【教祖伝入門十項】第2章「生い立ち」と一緒に読む記事!

第2章「生い立ち」を拝読する前に

この第2章「生い立ち」では、月日のやしろになられる教祖とは、

  • どのような道すがらをお通りになって、天保9年に至られたのか?
  • どのようなお人柄であったのか?

というような、天保9年10月26日以前の教祖の道すがらが書されております。

月日のやしろにおなりくださるほどのお方なればこそ、かくお通り下さったのであろうと胸を打たれる章でもあります。

背景と意義

月日のやしろになられる歩み方

口伝おさしづに

この屋敷へ木仏金仏を据えたところで、神が入り込んでものを言わすわけにはいかんで。元なるおやの魂に人間の五体を生に享けさして、神が天よりその心を見澄ましていた。

口伝おさしづより

と仰っておられます。

これは、”人間を初めた元の屋敷に、木で作った仏さんや金で作った仏さん、あるいは、地蔵さんのように石で作った仏さんをこのぢばに据えて、親神様の思召しを伝えるわけにはいかない”という意味なのです。

そして、親神様は、天より中山みき様の通られる道すがらを見ていると、大変親神様の御心に適った心の澄みきったお方であったので、おやさまが月日のやしろにおなりになられたのです。

たすけ一条の話の台

教祖のひながたというのは、天保9年から現身を隠されるまでの50年間を指し、このひながたの道を重視するがために、教祖41歳以前の道すがらが軽視されている傾向があります。

その中にあって、第2章「生い立ち」では、近所のお子さんが乳不足で困っており、教祖は、そのお子さんを引き取り、お育てになられました。

しかし、当時預かったお子さんが、当時流行していた「黒ぼうそう」にかかり、命が危ないという状態になります。

教祖は、せっかくお預かりしたお子さんでしたので、「たとえ我が子・我が身がどうなっても」との思いで八百万の神々に御祈願なさって、お救けなされたお話があります。

この出来事は、教祖のひながた以前のですが、これも一つのたすけ一条の話の台なのであります。

月日のやしろへの準備へのみちすがら

先ほどのお話にもあるように、天保9年以前の道すがらも、天の理に適う道すがらであるため、今を生きる私達もしっかりと、見習わせていただかないといけません。

ただし、月日のやしろでおありになるわけではないので、たすけ一条の道をもって、世界だすけにかかられた歩みではなかったということだけはハッキリとしております。

ですが、そのことを配慮しても、月日のやしろとなるために大切な準備の道すがらであると思わせて頂きます。

要は、「人を救けなけねばならない」という誠真実が大切なのです。

ここからは、本文の解説をしていきたいと思います。

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第2章「生い立ち」用語集

寛政10年4月18日・・・西暦1798年6月2日にあたる

無足人…江戸時代、所領なく、扶持米を給与とされた下級武士。

大庄屋…江戸時代、領主が村民の名望家中から命じて、郡代・代官に属させた一つの村の長が庄屋。その上にいくつかの村の長として大庄屋がある。

寺子屋…江戸時代、庶民の子供に読み書きの初等教育を施した場所。

浄土和讃…和讃は漢讃・梵讃に対して、国語で仏徳、浄土などの讃嘆した歌で、一般に七五調の四句を一連とする

浄土…この世に生を享けたすべてを救い上げようと誓いをたて悟りを開いた仏が、その誓いと悟りによって、建設したという清浄な国土。

五荷の荷・・・嫁入りの時の荷で、タンス二本長持二差し、両掛け一荷をいう。

遊山…野山に遊びにでかけること。

五十相伝…浄土宗で最高最重といわれる秘伝伝法の宗教の儀式。

氏神…氏の祖先の霊を神として祀ったもの、氏神族。

ご幼少〜ご結婚

幼少期

教祖伝第2章「生い立ち」では、ご幼少時代のご様子を書かれておりますが、二代真柱様は、

二代真柱様
二代真柱様

こうした教祖の子供さんの時分の語り伝えとしては、完全無欠な偉い子供のように書かれているのどけれど、世間を見れば、これに来たような子供も居るのであって、教祖の子供時代の状態がどうこうであるということは、ひながたとしてあまりとやかく言うことはできない。

