山田太右衛門 やまだたえもん
安政元年(1854)2月5日、近江国甲賀郡字田村(現、滋賀県甲賀郡水口町宇田)に、父太良平、母聖堂の長男として生まれた。
作太郎(幼名)は、寺小屋に通い、農業を営む父太良平が傍ら副業とした木挽きの手伝いをしながら青年期を過ごし、19歳の時、松村仁平(太良平の妹2旦の入嫁先)に大工見習いとして就く。
29歳の時、同村山田九郎兵衛の二女き⊥と結婚。
翌年男児誕生するも出直す。
次いで長女小よね、二女ますをもうける。
太右衛門入信の前年から、山田家に不幸がうち続いた。
明治19年(1886)類焼によって母屋を焼失。
年が明けて母史壁が出直し、妻きくは産後を患い床に臥す。
加えて太右衛門はマラリアに倒れた。
この時、妹主を蛙の夫黄瀬駒吉の見舞いから山城国宇治田原村湯屋ケ谷(現、京都府綴喜郡宇治田原町)の斯道会第二号講元西野活兵衛に導かれ、この人によって太右衛門夫婦はたすけられ、入信する。
入信後、苦難の布教を重ねる中、明治21年8月17日、「おさづけ」(おさずけ)の理を拝戴。
同年2月15日、斯道会第38号講講元となる。
その後も世間から「田売り太右衛門」の異名をとりながら布教に専念する。
その教練はやがて県境を越えて東海から遠く関東に及んだ。
明治22年8月1日、本部から甲賀支教会設置のお許しを頂く。
明治34年9月9日、河原町分教会から分離・昇格、甲賀分教会となり、本部直轄となる。
さらに明治42年1月12日、甲賀大教会となる。
大正7年(1918)1月29日、会長を勇退(2代会長は婿養子山田勘治郎が後継する)。
同年11月27日、本部員に登用される。
大正9年3月4日、徳島教務支庁長を拝命。
昭和2年(1927)9月1日、出直し。74歳。