山本いさ やまもといさ
大和国式上郡笠間村(現、奈良県字陀市棒原參間) に、森本甚三郎の二女として生まれる。
明治元年(1868)3月に大和国十市郡倉橋村出屋鋪(現、奈良県桜井市倉橋)の山本与平と結婚し、同4年に長男徳治郎、同9年に次男音次郎をもうけている。
しかし、その後体調を崩し、まったく立つこともできなくなってしまう。
その後、明治14年5月に山本家の本家にあたる同村の山田伊八郎のところに、教祖(おやさま)より
「南半国道弘めに出す」
とのお言葉をいただいて、山中忠七の二女こいそが嫁してきて、同年12月に「心勇組」(後の敷島大教会)を結成した。
このときに、山本家は「心勇組」に加わっている。
山田こいそは、いさのおたすけに通ったが、翌年山中忠が来たときに、ふしぎなたすけをいただいて、足腰がブキブキと音を立てて立ち上がり、歩けるようになった。
この話は、当時大変な評判になったと伝えられる。
その後、いさはおたすけ活動に熱心に励み、名張や京都へ通えるほど足腰は丈夫に守護いただいたが、物を持つと手が震えることを苦に思い、明17年教祖に「お息をかけて頂きとうございます」と願ったが、
「すっきり救けてもらうよりは、少しぐらい残っている方が、前生のいんねんもよく悟れるし、いつまでも忘れなくて、それが本当のたすかりやで」(『天理教教祖伝逸話篇』147話「本当のたすかり」)
とのお論しをいただき、そのときお貸しいただいた「おふでさき」を写してもらい、暗唱するほどいつも読んでいたという。
89歳まで長生きし、昭和6年(1931)2月に出直した。
[参考文献]
- 天理教敷鳥大教会史料集成部編『敷島大教会史一直属教会編』(山田忠一、1990年)