とこのように仰っておられます。

信仰心の芽生え

また、13歳ごろになられますと、教祖は

生来身体が余り丈夫ではない処から、浄土に憧れ、かねて尼になりたいと思われてた居た頃の事とて、、、

天理教教祖伝第2章「生い立ち」

と書かれており、早い段階で信仰心が芽生えていることが分かります。

ちなみに、当時の時代背景を調べてみると、自分の娘が、「尼さんになりたい」ということは、親にとってみれば、あまり嬉しくないことだったようです。

ご結婚

さらに、教祖伝を読み進めていきますと、

文化七年九月十五日、振袖姿で駕籠に乗り、五荷の荷を持って、庄屋敷村の中山家の人となられた。時に十三歳であった。

このようなことも書かれておられます。

現代の13歳というと、中学1年生の歳になりますが、当時の社会の風潮としては、13歳ぐらいで結婚するのは当たり前だったそうです。

結婚生活

はたらく

朝は早く起き、自ら先に立って朝餉の仕度にかかり、日中は炊事、洗濯、針仕事、機織りと一日中家事に勤まれたのみならず、農繁期の、田植え、草取り、稲刈りから、麦蒔き、麦刈りに到るまで、何なさらぬ事は無かった。後年、「私は、幼い頃はあまり達者でなかったが、百姓仕事は何でもしました。只しなかったのは、荒田起しと溝掘りとだけや。他の仕事は二人分位働いたのやで。」と、述懐されたように、男の仕事とされて居るこの二つの力仕事を除いては、農家としての仕事は何一つとしてなさらぬ事は無かった。

教祖伝でも書かれているように、教祖は結婚されてからも、非常によく働かれたと聞かせて頂きます。

教祖のご述懐によりますと、”私は達者ではないから働かせてもらっているのや”とも仰っておられます。

ですが、一般社会では、からだが弱いからあまり働けないと考えてしまいます。

そう考えると、教祖のひながたを思う時、天理教では、物事の順序が違い、逆に働くことで、身上壮健をお与えいただくのです。

「働く」と「稼ぐ」の違い

教祖の御言葉に、

はたらくとは「働くというのは、はたはたの者を楽にするから、はたらくと言うのや。」

天理教教祖伝逸話篇

とお教え頂いております。

しかし、稼ぐという言葉は、はたらくとは違って、自己中心的な動きのことを表します。

ここに大きな、”天の理に適う動き””天の理に適わない動き”との相違があるのです。

私達も、「はたらく」「稼ぐ」の区別がつかなくて、朝から晩まで稼いでいるのを見て、

「よく働いてくれますな。」

と思ってしまいがちですが、天の理からみれば、感心のしどころが違うのです。

浄土宗の信仰を辞められる

教祖は、19歳の時に勾田村の善福寺で五重相伝を受けられました。

五重相伝というのは、浄土宗の奥伝みたいなものですから、物凄く重要な儀式になのです。

浄土宗の信仰の上では、相当な高いレベルに達しておられるはずなのですが、この後の教祖の道すがらには、浄土宗の仏様に祈って人をたすけられたというようなものは残っておりません。

浄土宗の信仰の目的は、来世の極楽を往生することで、この世ではなく、あの世に一つの浄土を求めているのです。

教祖のご心情からすれば、困っている人を見たらたすけずにはいられないわけです。

そのような御心からすれば、あの世で救かっていくような道を求めて、今日を泣きの涙で通っていくということは全く問題解決にはならなかったのです。

かのという女衆

教祖の41歳以前のひながたには、このようなシーンもございます。

かのという女衆があって、善兵衞の寵をよい事に、日増しに増長して勝手の振舞いが多く、終には、教祖をないものにして、我が身が取って替わろうと企て、或る日の事、食事の汁のものに毒を盛った。なにも知らず、これを召し上られた処、やがて激しく苦しまれた。家族の者は驚いて、懸命に看護の手を尽す一方、その原因を詮索すると、女衆の仕業であると分った。余りの事に驚き怒ったが、教祖は、苦しい息の下から、

「これは、神や仏が私の腹の中をお掃除下されたのです。」と、宥め容された。

天理教教祖伝第2章「生い立ち」

このシーンも、教祖のみちすがらの中で、ほとんどの人がお聞きになっている話ではないでしょうか?

