第八章 道すがら 天理教教典

親神のてびきによつて信仰に入り、教の理を聴きわけて、かしものの理もよく胸に治り、心のほこりも次第にぬぐわれ、いんねんの悟りもついたなら、ものの観方が変つてくる。

見えるまま、聞えるままの世界に変りはなくとも、心に映る世界が変り、今まで苦しみの世と思われたのが、ひとえに、楽しみの世と悟られて来る。

己が心が明るければ、世上も明るいのであつて、まことに、「こゝろすみきれごくらくや」と教えられている所以である。

しかるに、人の心は常に変りやすい。朝の心は必ずしも夕の心ではない。

とかく、身近に起る事柄に心を動かされて、朝に明るい心も、夕には暗くなりがちである。

一度は、教に感激して信仰に志しても、やがて喜び勇めなくなることもあれば、折角、たすけて頂いても、又も、身上 のさわりや事情のもつれで、心が動揺する時もある。

この中にあつて、 常に己が心を省みて、いかなることも親神の思わくと悟り、心を倒さず に、喜び勇んで明るく生活すのが、道の子の歩みである。

この心の治め方をたんのうと教えられる。

親神の胸に抱かれ、ひたむきに信仰に進むものは、我が身にふりかか るいかなる悩みや苦しみにも、溺れてしまうことなく、むしろ素直に成 つて来る理を見つめて通るから、悩みや苦しみも、かえつて喜びに転じてくる。

かくて、真にたんのうの心が治れば、前生のいんねんは納消される。

これを、「たんのうは前生いんねんのさんげ」と諭される。

たんのうは、単なるあきらめでもなければ、又、辛抱でもない。

日々、いかなる事が起ろうとも、その中に親心を悟つて、益々心をひきしめつつ喜び勇むことである。

かくて、身上のさわりも事情のもつれも、己が心の糧となり、これが節となつて、信仰は一段と進む。

これを、「節から芽が出る」と諭される。

日々常々、何事につけ、親神の恵を切に身に感じる時、感謝の喜びは、自らその態度や行為にあらわれる。

これを、ひのきしんと教えられる。

なんでもこれからひとすぢに
かみにもたれてゆきまする    三下り目 7

やむほどつらいことハない
わしもこれからひのきしん    三下り目 8
 
身上の患いをたすけて頂いた時、親神の守護が切実に身にしみる。

病んだ日のことを思いかえし、健かな今日の日を思えば、心は言い知れぬ喜びに躍る。

身上壮健に働ける幸福を、しみじみと悟れば、ひたすら親神にもたれて、思召のままにひのきしんに勇み立つ。 

よくをわすれてひのきしん
これがだいゝちこえとなる    一一下り目 4
 
ひのきしんに勇む心には、欲はない。この求めるところなく、ただ黙黙と骨身惜しまず尽す行為こそ、やがて、銘々の生活に美わしい実を結 ぶ肥となる。

みれバせかいがだん/\と
もつこになうてひのきしん    一一下り目 3
  
なにかめづらしつちもちや
これがきしんとなるならバ    一一下り目 7
 
少しでも普請の役に立ちたいと、もつこを担うて、日々、土持のきしんをする。

心は益々明るく勇み立つて、それが何よりのひのきしんになる。

これは誰にも出来るが、実地に身に行うて、初めて、その言い知れぬ味がわかる。

ひのきしんは、信仰に燃える喜びの現れで、その姿は、千種万態である。

必ずしも、土持だけに限らない。

欲を忘れて、信仰のままに、喜び勇んで事に当るならば、それは悉くひのきしんである。

ひのきしんは、一時の行為ではなく、日常の絶えざる喜びの行為である。

しかも、その喜びは、自分一人に止るのではなく、他の人々をも感 化し、心あるものは、次々と相携えて、その喜びを共にするようになる。

ふうふそろうてひのきしん
これがだいゝちものだねや    一一下り目 2

親神は、「ふうふそろうてひのきしん」と教えられる。

夫を化し、妻を導いて、夫婦共々に心を揃え、日々ひのきしんに勇むところ、一入そのむつまじさが溢れ出て、一家に春の明るさと和ぎが漂う。
これを、「だいゝちものだねや」と仰せられる。
 
一家の陽気は隣人に及び、多くの人々は、われもわれもと相競うて、 ひのきしんにはげみ、世界には、一手一つの陽気が漲つてくる。

かくて、 親神の望まれる陽気ぐらしの世が現れる。

いつ/\までもつちもちや
まだあるならバわしもゆこ    一一下り目 5
 
たんのうの心が治り、ひのきしんに身が勇んで、欲を忘れる時、ここに、親神の思召にかなう誠真実があらわれる。

その日々の姿には、何の裏表もなく、清らかさと明るさが溢れてくる。

そして、親神の思召をそのままに読みとり、さながらに身に行えるようになる。

かかる誠真実に徹するのが、心の成人を遂げた所以であつて、親神は、それを待ちわびておられる。

いまゝでハせかいぢううハ一れつに
めゑ/\しやんをしてわいれども   一二 89
  
なさけないとのよにしやんしたとても
人をたすける心ないので       一二 90

これからハ月日たのみや一れつわ
心しいかりいれかゑてくれ      一二 91
  
この心どふゆう事であるならば
せかいたすける一ちよばかりを    一二 92

この篤い親心に、そのまま添いたいと念ずるにつけ、人の難儀を見ては、じつとしておられず、人の苦しみをながめては、看過すことが出来なくなる。

自分に出来ることなら、何事でも喜んで行い、なんでも、たすかつて貰いたいとの言行となる。

そして、多くの人々に導きの手を与えるにをいがけとなり、人だすけとなる。

それは、己の利害に偏らず、 一れつ兄弟姉妹の真実に目覚め、互立て合い扶け合いの念から、人の苦しみを我が苦しみとなし、我が身を忘れて、人に尽すひたぶるの行為となつてあらわれる。

このさきハせかいぢううハ一れつに
よろづたがいにたすけするなら    一二 93
  
月日にもその心をばうけとりて
どんなたすけもするとをもゑよ    一二 94

かくて、教祖のひながたにならい、たすけにはげむ。口と心と行とは 常に一致して、うまずたゆまず、理をみつめて進む。

その日々は、人の眼から見れば、一寸には弱いもののようにも思われる。

しかし、これこそ、親神の心に通う誠真実であるから、真にそのまま受け取つて頂くことが出来るので、ながい眼で見れば、これほど堅く強いものはない。

誠程強いものはない、誠は天の理である。誠であれば、それ世界成程 と言う。

おさしづ(明治二一・六・二)

誠真実は、親神の思召に添い、天の理にかなう心であるから、親神は、 この誠真実をすぐと受け取つて、いかなるたすけもひき受けられる。

しんちつに心にまことあるならば
どんなたすけもちがう事なし    一三 71

誠一つの理は天の理、天の理なれば直ぐと受け取る、直ぐと返えすが 一つの理。

おさしづ(明治二三・四・一七)

自分の心に誠真実の理が治れば、心ない人の口説に煩わされることなく、常に変らぬ喜びと力に溢れて、明るく陽気に進むことが出来る。
そこに正しく、一名一人の心に誠一つの理があれば、内々十分むつまじいという一つの理が治り、他をも自ら化し、一波は万波を呼んで、更に多 くの人々の心の躍動を呼び起す。
 
だん/\になにかの事もみへてくる
いかなるみちもみなたのしめよ   四 22