第七章 ふしから芽が出る

教祖は、八十の坂を越えてから、警察署や監獄署へ度々御苦労下された。しかも、罪科あっての事ではない。教祖が、世界たすけの道をお説きになる、ふしぎなたすけが挙がる、と言うては、いよいよ世間の反対が激しくなり、ますます取締りが厳しくなった。しかし、それにも拘らず、親神の思召は一段と弘まって、河内、大阪、山城や、遠く津々浦々に及んだ。この勢は、又一層、世間の嫉み猜みを招き、ふしぎなたすけの続出する毎に、反対攻撃の声は、各地から奈良警察署へと集まった。そして、その鉾先が悉くお屋敷へ、教祖へと向けられた。

しかし、教祖は、親神の思召を理解出来ぬ人間心を、残念と誌して激しいもどかしさを述べられながらも、頑是ない子供の仕草として、些かも気に障えられる事なく、これ皆、高山から世界に往還の道をつけるにをいがけである、反対する者も拘引に来る者も、悉く可愛い我が子供である、と思召されて、いそいそと出掛けられた。教祖は常に、

「ふしから芽が出る。」

と、仰せられた。

 迫害の猛火はいよいよ燃え盛ったが、しかも、それは、悉くにをいがけとなり、親神の思召は一段と弘まる一方であった。

「講を結べ。」

と、お急込み頂いたのは、文久、元治の頃に始まり、早くもその萌しはあったが、明治十一年四月頃には、秀司を講元とする真明講が結ばれて居た。小さいながらも、親神のお急込み通り、人々の喜びを一つに結ぶ講が出来て居たのである。世話人は、仲田儀三郎、辻忠作、松尾市兵衞、中尾休治郎で、講中の人々は、近在一帯の村々に及んだ。

早くから渡されて居たはったい粉に次いで、金米糖を御供として渡されたのは、この明治十一年頃からである。

明治十二年六月から誌された第十四号に、

月日よりにちにち心せゑたとで
くちでわとふむゆうにゆハれん        一四  6
それゆへにゆめでなりともにをいがけ
はやくしやんをしてくれるよふ        一四  7

親神は、世界たすけを急込んで居るのに、そばな者の心はいずみ勝である。それは、官憲が親神の心を理解せず、人々がその官憲を憚って居るからであるが、これは誠に残念なことである。しかし、言葉では理解のつかない者をも、そのまゝ放って置くと言うのではなく、夢でなりともにをいがけをする、と誌されて居る。この一句に、迫り切った時旬と、切ないまでに子供を思われる親心のもどかしさが、ありありと窺われる。

又、第十四号では、親神の理を現わす文字を、月日からをやへと進められて居る。

  
いまゝでハ月日とゆうてといたれど
もふけふからハなまいかゑるで        一四 29

かく宣べられて後、をやという文字を用いて、親神こそ、一列人間の切っても切れぬ親、理に於いて創造の親神であると共に、情に於いて血の通う肉親の親である事を明かし、親神の心は、どこどこ迄も一列子供を救けたい一条の親心であると宣べられた。

この明治十二年には、国内でコレラが大そう流行った。

みのうちにとのよな事をしたとても
やまいでわない月日ていりや         一四 21
せかいにハこれらとゆうているけれど
月日さんねんしらす事なり          一四 22

世間ではコレラと言うて騒いで居るが、これも実は親神のてびきであって、一列人間の胸の大掃除を急いで居るのであると諭して、強く人々の反省を促された。

この年、教祖は、上田ナライトを貰い受けなされた。又、河内国の高井直吉、大阪の井筒梅治郎、阿波国の土佐卯之助等が、信仰し始めた。このように、寄り集う人々は、日一日とその数を増し、親神の思召に励まされて、いよいよ勇み立ち奮い立ち、道は八方へ弘まった。

しかし、村人達の間では、尚反対が強く、天理さんのお陰で、親族や友人が村へ来ると、雨が降ったら傘を貸さねばならぬ。飯時になったら飯を出さねばならん。店出しが出たら子供が銭を費う。随分迷惑がかゝるから、天理さんを止めて貰いたい、さもなくば年々「ようない」を出して貰いたい。と、言った。又、夜参拝する人々には、頭から砂をかける、時によるとつき当って川へはめる、というような事もあった。

明治十三年の初め頃からは、一層激しくつとめを急込まれた。この年一月から誌された第十五号には、既に時旬は迫り切り、寧ろ時機を失する憂いさえある旨を諭されつゝも、

このたびハどんなためしをするやらな
これでしいかり心さだめよ          一五  6
いかほどにせつない事がありてもな
をやがふんばるしよちしていよ        一五  8
こらほどにさねんつもりてあるけれど
心しだいにみなたすけるで          一五 16
いかほどにさねんつもりてあるとても
ふんばりきりてはたらきをする        一五 17

