第九章 よふぼく 天理教教典

たすけて頂いた喜びは、自ら外に向つて、人だすけの行為となり、ここに、人は、親神の望まれる陽気ぐらしへの普請の用材となる。

これをよふぼくと仰せられる。

親神は、一れつたすけの切なる思わくから、多くのよふぼくを引き寄せようと急き込まれる。

一寸はなし神の心のせきこみハ
よふぼくよせるもよふばかりを   三 128

よふぼくも一寸の事でハないほどに
をふくよふきがほしい事から    三 130
  
この人をどふゆう事でまつならば
一れつわがこたすけたいから    一三 85
 
よふぼくには、男女の別もなく、貴賤の差もない。その用向には、時と所にしたがい相違があろうとも、心一つの理によつて、ひとしく、親 神のよふぼくたるに変りはない。

この木いもめまつをまつわゆハんでな
いかなる木いも月日をもわく    七 21
 
思えば、親神の類ない陽気普請に、よふぼくとして引き寄せられるの は、実に、道の子の幸である。

しかし、心が直くなくては、折角引き寄 せられても、役に立たぬから、親神は、時に応じ事に当つて、種々様々とていれをされる。

これをしつかり心に治めさえすれば、身上のさわりも事情のもつれも、ただ道の花として喜びの中に受け取れる。

にち/\によふほくにてわていりする
どこがあしきとさらにをもうな   三 131
 
かくて、引き寄せられて親里に帰り、別席順序を運ぶ。

だんだんの席 を重ね、話の理によつてほこりを払い、行を正すうちに、心は澄んで、たすかりたいとの願は、たすかつて貰いたいとの念となる。

そこに、さ づけの理が授けられて、心は生れかわる。

さづけの理は、よふぼくたる銘々の心に授けられる天の与えである。このさづけの理が心に治つて、初めて、こうのうを見せて頂ける。

精神の理によつて働かそう。精神一つの理によつて、一人万人に向か う。神は心に乗りて働く。心さえしつかりすれば、神が自由自在に心に 乗りて働く程に。

おさしづ(明治三一・一〇・二)

と示されている。

即ち、さづけの理を授けられたものは、日々常々の心遣いが大切である。

さづけの理を頂いたその日の心を、生涯の心として 通つてこそ、親神は、いつも変らぬ鮮かな守護を下さる。

たん/\とよふぼくにてハこのよふを
はしめたをやがみな入こむで    一五 60
  
このよふをはじめたをやか入こめば
どんな事をばするやしれんで    一五 61
 
およそ、よふぼくの使命は、たすけ一条にある。

それは、自らはげんで、天の理をよく心に治め、身をもつて教の実を示しつつ、一言の話を取り次ぐにをいがけに始まる。

そして、更に進んでは、なんでもたすか つて貰いたいとの一念から、真心こめてさづけを取り次がせて頂くところに、珍しいたすけの実が現れる。

それは、見えた形の巧拙によるのではない。

ただ、たすかつて貰いたいとの切なる願に基いて、真実を尽して取り次ぐから、親神は、その心をそのまま受け取つて、珍しい守護を見せられる。

即ち、己が力によるのではなく、親神が、よふぼくに入り込んで、働かれるからである。
 
かくて、よふぼくは、さづけを取り次いで、病む人々にたすかつて貰うのであつて、自分がたすけの主ではなく、どこまでも、親神のよふぼくに外ならぬ。

されば、よふぼくたるものは、日々、ひたすら己が心を治めて、曇りない天の理を映すことが肝腎である。

銘々が常に、教祖のひながたをたどり、俗にいて俗に墮せず、進んで土地ところの手本雛型 となつてこそ、真にその使命が全うされる。
 
身上を病んで苦しむ者に、さづけを取り次ぎ、せんすべない事情に悩む者に、教の理を取り次ぐのが、よふぼくの進む道である。

それは単に、あの痛み、この憂いを除くだけではなく、寧ろ、かかる苦しみを見せて頂いている、その人の心を、しんからたすけさせて貰うのである。

人は本来、己が力で生きているのではない。

しかも、己が力で生きていると思い誤り易いのが人の常で、そこには、涯しない心の闇路があるばかりである。

たすけとは、かかる人々に、親神の思召を取り次いで、 その守護のまにまに、暗黒の境涯から光明の世界へと導くことである。
 
まことに、この道は、心だすけの道である。

心がたすかれば、身上や 事情の苦しみ悩みは、自らいやされ、解決される。

それは、親神の思召にそのまま添いきるからである。

心さい月日しんぢつうけとれば
どんなたすけもみなうけやうで   八 45
 
よふぼくは、仮令、年限の理に浅い深いの相違があろうとも、教祖ひ ながたの道を慕い、ひたむきなたすけ一条の心から、あらゆる困難を乗り越え、温かい真心で、一すじにたすけの道に進むなら、何人でも、親神の守護を鮮かに頂くことが出来る。

しんぢつにたすけ一ぢよの心なら
なにゆハいでもしかとうけとる   三 38
  
わかるよふむねのうちよりしやんせよ
人たすけたらわがみたすかる    三 47
 
ひたすら、世の人の上に親神の守護を願いつつ、我が身を忘れて行ううちに、親神に守られ、その胸に抱かれて、自身もいつしか心は成人して、明るく陽気に救われて行く。

よふぼくとしての丹精の效があらわれ、道を求めるものが、次第に相寄り相集つて、教会名称の理が許される。

それは、なんでもという精神の理に許されるもので、よふぼくの役目は、ここに一段と光を添える。

教会は、神一条の理を伝える所であり、たすけ一条の取り次ぎ場所である。

その名称の理を、真によく発揚するには、ここに寄りつどうものが、ぢばの理に添い、会長を心として、心を一つに結び合うのが肝腎である。

かくて、教会生活は、国々所々における人々の和楽を深め、互に 扶け合いつつ、心の成人を遂げる陽気ぐらしの雛型となる。

されば、会長の使命は、常に元を忘れずに、自ら進んで深く教の理を究め、心を治めて、道の先達となり、誠真実をもつて、人々を教え導くにある。

かくて、その徳に薫化された人々の心は、自と成人し、共に和し共に結んで、教の実は挙げられて行く。

 しんぢつにたすけ一ぢよてあるからに
なにもこわみハさらにないぞや   三 77