天理教人名辞典 清水与之助 しみずよのすけ

清水与之助 しみずよのすけ

清水与之助は天保13年(1842)滋賀県高島郡安曇川で、兄妹6人の中の三男、5人目に生まれた。

嘉永6年(1853)12歳の時、京都三条通り富小路西入ル、呉服商問屋大黒屋へ丁稚奉公に出た。

その頃幕末動乱期で、京のまちに勤皇佐幕派の浪士が入り乱れ、暗殺が頻りに行われていた。

文久3年(1863)頃のこと、勤皇論者左久良太郎(のち丸山作楽)は幕府役人に追われているところを、与之助が路地へ導き危機を救ったことがあった。

慶応元年(1865)与之助24歳の時、大黒屋大阪支店の金番に抜擢された。

慶応4年1月、鳥羽、伏見の戦がおこり、9月8日明治と改元された。

この年、与之助は交際のあった光村弥兵衛を通し、左久良太郎こと丸山作楽(さくら)に金千円を貸し出した。

丸山は明治政府の役人に任ぜられ、身支度代もないのでと光村に頼んだようだ。

明治2年(1869)、28歳の与之助は、この事から大黒屋より解雇される破目になった。

故郷に戻った与之助は魚の小売り商をしたり、大阪に出て沖仲士になったりした。

この年、安治川上通りの大又楼に登楼し、はる女を見染めた。

明治11年にはるを嫁に迎えることになった。

さて、与之助は更に三菱商会の船会社の船員になり、また神戸の外国人のコックに備われ、その後、洋酒の空瓶問屋を開いた。

当時、空瓶は舶来品として珍重されていた。

当時の最先端の商売で蓄財できる身分になった。

折しも故郷の兄伊三郎が病気を病んでいると聞き、有馬温泉治療をさせるため、一時神戸三宮の家へ兄を迎えた。

近隣に住む西村三造は天理教の話を聞き、拝んで貰うよう勧めた。

兵庫の逆瀬川に住む兵庫真明組講元端田久吉が来て、三日三夜の願いをかけてくれた。

妻はるも信仰を誓い、心が定まると兄の病気はご守護いただいた。

与之助はこの年初めておぢばに参拝した。

教祖(おやさま)は

「旅に出ていたわが子が帰ってきたように思いますで」

と仰せられたという。

与之助はこれより何度もおぢばに帰参するようになった。

入信後間もない頃、教祖は着ておられた赤衣を脱いで片袖を解いて与えられた。

明治18年与之助(44歳)がおぢばに参拝した時、来る3月7日の夜に、おぢばの豆腐屋宿で天輪教会設立会議が開かれるから出席するようにと言われた。

7日出席し、8日井筒梅治郎真明講講元の腹痛から教祖にお伺いすると、「今なるしんばしらははそいものやで、なれど肉の巻きよで、どんなゑらい者になるやわからんで」と仰せられた。この会議は中止された。

このあと与之助は中山眞之亮真柱に、教会設置は焦眉の急であることを話し、取りあえず国家公認宗教である神道事務局の部属になることを提案した。

明治18年藤村成勝(真明組信者で大阪松島遊郭のお茶屋の亭主。大数院から権中講義の肩書を受けていた)と寸田種市(大神教会示巳官)が、東京へ出張し、5月神道部属6等教会の認可を得た。

この際かなりの費用を支出したはずであるが、多くは神戸の信者が支出した。

中でも与之助の陰の働きは大きかったと推察される。

明治20年、教祖が現身を隠され、信者一同は大きな衝撃を受けた。

翌年教祖1年祭が勤められた。

この際、警官が踏みこみ、祭典は中止となった。

一同は東京へ出向いてでも公認教会設置の許可を受けなければならぬ、と決意を固めた。

その年、東京府へ出願することになった。

東京へ行くための出張旅費は自弁と決まり、先遣隊として諸井国三郎、清水与之助が3月13日ぢばを出発、31日には本隊の中山眞之亮、松村吉太郎、平野楢蔵が正午神戸を発った。

東京で落ち合い、4月5日教会設置の願書を提出、4月10日認可された。

4月12日芝の紅葉館で関係者を招待して祝賀会を開いた。

その席上、中山眞之亮は東京府庁役人から、清水与之助が丸山作楽(神祇官権判事、のち外務大丞を勤めた人。伊藤博文に親しく政界で活躍。勅選貴族院議員)をよく知っていることを聞き、「清水さん、あんた、えらい人を知っているンやなア」と言ったと伝えられている。

明治21年7月神道直轄天理教会がぢばに移転されるや、地方講社に教会設置の気運が高まった。

明治22年講元端田久吉名儀で、下山手6丁目に、兵神分教会設置願いを提出した。

そのあと2月9日与之助の身上伺いのさしづによって、「治まる理を以て十分の理も治まる」とのお言葉から、ぢばの理を一番心に治めた者を会長に願い出れば、神戸及び播州の信者たちも治まるであろう、との神意と受けとめ、与之助を担任として願い出て許された。

与之助は教会本部の教務と兵神分教会の上によく勤めた。

下山手6丁目の地所は借地の上、信者が増し狭くなったため、7丁目に740坪の土地を求めて、移転建築を行った。

その後与之助は、本部の御用に専念するため、明治32年4月冨田伝次郎を副会長に選任し、明治33年1月には会長の教務を一切任せておぢばに居を移した。

明治34年5月13日60歳で出直した。

出直しの直前、のち兵神3代会長になった清水由松(山澤家から養子)に「芯は細うても、はたから肉を巻け。真柱様に肉を巻いて通れ」と諭したという。