天理教人名辞典 中山正善 なかやましょうぜん

中山正善 なかやましょうぜん

2代真柱中山正善は、明治38年(1905)4月23日、教祖(おやさま)の孫である初代真柱中山眞之亮、たまへの長男として、丹波市町(現、天理市)三島に誕生。

数え年8歳の4月三島尋常小学校に入学した。

初代真柱の出直しにより、真柱となる。

大正4年(1915)1月、11歳で父の管長職を継承(未だ幼年のため山澤為造が職務摂行者として管長の実務を代行)した。

大正7年天理中学校(明治41年に創立)に入学。

大正12年19歳の春、大阪高等学校文科乙類に進み、翌13年、天理教青年会長に就任した。

大正14年4月23日、管長就職奉告祭が執行され、未だ学生の身ではあったが、名実ともに管長としての職務を行うことになる。

すでにこれより早く、青春の胸に大きな理想を抱き、将来の教団の発展のために遠大なる想を練り、その実現を目指していた。

この年、将来の世界布教を意図して、天理外国語学校が開かれたのもその一つの現れであり、また教義及史料編纂委員会が初めて開かれたのも、将来への大きな布石の一つであった。

そして自ら天理教校及び外国語学校の校長にも就任、以来10年余、その職にあって教育を先導した。

翌大正15年には東京帝国大学文学部宗教学宗教史学科に入学、後年久しく恩師として深い情誼を尽くした姉崎正治博士の指導を受け、「伝道ニッイテ」(『天理教伝道者に関する調査』として昭和5年に刊行)を卒業論文として、昭和4年(1929)春大学を卒業した。

すでに大学在学中より天理教を統べる管長として、また外国語学校の校長として教団の指導、信者の育成に尽くしてきたが、同3年には女子教育の一層の充実をはかる上から、天理女子学院を設立、卒業後その活動はいよいよ広汎にわたることになる。

海外布教は早くよりその意図の中にあり、すでに大正14年に設置した外国語学校では、まず近隣諸国の言語の習得を目指し、難しい交渉の末、朝鮮語学科を新設し、当時の高等教育機関では珍しい男女共学を実現した。

単に言語の習得のみならず、学生が現地の習俗・信仰など、広く文化一般を会得できるよう、諸民族のさまざまな生活資料の収集も始めた。

これが天理大学附属天理参考館の発祥である。

他面、教義の正確な理解を深めるため、天理教誕生時の宗教的背景である神道・仏教・民間信仰・郷土史などに関する諸文献史料、他宗とくに世界伝道で広汎かつ強力な実績をあげてきたキリスト教伝道の諸図書などの収集に努めた。

そして終生かわらぬ深い図書愛好心が後の天理図書館の著しい発展をもたらす。

このように基本的な世界布教の布石を打ち出すとともに、自らも率先して海外に巡教し、実状の視察と指導に努めた。

すでに大正15年の夏、中国と朝鮮半島へ視察・巡教のために渡航(その時の様子を翌年11月『鮮満支素見』として出版)、昭和4年10月には母たまへとともに朝鮮・中国の天理教婦人会出張所開所式及び教勢の視察に赴き、翌年3~4月には中国視察に長崎より渡航(同9年3月『上海より北平へ』として出版)、昭和8年6~9月にはハワイ及びアメリカの教会巡教を兼ねて、シカゴにおける世界宗教大会に出席、天理教についての講演を行った(同10年3月『アメリカ百日記』として出版)。

その後も台湾・朝鮮・中国などへの巡教を幾度か重ねたが、戦後昭和26年7~10月に、ブラジル巡教から欧州各地の宗教事情視察を行ってから以降は、東西南北、その足跡は世界全域に及んだ(それらの実状経過は、同27年12月刊の『たねまき飛行』、29年1月の『続たねまき飛行』、同年10月の『右往左往』、35年7月の『北報南告』、36年4月の『北報南告写真集』、37年7月の『陸壹画録』、38年10月の『陸参旅日記』などの著書写真集に伝えられている→真柱旅行記)。

管長就職後の中心的な大事業の一つは教祖殿及び神殿南礼拝場の建築であった。

教勢の発展に伴う信者の増加は新神殿の必要を促し、大学卒業の頃から用材の確保のため自ら奔走した。

昭和6年6月教祖殿・南礼拝場の起工式、昭和8年10月に教祖殿、昭和9年10月に神殿(南礼拝場)が無事落成し、遷座祭及びその奉告祭が行われた。

これは教祖50年祭を迎えるに際しての大工事であった。

さらに戦後2度目に迎えた年祭、教祖70年祭に当たっては、神域八町四方の理想実現への一歩として、「おやさとやかた」5棟の完成を見たのである。

この東棟には主として教義史料の研究機関、別席場及び修養科が置かれた。

ついで教祖80年祭を期して建てられた南の棟には学校教育施設が、西棟には昭和10年に開設していた「天理よろづ相談所」を置き、「憩の家」と名づけられた。

そこには日本有数の医療関係者と近代医療設備を擁し、医学と宗教の問題に取り組む強い意欲を示すものであった(→おやさとやかた)。

ふしんの拡大発展と並んで、教祖の教えを正しく伝え拡めるための原典・教義・教史などの研究を精力的に進め、精密な検討を加える地道な仕事が続けられた。

教祖40年祭を中にしての教学上の大事業として、初代真柱からの念願であった「おふでさき」「おさしづ」を公刊し、教祖50年祭に、既刊の「みかぐらうた」とともに、三原典が各教会に下付されたのも、かねての宿願のあらわれであった。

