ。明治40年5月16日、50歳で死去。

参考おさしづ

【明治29年4月21日】

道の中の反対は、肥えをする処を流して了うようなもの。こんな所にこんな事があったかと、鮮やか分かる程に/\。

【明治三十年六月三日】

安堵村飯田岩治郎事情願(事情は神様下がると言うに付将来治め方に付願)

渡したようなものや、渡したようなものやと、それはどういうもの。この道三十年二十年後、道理聞き分け。その時我がものというは、生涯我がもの。よう聞き分けて、一時間違う道理よう聞き分け。何処にどういう事授けた、こういう事授けた。それは修理して、作り上げてこそ、我がものである。

【明治三十年七月十四日】

安堵村飯田岩治郎神様下られる様申されるは道具主でも出られるや如何と心得まで願(前日御願通りだん/\信徒へ及ぼす故心得まで願)

理という理を聞き分け。一時の理と、最初の始まりの理と、直ちにどうと言わん。この元という理、元というはほんのちょいと出て話して、年限初め万分の一から、成らん理から始め掛けたる。何処にどういう事がある、彼処にこういう事がある。存命中に言うたる。世界道理の理に一つ成るか成らんか……

神一条の道からは、万分の一の道を付けたのやで。それから聞き分けば、邪魔になるものは邪魔になる、害になるものは害になる。言わいでも分かった話や。

押して、信徒取り締まり上に付願

話す処どうも一時すっきりとして了えば、言うまでの事情や。一所崩れたら、何処まで崩れるとも分からん。一とこ崩れたら何処まで崩すやら分からん。しっかり治め/\。言うて治まらにゃどうもならんやろう、と言うても、要らんと言うやどうもならん。ほのかの理から治まりたる処、どちらやらこちらやら、今一時の道という。思うか思わんか、よう思やんしてみよ。

【明治三十年八月二日】

平安支教会長飯田岩治郎事情に付願

教祖に心映して年限の道。……めん/\心出したら、皆根を忘れて了うも同じ事。

押して七月三十日(陰暦七月一日)に飯田へ神下り、筆先と申し、二つ無い水屋敷其外いろ/\御指図ありましたは実ですや、心の迷いですや願

水屋敷と言うた事は無い。三代四代経っても、代々変わらねば又水屋敷も同じ事。

又、暫くして

神という、世界心と思うから出たであろう。よう聞き分けば、そうやない。聞き分けば真実分かる。

又、暫くして

平安という理が一つある。これまで互いという理が一時忘れられようまい。この場で成程と思えども、あちらへ戻ればどうと思やんは要らん。教祖一つの話、存命同様の理である程に。

又、暫くして

又一つ話、明日から心治まれば同し事、互い/\心はどうしたぞいなあというようなもの。これも又皆精神にあろう、とさしづして置こう。

【明治三十年十一月十三日】

飯田岩治郎だん/\相つのりしに付、処分方に付願

日々だん/\日が経つ程、皆んな寄り合う心に理が寄りて来る。寄る程真の理を失うて了う。こうしたならいけんやないかと、何にもならん事して、今まで積んだもの掘り起して了うようなもの。二所も三所も出来るものなら、元のやしきは要らんもの。元分からんから、そういう事するのや。数々世上に理を下ろしたるは、同じ一つの理。尽して十分運んで十分、年限経ってこそいつ/\までの事情。最初は一寸した容物に入れてあるようなもの。なれど、だん/\日が経つ、理が殖えて来れば仕舞には容物には入らんように成る。成ってからどんならん、出けてからどんならん。いかんものは誰聞いてもいかん、善きものは、誰が聞いても善きもの。それで今日の日は、僅かの日を待って、これでと言えば、それよりすっきりするがよい。うか/\したら、どんな事になるやら分からん。

悪というものは、立ち掛けたら一時は立つものや。放って置いてはどうもならん。世界には未だ/\分かりた者は僅かしか無い。早くに取りて了えば、今日の日は無きもの。それからそれと心に欲が付くから、一人出け二人出け、それが頼りになりてだん/\事情と言う。あちらこちら何も分からん者、いつまでやっても行かせん。今日の日は一寸片付けて、すっきりして了うがよいで/\。

【明治三十年十二月二十三日 夜】

松村吉太郎、飯田岩治郎の件に付上京せし処、その夜より右の足に出来物出来、追々大きく相成るに付願

さあ/\尋ねる事情/\、身上に心得ん、どうも身上心得ん、事情尋ねる。尋ねるから、一寸諭し置こう。もうこれどうなる、こうなると言う。日々心に掛かる/\。又一つ事情まあ一寸心に掛かる。掛かるから出越して事情、中に身上心得んと言う。よう聞き分け。この道は、どういう理から出たる。始まりの理さえ心に持てば、どんな事有っても案じる事は無いで。真実さえ心に治まれば、案ぜは一つも要らん。中に一つ話す事がある。切って話し置く。めん/\は若き事情、道の理一つの心ならいつ/\頼もし、これまでの処何ぼ働いたて、暮れた教祖の理を思え。存命の間楽しみの理も無く、理を見ず暮れた教祖の理を見よ。働けば働くだけ、めん/\心に誠さえあれば踏み損いは無い。これ諭したら分かるやろう。働いたら働いたゞけ、これから見えるのや。よう聞いて置かにゃならん。

参考文献

  1. 橋本武『おさしづを拝す〈中〉』天理教道友社立教172年
  2. 高野友治『教祖様十年祭とその節について』天理青年教程7号
  3. 天理教教会本部編『稿本 天理教教祖伝』P46~47
  4. 天理教教会本部編『稿本 中山眞之亮伝』P227~235