と、今からでもよい。心さえ入替えるならば、必ず救ける、と見捨てる事のない親心の程を誌されて居る。更に、

このさきわたにそこにてハだん/\と
をふくよふきがみゑてあるぞや        一五 59
たん/\とよふぼくにてハのこよふを
はしめたをやがみな入こむで         一五 60

と、多くの人々が、広い世界から親を慕うて寄り集まって来る有様を見抜き見通して、よふぼくの成人を待ち望まれた。

人々は、親神の思召通りに勤めたいと希ったが、親神の急込んで居られる鳴物を入れてのつとめは、内緒に勤める事が出来ない。これを思う時、何でもよい、教会というものを置きさえすれば、教祖に御迷惑もかからず、つとめも仰せ通り出来るものを、と思った。
 
恰もその頃、乙木村の山本吉次郎から、同村山中忠三郎の伝手を得て、金剛山地福寺へ願い出ては、との話があった。これに対して、教祖は、

「そんな事すれば、親神は退く。」

と、仰せられて、とても思召に適いそうにも思えなかったが、秀司は、教祖に対する留置投獄という勿体なさに比べると、たとい我が身はどうなっても、教祖の身の安全と人々の無事とを図らねば、と思い立ち、わしは行く。とて、一命を賭して出掛けた。しかし、お供をしようという者はない。この時、岡田与之助は、足のわるい方を一人行かせるには忍びないと、自ら進んでお供した。両名は芋ケ峠(通称芋蒸峠)を越えて吉野へ出、金剛山の麓にある久留野の地福寺へと赴いた。秀司は、平地は人力車に乗り、山道は歩いた。峠では随分困り、腰の矢立さえも重く、抜いて岡田に渡した程であった。こうして地福寺との連絡をつけて、帰って来たのは出発以来三日目であった。

かくて、九月二十二日(陰暦八月十八日)には、転輪王講社の開筵式を行い、門前で護摩を焚き、僧侶を呼んで来て説法させた。応法のためとは言いながら、迂余曲折のみちすがらである。

明治十三年九月三十日、陰暦八月二十六日には、初めて三曲をも含む鳴物を揃えて、よふきづとめが行われた。人々は、官憲の取締りも地福寺の出張所も全く眼中になく、たゞ一条につとめを急込まれる親神の思召のまにまに、心から勇んで賑やかに勤めた。

開筵式を一つの契機として、講社名簿が整頓された。名簿は第一号から第十七号迄あって、中、第一号から第五号迄は大和国、その人数は五百八十四名、第六号から第十七号迄は河内国、大阪、その人数は八百五十八名、しめて千四百四十二名である。

しかし、かゝる応法の道は、勿論、親神の思召に適う筈はなく、度々激しい残念立腹のお言葉を頂いた。親神は、外部からの圧迫をも内部の不徹底さをも一掃して、たゞ一条につとめに励めと急込まれ、ひたすらに、たすけの道たるかんろだいのつとめによって、広い世界の人々の心を澄まそう、と思召された。

この年、秀司は上田嘉治郎と共に、丹波市分署へ一日留め置かれた。
翌年春の出直と思い合わせると、これが秀司にとって最後の留置であった。
 真之亮は、この年、十五歳で梶本の家から、元のやしきなる中山家へ移り住込むようになった。

河内国の松田音次郎、備中国出身で、当時大阪在住の上原佐吉等が信仰し始めたのも、この年である。(註一)

秀司は、この暮から身上すぐれず、翌十四年四月八日(陰暦三月十日)、六十一歳で出直した。第十二号に、

みのうちにとこにふそくのないものに
月日いがめてくろふかけたで         一二 118
ねんけんハ三十九ねんもいせんにて
しんばいくろふなやみかけたで        一二 119

と、親神は、道を創める緒口として、何不自由のない秀司の身体に徴をつけられた。その後、秀司は、艱難苦労の中を通り、又、常に反対攻撃の矢表に立って、具さに辛酸を嘗めた。教祖は、出直した秀司の額を撫でて、

「可愛相に、早く帰っておいで。」

と、長年の労苦を犒われた。そして、座に返られると、秀司に代って、

「私は、何処へも行きません。魂は親に抱かれて居るで。古着を脱ぎ捨てたまでやで。」

と、仰せられた。つゞいて、こかん、おはるに代って、それぞれ話された。
 元初まりの道具衆の魂は、いついつ迄も元のやしきに留まり、生れ更り出更りして、一列たすけの上に働いて居られる。

