天理教人名辞典 上田民蔵 うえだたみぞう

上田民蔵 うえだたみぞう

文久元年(1861)1月3日、大和国式下郡大西村(現、桜井市大字大西)で父平治、母いその長男として出生。

母といそは新泉村の山澤良治郎の妹、山澤為造の叔母に当たる。

家は代々農業を営んできた。

両親は元治元年(1864)頃から教祖(おやさま)の教えを受け、その後同村内で天理教の信仰を禁止されたことがあったけれども、両親は信仰を続けた。

明治10年(1877)頃から母いそは、常におぢばに来て、教祖の側に奉仕し、教祖の現身おかくし後も引き続いて教祖殿に仕えて、明治23年9月16日おさづけをいただいき、勇んで務めていたが、明治27年6月19日59歳で出直し、夫の平治も同年4月18日に出直した。

民蔵は両親の思いにしたがい、幼時から熱心な信仰をもっていたが、長ずるにおよんで日の元講(おぢば近辺に散在する講社を結成したもので、その一部が、やがて現在の旭日大教会となった)の布教師として働き、明治21年、28歳の時、「かんろだいのさづけ」をいただいた。

明治26年には日の元講の織田布教事務取扱所の担任と、同時に日の元講の周旋を兼ねていた。

明治28年に旭日支教会が設置され、岡本善六が会長となったが、民蔵は理事として教会の発展のうえに尽力した。

ところが同年10月に至り、両親がおぢばに勤めたゆかりから、親と同様におぢばに勤めよとの諸先生がたの勧めがあり、織田のほうは木下藤五郎に、また旭日のほうは後任を定め、民蔵は本部青年として勤めることになった。

そして、明治32年1月から40年の9年間、本席の側に奉仕した。

この間、明治34年6月14日親の尽くした理があるから「とりたててやってくれ」との「おさしづ」によって、准員となり、同年7月1日の「おさしづ」により、一家をあげておぢばに引き移った。

その後も変わらぬ誠を尽くして本部に勤めていたが、明治39年12月6日、

「年来勤て居る/\。当番々々という。見習え/\と許してある。今日から肩を並べて本部員と言う/\。運んでやってくれ運んでやってくれ/\。」

との「おさしづ」で、本部員に登用された。

明治43年1月天理教養徳院評議員、大正4年(1915)1月和歌山教務支庁長、大正5年朝鮮布教管理者、大正8年福岡教務支庁長、大正14年2月福島および北海道教務支庁長、大正14年8月香川教務支庁長(昭和3年まで)など歴任、昭和11年(1936)12月31日出直した。76歳。