天理教人名辞典 鴻田忠三郎 こうだちゅうざぶろう

鴻田忠三郎 こうだちゅうざぶろう

鴻田忠三郎は、文政11年(1828)2月22日、河内国丹南郡向野村(現、大阪府羽曳野市向野)の高谷利右衛門の四男として生まれ、幼名を利吉といった。

5歳のとき、大和国式下郡槍垣村(現、天理市槍垣町)の鴻田長七の養子となった。

安政6年(1859)、忠三郎が32歳のとき、守屋筑前守広治の姪八重子と結婚した。

広治は山澤良治郎の叔父に当たった。

三男の生後まもなく、妻八重子が出直し、後に同じ村の杉田甚三郎の娘さきを後妻に迎え、6人の子どもをもうけた。

忠三郎は、養父の跡をついで、農事に励んだ。

敬神の念が強く、自分の家にある物を人に施すなど、慈悲深い人物でもあった。

また、若くして村の年寄や庄屋をつとめた。

明治に入ってからは、村の戸長や総代、川東村小学校学務委員をつとめた。

忠三郎の農事熱心は有名で、明治5年(1872)から奈良県で発刊された『日新記聞』という新聞に、忠三郎の記事が出ている。

あるとき、生国河内から上等な麦種を持ち帰ったが、「忠三郎麦」とよばれるようになった。

明治13年2月には、大阪府から農事通信委員を命ぜられ、14年9月には、大日本農会から種芸科農芸委員担当を任された。

明治14年4月、忠三郎が54歳のとき、新潟県勧農場へ耕作係教師として、大阪府から派遣された。

年の暮れに休暇をもらって帰和してみると、2、3年前から眼病に悩んでいた二女りきは、失明寸前の状態であった。

同じ村の岡田与之助(後の宮森与三郎)はこの話を開いて、親神の教えを取り次いだ。

藁をもつかむ思いで、与之助にお願いをしてもらったところ、翌朝、ぼんやりながらも見えるようになった。

そこで、明治15年3月5日、忠三郎夫婦は娘りきを連れて、はじめておぢばに帰り、7日間滞在した。

その3日目に、妻さきは、「私の片目を差し上げますから、どうか娘の儀も、片方だけなりとお救け下され」と親神に願ったところ、その晩から片目が次第に見えなくなり、娘りきの片目は次第によくなって、すっきりたすけていただいた。

この不思議なたすけに忠三郎は、信仰を決心した。

そして、早速、県へ辞職願を出したが、許可が下りなかった。

教祖(おやさま)に伺うと

「道の二百里も橋かけてある。その方一人より渡る者なし」

とのお言葉であった。

忠三郎は、心の底深く布教を決意して、新潟へ出掛けた(『稿本天理教教祖伝逸話篇』95話)。

新潟に戻ってからは、勤めの合間を縫って、にをいがけ・おたすけに励んだ。その夏、農場の作物に虫がついて、生徒が相談に来ると、忠三郎は畑の真ん中で「みかぐらうた」をうたって踊った。

翌朝、畑へ行ってみると、虫は一匹もいなかった。

また、生徒の中にコレラにかかるものがあった。

親神の話を伝え、神にお供えをした水を病人にかけると、不思議に守護いただいた。

このようにして、わずか半年ぐらいのあいだに、百数十戸の信者ができた。

明治15年11月10日、意を決して辞職願を出し、布教専念を決意した。

このころ、おぢばでは、警察の取り締まりが一段と厳しくなっていた。

そこで、官庁との交渉に明るい忠三郎に、新潟を引き上げて、至急、に帰和するようにとの手紙が次々に送られてきた。

忠三郎は、明治16年1月13日に新潟を出発して、東京経由でおぢばへ帰った。

忠三郎によって導かれた信者たちは、明治25年3月、「鴻明講」(新潟大教会の前身)の名称を授けられ、以後、白熱の布教を展開した。

おぢばは、厳しい取り締まりの嵐のなかで、忠三郎は、農事通信委員の立場から、所管の大蔵省に対して、建言書を提出した。

その日付は明治16年3月15日となっている。24日に、巡査が巡回にやってきた。

そのとき、忠三郎はお屋敷で「おふでさき」を写していて、あやうく没収の危機に会った。

同年6月19日に山澤良治郎が出直し、入信後1年そこそこの忠三郎が、中山家の後見役を仰せつかり、お屋敷に詰めた。

翌明治17年3月23日、ふたりの巡査が、辻忠作を連れて、お屋敷へやってきた。

教祖の居間の次の間には、忠三郎がいた。

翌日、丹波市分署に同行され、教祖には12日間、忠三郎には10日間の拘留が申し渡され、奈良監獄署へ護送され入牢拘禁された(『稿本天理教教祖伝逸話篇』144話)。

忠三郎は、3年間ほど、初代真柱の後見役をつとめたが、その間の天理教公認運動には、あまり名前を出してはいない。

しかし、明治19年の暮れに、教会設置を願いに東京へ出掛けている。

また同年に教祖から、水のさづけをいただいている。

明治21年には、神道直轄天理教会設置とともに、会計兼派出係を命ぜられ、近府県の教会の修理巡教に廻った。

新潟へ行って信者を育てるために、たびたび「おさしづ」を仰いでいるが、ついに行く機会はなかった。

明治36年7月の月次祭のころから身上が重くなり、同年7月29日、76歳をもって出直した。