教祖は、第十六号の冒頭に、かんろだいのつとめの根本の理を明かされ、明治十四年の初めから、その目標たるかんろだいの石普請を急込まれた。この年五月五日(陰暦四月八日)、滝本村の山で石見が行われ、つゞいて五月上旬から、大勢の信者のひのきしんで、石出しが始まり、五月十四日(陰暦四月十七日)には、大阪からも、明心組、真明組等の人達が、これに参加するなど、賑やかな事であった。かくて、石材も調うた。

応法の道の鬱陶しさを追い払うが如く、陽気なかんろだいの石普請が始まった。この頃誌された第十六号に、

けふの日ハなにもしらすにいるけれど
あすにちをみよゑらいをふくハん       一六 33

と、今日の日はいか程多くの難関が横たわって居ようとも、何ものにも曇らされない親心に照らされて、明日にも明るい往還の道が見えて来る、と、力強く人々を励まされた。又、第十六号の末尾に、

もふけふハなんてもかてもみへるてな
こくけんきたら月日つれいく         一六 75
けふの日ハもふぢうふんにつんてきた
なんときつれにでるやしれんで        一六 76
さあしやんこれから心いれかへて
しやんさだめん事にいかんで         一六 79

と、極めて近い将来に、容易ならぬ時が来ると告げて、人々の心の入替えを促し、心定めを急込まれた。

秀司の出直後、日尚浅く、涙も未だ乾かぬ六月の或る日の出来事として、真之亮の手記に、

十四年六月、巡査六人出張し、上段間に松恵様ヲ呼出シ尋問ノ上、教祖様ノ御居間ニ至リ、種々尋問セシ処、変リタル事ナキヨリ、説諭ノ上帰りたり。前夜、此事夢ニ見ル。
と、誌されて居る。

明治十四年九月の御苦労は、十六、七日(陰暦閏七月二十三、四日)、止宿人届の手違いをきっかけとして起った。

当時は、蒸風呂兼宿屋業の鑑札を受け、これを秀司名義にして居たので、宿泊した者は一々届け出る事になって居たが、この頃は参詣人が急に殖えて来た為に、忙しくてその暇が無かった。九月十六日には、大阪から、この年二月に信仰し始めた梅谷四郎兵衞、それから岸本久太郎外十一名、十七日夜には、長谷与吉外五名等が帰って来て泊ったが、それを届け出なかった。この事が、忽ち警察の知る処となって、直ちに、まつゑはじめ主だった人々を呼び出した。しかし、まつゑは櫟本へ行って不在のため、秀司の出直後、後見役のように家事万端の取締りに当って居た山沢良治郎が呼び出されて、九月十八日(陰暦七月二十五日)付手続書をとられ、同月二十六日(陰暦八月四日)付七十五銭の科料に処せられた。又、まつゑの実家の小東政太郎は、まつゑ不在の旨を断りに行った処、時刻が遅れたとて手続書をとられ、まつゑの実印を代って捺したと言うては叱られた。(註二)

越えて、この年十月七日(陰暦八月十五日)には、多数の人々を集めて迷わす、との理由によって、まつゑ、小東政太郎、山沢良治郎、辻忠作、仲田儀三郎の人々を、丹波市分署へ拘引し、手続書の提出を命じた上、それ/\五十銭宛の科料に処した。教祖をも拘引し、手続書をとり五十銭の科料に処した。

当時、常にお屋敷に居た者は、教祖、まつゑ、真之亮、たまへ、梶本ひさ(後の山沢ひさ)、外に、仲田、辻、高井、宮森の人々であった。


但し辻は主として夜分、高井は月の中二十日位。山本は大てい布教に廻って居た。

この明治十四年のふしは、明治八年の御苦労以来、六年振りの出来事である。教祖はこの時既に八十四歳であった。

この年の或る日、教祖は、当時五歳のたまへに、

「子供は罪のない者や、お前これを頒けておやり。」

と、仰せられて、お召下ろしの赤衣で作った紋を、居合わせた人々に頒けさせられ、

「親神様からこれを頂いても、めんめんの心次第で返さんならん者もあるで。」

と、つけ加えられた。

かねてから、教祖は、

「こふきを作れ。」

と、急込まれて居た。蓋し、教祖のお話し下さる筋を書き誌せ。との仰せで、明治十四年に纏められた、山沢良治郎筆、「此世始まりの御話控」は、その一つである。

明治十四年春以来、かんろだいの石普請は順調に進み、秋の初めには二段迄出来た。第十七号には、元のぢばの理を詳らかに述べ、人間創造の証拠として、元のぢばにかんろだいを据えて置く。この台が皆揃いさえしたならば、どのような願もかなわぬという事はない。その完成までに、確り世界中の人の心を澄ますように、と、明るい将来の喜びを述べて、胸の掃除を急込まれた。

