天理教人名辞典 前川菊太郎 まえがわきくたろう

前川菊太郎 まえがわきくたろう

慶応2年(1886)10月10日生。

父光造(杏助の二男)、母シズ子(半三郎の娘)の長男として、大和国山辺郡三昧田村(現、天理市三昧田町)に生まれる。

教祖(おやさま)の兄杏助の孫であり、また弟半三郎にとっても孫にあたる。

幼少の頃より教祖に可愛いがられ、初代真柱と同じ歳でもあり、真柱に対して控柱とも称されたほどの人であった。

「おふでさき」に、
このものハとこにあるやとをもうなよ としわ十一二人いるぞや(ふ12:148)
と誌されている「二人」とは初代真柱と前川菊太郎の両名を指す。

しかし、かねてより同僚等に対する不満に加えて、明治29年(1896)の内務省訓令の影響で離反した本部役員橋本活に誘われて、菊太郎は明治30年12月4日に本部理事の辞表を提出する。

教会本部としては、決してそのまま辞表を受けとることのできない人であっただけに、役員会議を開き、何度も「おさしづ」を伺い、翻意を促した。

しかし、その辞意は固く、明治31年2月4日には理事の辞令と辞職届を再度送り届けてくるに及んで、「暫くの処どうもならんから、一時の処すっきりして了うがよい。」(さ31・2・27)との「おさしづ」によって、やむなく辞表を受理することになる。

晩年、菊太郎は心をすっきりと改めて「本部の墓守をしたい」と言っていたが、大正2年(1913)3月29日、48歳で出直す。