天理教人名辞典 吉川万次郎 よしかわまんじろう

吉川万次郎 よしかわまんじろう

明治14年(1881)奈良県添上郡櫟本村(現、天理市櫟本町)に、父吉川宗七、母たけの長男として生まれる。

母たけは、中山眞之亮初代真柱の長姉で、吉川万次郎は、教祖(おやさま)の外曾孫にあたる。

『おさしづ改修版』では、吉川萬治郎と表記されている。

幼少の頃から頻繁に「おやしき」(中山家)に通っており、従兄弟の梶本宗太郎とともに教祖におぶっていただいたという逸話が残されている(『天理教教祖伝逸話篇』 193話「早よう一人で」)。

明治26年(1893)に諸井政一を中心として、おやしきに出入りする15人の青少年によって結成された一致幼年会には、同人として名を連ねている。

勉学に熱心に励み、郡山中学校から、岡山の高梁中学校、東京の錦城中学校、仙台の第二高等学校を経て、明治35年に東京帝国大学文科大学哲学科に入学。

在学中は、特にニーチェの思想に傾倒したと言われる。

卒業後、少しの間、花園学院(花園大学の前身)において語学や哲学を講じた後、明治42年に旧制天理中学校の初代校長に就任する。

また、同じ年に天理教の機関誌『みちのとも』の編集主幹にもなっている。

大学を卒業してまだ2年という若さながら、できたばかりの中学校と誌面の刷新を図る機関誌について責任ある立場を担うことになった。

しかし、大正2年(1913)に、病のためそれらの職を辞し、櫟本の実家で療養生活を送り、大正11年2月3日、42歳という若さで出直した。