しかし、その直後思いがけない事が起った。石工七次郎が突然居なくなったのである。測らずも、石普請はこゝに頓挫した。

一見、偶然のように見えるこの出来事も、人々の心の成人につれ、又、つとめ人衆の寄り集まるにつれて、かんろだいは据えられる、と、第九号に諭されているお言葉と思い合わせると、護摩の煙に燻って、澄み切るには未だ早い実情であったと言えよう。それを思えば、この思いがけないふしも、実は、余りにも成人の鈍い子供心に対して、早く成人せよ、との、親心ゆえの激しいお急込みであった。

明治十四年五月には大和国倉橋村の山田伊八郎が、九月には京都の深谷源次郎が、信仰し始めた。

この頃には、講の数は、二十有余を数えるようになった。即ち、大和国の天元、誠心、積善、心実、心勇、河内国の天徳、栄続、真恵、誠神、敬神、神楽、天神(後に守誠)、平真、大阪の真心、天恵、真明、明心、堺の真実、朝日、神世、京都の明誠等である。

又、この年十二月には、大阪明心組の梅谷四郎兵衞が、真心組とも話し合った上、大阪阿弥陀池の和光寺へ、初めて教会公認の手続書を提出した。しかし、何等の返答も無かった。

註一 明治十四年二月七日には、堺県が廃止されて、大阪府に合併された。
註二
         就御尋手続上申書
                   大和国山辺郡新泉村平民
                           山沢良治郎
一、当国山辺郡三嶋村平民中山まつゑ祖母みきナル者赤キ衣服ヲ着シ家ニ者転輪王命ト唱ヘ祭り候始末就御尋問左ニ奉申上候
  此段去ル明治十二年五月比私義咽詰病ニ而相悩候ニ付医薬ヲ相用ヒ種々養生仕候得共頓ト功験無之ニ付転輪社ヘ参詣旁入湯仕候所早速全快仕候ニ付明治十三年一月比迄壹ケ月ニ壹度宛参詣致居候然ルニ前病気中自分相応之世話可致之心願ニ付仝一月比ヨリ壹ケ月中ニ日数十五日之蒸気湯之世話致居候処仝年八月来右中山まつゑ夫中山秀治存命中ニ中山秀治宅ヲ転輪王講社并ニ当国宇智郡久留野村地福寺教会出張所ト設定相成候ニ就而者私ヘ転輪講社取締并ニ講社出納方地福寺社長ヨリ被申付則辞令証モ所持罷在候且者中山秀治足痛ニテ引籠居候義ニ付仝人ヨリ依頼ニ而日々相詰居候所右秀治義者本年四月十日比病死後仝人家内始親族ヨリ依頼ニ付家事万端賄仕居候義ニ御座候然ルニ右詰中老母みきヨリ兼テ被申候ニ者
 四十四年以前ニ我月日ノ社ト貰受体内ヘ月日之心ヲ入込有之此世界及人間初而生シタルハ月日ノ両人ノ拵ル故人間ノ身内ハ神ノ貸物成ル此貸物ト云ハ
  目ノ潤ハ月サマ是クニトコタチノ命暖ハ日サマヲモタリノ命皮繋ハクニサツチノ命骨ハツキヨミノ命飲喰出入ハクモヨミノ命息ハカシコ子ノ命右六神ノ貸物成ル故人間ニハ病気ト云ハ更ニ無之候得共人間ハ日々ニ貧惜憎可愛恨シイ立腹欲高慢此八ツノ事有故親ノ月日ヨリ異見成ル故悪敷所ヲ病トシテ出ル此神ヲ頼メハ何れモ十五歳ヨリ右八ツノ心得違讃下シテ願上レハ何事モ成就スル事ト被申候
甘露台ト老母みき被申候ニ者人間始メノ元ハ地場之証拠是ハ人間之親里成故甘露台数拾三創立スル所明治十四年五月ヨリ本日迄ニ弐台出来上リ有之尤甘露台者石ヲ以テ作リ下石軽(マヽ)三尺弐寸上石軽(マヽ)壹尺貳寸六角高サ八尺二寸ニ御坐候然ルニ私共ニ於テ者参詣人ヘ対シ前記老母みき被申候義ヲ咄致候而己ニテ祈祷許候様者決テ仕間敷候右就御尋手続書ヲ以此段有体奉上申候也
 明治十四年九月十八日