男性がこの教祖の立場になっても苦しいですが、このひながたは、主に女性に向けてのひながたと思われます。

女性にとって、辛いことの一つとして、自分の夫が他の女性と関係があることが挙げられます。

女性として辛い思いをしたところに、天の理に適う適わんの理合いがあると見なければなりません。

夫様が、ちょっとお出かけになられるときでも、教祖はわざわざ自分の着物をかのさんに着せて、「旦那さんのお伴をしてください」と送りに出されておられるのです。

いわば、”自分の届かない所をかのさんに補ってもらうんだ”と考えておられるように見受けられます。

母親となられてから

親孝行の道すがら

教祖はご結婚されてから10年程経って、長男・秀司様がお生まれになられました。

前年に、舅である善右衛門様がお出直しになっていると考えると、秀司先生は善右衛門様の生まれ変わりではないかと推測します。

秀司懐妊中には、身重の身をもいとわず、姑を背負うて屋敷内はもとより、近所の誰彼までも訪ねて孝養の限りを尽された。

天理教教祖伝第2章生い立ち

また、教祖は懐妊中にも、普段と変わらず親孝行のを忘れず、心を行き届かしておられることも書されています。

親孝行は、自分中心に考えるとできないもので、親がいつもどのような思いや心でおられるのかを察することが大切なのです。

これももちろん、教祖が月日のやしろとなられる前のお話ですが、親孝行の道すがらを考えたとき、今を生きる私たちが学べることではないでしょうか。

預かり子を救けられた背景

「無理な願では御座いますが、預り子の疱瘡難かしい処、お救け下さいませ。その代りに、男子一人を残し、娘二人の命を身代りにさし出し申します。それでも不足で御座いますれば、願満ちたその上は私の命をも差上げ申します。」

天理教教祖伝第二章「生い立ち」

この預かり子のお話では、二代真柱様がハッキリ仰ったことがあります。

二代真柱様
二代真柱様

当時の家の観念がそこに含まれております。中山家という家の存立を重視されているから、教祖はこのようなことを願われたのです。

その当時の日本は、封建社会でありまして、家の在り方としては、戸主が全面的に権威がありました。

そして、次に権威のあるものは、その家の後継者であります。

このことを加味しますと、明らかに、当時の家観念を持った社会道徳を背景にした願いなのです。

この辺りが、天保9年以降の教祖との大きな違いになっているのです。

封建社会の女性の身分

当時の日本では、「三従七去」という言葉があり、

  1. 嫁に行くまでの娘時代は父に従うこと
  2. 嫁に行ってからは夫に従うこと
  3. 夫が亡くなれば息子に従うこと

これを「三従」と言います。

そして「七去」というのは、ある7つの1つでも条件に当てはまれば、離婚をしなければならないというものです。

  1. 舅・姑のいうことを聞けない女性
  2. 子供が産めない女性
  3. よくしゃべる女性
  4. 嫉妬・やきもちを焼く女性
  5. 病気がちな女性
  6. 窃盗をする女性
  7. 浮気・不倫をする女性

6つ目の「窃盗する女性」に関しては、当時よくあったケースとしては、嫁が気に入らないために、無い罪を着せて離婚させることもあったそうです。

澄みきった心に神が入り込む

前の章でも述べたように、「月日のやしろ」とは、神様のお住まいのことです。

人間中山みきは、神様が天よりその心を見澄まして、心の中に一点の曇りもない澄みきった心境であったと聞かせて頂きます。

みかぐらうた

よくにきりないどろみづや こころすみきれごくらくや

十下り目四ッ

とありますが、欲が無い最高の状態とは、”命がどうなっても”というときです。

これは先ほどと繋がるように、”自分の命に代えても預かり子を救けたい”と決意する心が、月日のやしろとなるための準備を整えられていたのではないでしょうか?

第2章「生い立ち」のまとめ

  • 親神様は、天より中山みき様の通られる道すがらを見ていると、大変親神様の御心に適った心の澄みきったお方であったので、おやさまが月日のやしろにおなりになられた
  • 天保9年以前の道すがらも、天の理に適う道すがらであるため、今を生きる私達もしっかりと、見習わせていただかないといけません。
  • 当時の社会風潮では、13歳頃で結婚するのは当たり前であった。
  • 「働くとは、はたはたの者を楽にするから『はたらく』というのや」
  • 天理教では、物事の順序が違い、逆に働くことで、身上壮健をお与えいただく
  • 女性として辛い思いをしたところに、天の理に適う適わんの理合いがある
  • 親孝行は、親がいつもどのような思いや心でおられるのかを察すること
  • 天保9年以降の教祖との大きな違いは、当時の家観念を持った社会道徳を背景にしたお願いであるところ。
  • 欲が無い最高の状態とは、”命がどうなっても”というとき