ただし、その後戦時体制において、宗教に対する国家統制が強化されたため、「おふでさき」「おさしづ」は一時本部に引き上げられ、「みかぐらうた」も一部削除される事態となり、その公刊復元は戦後を得たねばならなかった。

教勢の伸展と共に、社会の注目を引くようになると、種々の理由をつけて他宗からはもちろん国家権力の干渉・統制・圧迫が加わり、原典を抑え本来の祭式をゆがめようとするような圧力が加えられた。

これに対抗、これを克服することは信者の等しく願うことであったが、真柱もその責任ある地位に就くや、そのための不屈の努力をつづけ、教祖50年祭の祭典執行に当たっては、教祖の教えに基づいて、様式をすべて復元、鳴物の三味線、胡弓、小鼓などを元に復した。

長年にわたって、このような、教祖より仕込まれた教えそのものに復元しようとする強い意志を持ち続け、終戦後直ちに「復元」に着手し、教祖60年祭(昭和21年)にはまず「みかぐらうた」を全教会に下付、昭和24年には旧教典(明治教典)に代わる新教典(『天理教教典』)を編纂公布した。

ついで昭和31年には、60年の研鐙を経た教祖伝(『稿本天理教教祖伝』)を完成した。

教祖70年祭に際して「おふでさき」を全教会に下付し、さらに教祖80年祭には「おさしづ」の改修版を完成、全教会に下付して、ここに復元への歩みを大きく進めたのである。

原典とくに「おふでさき」に寄せる研究的情熱は、いささかも衰えることなく、抑圧の時期をも貫いて終生持ち続けられた。

立教百年祭(昭和12年)の記念として、『おふでさき索引』を発刊(本部より下付)、さらにこの年『おふでさき用字考』を発行した。

これは教祖の真筆についての書誌学的研究である。

なお、「おふでさき」を中心としての教義研究は、『「神」・「月日」及び「をや」について』(昭和10年1月)、『おふでさきに現われた親心』(昭和30年8月)、『おふでさき概説』(昭和40年4月)などとなって現れた。

また教祖50年祭の記念出版(昭和11年1月)として第1冊が出された『ひとことはなし』は、その後二、三、続その一、その二と巻を重ねた。

それらはいずれも平易な記述をもって天理教教義・教史に関する重要な諸問題を解明している。

こうして、教義の確固たる基礎を確立された。

昭和3年10月、山澤せつとの結婚を記念して始められた教内子弟の奨学金下付の制度、「天理教一れつ会」の創設は、その後ますますその範囲を拡大、大きな成果を挙げつつ今日に及んでいる。

さらに信条教育のための教学部を設置するなど、内の固めに意を用いるとともに、外に向かっての文書布教のため、印刷所の設立も早くより意図された。

後の天理時報社へ発展する教庁印刷所の設置は、すでに外国語学校の設立(大正14年)と年を同じくしている。

ついで急速にラジオ・テレビの時代となり、とくにラジオには早くから関心を向け、独自の局を設置することも図ったが、それは当時の電波法の関係で実現しなかった。

しかしそれ以後、既存の放送局のある時間帯を利用しての布教はつづけられ、また教団内部での電波によるメディア・リレーションは現在活用されている。

宗教人として学者として遠大な構想をもって指導しつつ卓越した大事業を進めるとともに、自らもそれらの仕事を愛し研究を重ねた。

他方また、スポーツの愛好者として、自ら柔道を深くきわめただけでなく、ラグビー、水泳その他のスポーツにも親しみ、親神からの「かりもの」である身体に感謝するために体育を奨励し、昭和24年4月には第1回天理教全国体育大会を催し、以後回を重ねた。

さらに広く一般のスポーツ界のためにも意を尽くし、県の体育連盟の会長としてこれを後援し、あるいは日本柔道界の世話役として柔道の普及につとめ柔道の国際化に尽力するなど、その活動は世界的規模にまで及んでいる。

宗教家として世界を巡歴し、図書愛好家として海外に貴重書を求め、国際学術会議に出席して自ら研究を発表するとともに多くの国内外の学者との親交を深め、スポーツ界の後援者として多くのスポーツマンと交誼を結び、晩年においては、国際的文化人として稀にみる幅広い活動をつづけた。

その他、個人の悩みや相談にも快く応ずるなど、その寛閥な広い包容力、しかも細心な思いやりの深さ、それらは洋の東西を問わず、宗派の如何にかかわらず、広く深い友情を世界の人々と結び、多くの人々から敬愛された。

昭和42年11月63歳にして出直すや、その報に接して国内はもとより、広く諸外国からも、多くの人々の深甚な哀悼の意が寄せられたのである。